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半月ほどは中傷に苛まれたが、だんだん人も飽きてくるのか、次第にライラに対するあたりは凪いできた。
見知らぬ人に追いかけられるようなこともあの日以来おきていない。
何度かレトランド公爵令息に接触を試みたものの、強固な令嬢たちの壁に遮られ、近づくこともままならない。
もうなんか寝てたことの口止めしなくていいんじゃないかな。
そんなことを思い始めていたある日、ライラは久しぶりに図書館に行った。以前は何度となく来ていたが、婚約破棄があってからは避けていた。
入るや否や、司書の女性と目があった。その表情は驚きから嬉しそうに変化する。
「まあまあ!ライラ様、よくいらっしゃいました。心配しておりましたのよ」
小柄のわりに恰幅の良い体付きの女性はここの司書をしており、よく図書館に来るライラはお世話になっていた。
下級貴族の彼女は最初こそライラに固い態度で接していたが、ライラの本好きを知ると、とても親しく接してくれるようになった。
「私ではなんの役にも立てそうにありませんが、どうぞゆっくり過ごしていってくださいませ」
それから、声を落としてライラに耳打ちした。
「気を落とさず、きっともっと良い男性と縁ができるはずですから!」
そう言い切る彼女に、ライラも自然と笑みが溢れた。ライラはもの静かではあったが、理解してくれる人もいてくれたんだとわかり、ほっとする。
「さぁさぁ、ライラ様がいらっしゃらない間に、お気に召しそうな本が入って来ていますよ」
にこにこしてそう話してくれる姿にじんわり心が暖かくなる。ライラの人生が真っ黒に染まってしまった、そんな気さえしていたが、それは違うんだと、家族や友人が教えてくれている気がした。
ライラは記憶にある図書館の隅にある席に向かう。静かで居心地のよい、本の世界に浸るには丁度いい場所。心なしか気持ちが浮上するのがわかった。
しかし、ある光景を見て、一気に気落した。いつもの場所に誰か先客がいたのだ。
せっかく気持ちよく本が読めると思ったのに。残念すぎる。
たくさんの本を積み上げているその様子を見ると、きっとすぐにはどきそうにない。
相手は次々にページをめくり、ある程度見るとパタンと本を閉じ、次の本を手に取っている。何か探しているのだろうか。
恨みがましくその席を見ていると、本をめくる手が止まり、視線が上がる。
そして目が合うとハッとした。本を次々にめくっては閉じていたのは、先日追っ手からライラを助けてくれたリンドール公爵令息だったのだ。
ライラは反射的に頭を下げた。
不躾に姿を見ていたのは良くない。それに、先日のお礼もちゃんとできていないと思ったのだ。
「先日は、ありがとうございました」
「ああ、いや」
なんのことかも忘れていたのかもしれないが、気にしている様子はないのでありがたい。
すぐに本に戻された視線にライラも諦めて他の場所に座ることにした。
公爵令息とは反対側の端。
いつもと見え方が違う景色に違和感を感じながらも、見慣れた景色にホッとする。
この図書館からは、街の景色がよく見える。赤色に統一された家々の屋根と、その向こうに広がる海のコントラストがライラは好きだった。
まるで1つの風景画のようなそれは、いつ見ても美しい。前世の菜々には見られなかった景色だ。
本を読みに来たつもりだったが、ライラはしばらくの間ぼんやりと景色を眺めていた。
そこへ突然声をかけられた。
「こんにちは」
見上げるとにこにこと微笑むレトランド公爵令息がそこにいた。優しい顔立ちの彼は、この笑顔が周りのご令嬢たちに人気なのだろう。
苦手だな。
ライラは残念ながら先日目があった時から苦手意識を感じていた。しかし、相手は公爵令息。そんな態度でいられる相手ではない。
ライラはすぐに椅子から立ち上がり、略式的な挨拶を取る。
「こんにちは、レトランド様。何か御用でしたでしょうか?」
目の前のにこにことした笑みは消えない。弟が仲良くしてるのだから、悪い人ではないと思いたいのだが、貼り付けた仮面のような笑顔がライラを戸惑わせる。
しかし、同時に制服の上着を着ていないのも気になる。あの上着はこの彼のものなのだろうか。
「制服の上着のことなんだけど」
ライラはやはりそうなのかと思い、視線を合わせるとにこりと微笑まれる。
「レトランド様だったのですか?」
「ヒストでいいよ、ミリクのお姉さんだから」
「ヒスト様だったのですか?」
「だったら、どうする?」
笑顔の割に挑発的な物言いに、すこしばかり面食らう。どうやら性格は可愛らしくないようだ。
「できれば黙っていて頂きたいのです」
ライラが俯き加減にそう言うと、ヒストは面白そうに笑う。
「黙っていてほしいって、何を?」
「そ、それは、その、ご存知のように」
「ちゃんと言ってくれないとわからないなぁ」
悪どい表情が見えるような言い方だ。ミリクはこんな性格の悪いやつとつるんでいるのか!と憤りたくなったが、公爵令息相手に声を上げるわけにもいかない。
「その、私が……」
ライラが話そうとしたところで、突然バタンと本を打ち付けるような音が聞こえた。
それは、ライラとは反対側の席からで、ハッと見上げると彼が本を閉じた体勢で、ライラたちを険しい顔で見ていた。
あ、煩かったのかも。
そんなふうに思い、慌てて謝ろうとリンドール公爵令息の方を向き直ると、彼はこちらに向かってツカツカと歩いてきた。
ヒストは涼しい顔をしているため、ライラが慌てて頭を下げる。
「も、申し訳ありません、煩かったですよね、すぐに退出致し」
そう言いきらないうちにリンドール公爵令息の声が被さる。
「いい加減にしろ」
どうやらそれはライラではなくヒストに向けられた言葉のようだった。わからず瞬きをするが、ヒストは微笑むだけで、リンドール公爵令息は不機嫌そうな表情をやめない。
「今はノルガン嬢と話をしてるんですが?」
いけしゃあしゃあとそう宣うと、リンドール公爵令息の眉間のシワはますます深まる。
「適当なことを言って誘導するな」
誘導されてたのか。
そう思いながらライラは首を傾げる。
「別に誘導してるわけではないんですが」
リンドール公爵令息は大きくため息をつくとライラを見た。ヒストと話しても埒があかないと思ったのだろうか。
「こいつは何もしらない。答えてやる必要もない」
ライラはその言葉にじっとリンドール公爵令息を見た。
「何故リンドール公爵令息が、そのように言い切れるのですか?」
「それは」
何故か言い淀むリンドール公爵令息にヒストが笑う。
「言わないなら僕が言いましょうか?」
「お前に話した俺がバカだったよ」
「むしろ感謝されたいぐらいですけど?」
***
時間は数日前に遡る。
リンドール公爵邸。
天使の微笑みと称されるほど、女子生徒に絶大な人気のレトランド公爵令息ことヒストが出されたティーカップに口をつける。
対面に座るのはここ、リンドール公爵家の令息、ハイスネス。
「この紅茶美味しいね。さすがリンドール公爵家」
「何しに来たんだ?」
2つ下のレトランド公爵家の嫡男は、なかなかの切れ者だとハイスネスは認識していた。歳が近かったこともあり、昔から遊んだりしていた。
唐突に現れたヒストにひとまずお茶を出させたものの、全く用事がわからない。
「自分以外のH.Rって、ハイネしか思いつかないんだけど」
ハイネとはハイスネスの愛称だが、突然イニシャルの話をされて困惑する。一体何を言いたいのか意図がわからない。
「それがどうした」
「制服の上着、誰かに貸した?」
唐突に繰り出された核心にうまくごまかせず固まる。
「誰かっていうか、まぁ、わかってるんだけどさ」
「なら聞くな」
「いや、ハイネが珍しいことするなと思って」
ニヤついた笑みを浮かべるヒストに眉を寄せる。
「ただ、寒そうに思ったからだ」
「へー?」
変わらない表情に結局全部の状況を説明させられた。
「なるほどね。それはそうと、なんか、探してるみたいだよ、その伯爵令嬢が」
「なんでわかるんだ」
「H.Rでしょ?伯爵令嬢の弟が僕の友達でさ、聞かれたんだよね。僕じゃないことはすぐわかったけど、もしかしてハイネのことかなと。僕の上着はそもそもちゃんと名前書いてあるし。名乗ってあげたら?」
「必要ないだろ」
「ま、どっちでもいいけどね。けど、僕も同じイニシャルだからさ、勘違いされちゃうこともあるよね?」
ヒストは紅茶を飲み干すと、カップをソーサーに静かに置いた。
「じゃ、僕はこれで。ごちそうさまー」
ひらひらと手を振りそのまま勝手に出て行った。
「何しに来たんだ……」
***
「たしかに俺が上着を掛けた。寒そうだったから」
そう白状したため、ヒストは非常に満足そうに頷いていたが、リンドール公爵令息は渋い顔をしていた。
「そうだったんですね。ありがとうございます。あ、あの」
ライラはお礼も早々に、焦ってリンドール公爵令息を見た。なんせ、外でふて寝をしているところを見られているのだ。今も外で寝ていたとは口にしなかったがたまたまかもしれない。
「その、な、何をしていたかは、黙っていて頂けませんか!」
恥ずかしくて俯いたため、リンドール公爵令息の表情はわからないが、すぐに「構わない」と返事をくれる。
「あ、ありがとうございます!」
そんなすぐに了承して貰えると思わず、思わず笑顔になる。ホッとしたライラは安心してしまい、目の前の二人の会話はほとんど耳に入ってこなかった。
横で見ていたヒストは「ふーん」と面白そうに笑っていた。
「ハイネはミリクに気をつけた方がいいよ」
「ミリク?」
「ノルガン伯爵令嬢の弟。ミリク・ノルガン、僕のこの性格についてもよく知ってる」
「へぇ、珍しい」
「ミリクは結構シスコンだからさ」
「……その情報は何なんだ」
「ただの助言だよ」
ふと気づいてライラはハッとしてリンドール公爵令息を見る。そして、隣にいるヒストを見る。
「あの、上着を掛けてくださったのに、何故……」
彼は上着を着ていて、ヒストが上着を着ていないのか。
「制服ぐらいみんな数着持ってるだろ?」
「たしかに!」
恥ずかしくて湯気でも出そうな勢いで顔が赤くなったのがわかった。おもわず両頬を押さえるが顔が熱い。
よく考えれば私も持ってる。なんせ今は貴族だ。2、3着持っててもおかしくない。
考えればわかることなのに!
「僕はただ暑いから脱いでた……は、嘘だけど、ノルガン嬢の興味を引こうと思ってさー」
「興味?」
「僕は自分じゃないことはわかってたし、ハイネだろうと思ってたからちょっと遊んでみただけ」
面白そうに笑うヒストになんとなく呆れた視線を送ると、彼はさらに笑った。
「その呆れた感じの目、ミリクにそっくり。彼も遠慮ないんだよねー」
弟は公爵令息に一体どんな態度をしてるんだろうか。心配になるが、自分もさしてかわらないということかと思い、苦笑いしておく。
逆にミリクと似てるなどあまり言われたことがないので、なんならちょっと嬉しい。
「ま、ちゃんと真実が伝わったようでよかったよ」
じゃあねとヒストは満足そうに去っていった。




