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あぁ、何やってるんだろ。
ライラはなぜか学園の庭園を走っていた。普段なら絶対にやらない、やってはいけない行為だ。学生とは言え貴族である、走るようなはしたない行為はしない。
が、走らざるを得なかった。
あれからまだ一週間ぐらいしか経っていないのに、記憶が戻ってから色々おかしなことが起きすぎる。残りの人生は平穏に生きたいと思ったのに。
制服の長いスカートの裾が足に絡まってきて、転びそうになる。後ろが気になるが気にしていたら簡単に追いつかれる。草木を踏む足音が気になるが、気にしていたら追いつかれかねない。
しかし、逃げ切れる自信もない。
どこか、隠れる場所を……!
なんでこんなことに!
始まりは一日の講義が終わってからに遡る。
すぐに邸に帰るつもりだったため、まだ残ると言っていたティナと別れた直後、見慣れない人に行く手を阻まれた。
男子学生の制服を着ているためここの生徒であることは確かだが、ライラの記憶にはない。
「何かご用でしょうか」
誰も通らない廊下。小さな声でも十分に耳に届いた筈だ。
「ノルガン伯爵令嬢だな、来てもらおうか」
まず自分が名乗るべきでしょ。
常識のないような人間を相手にする気は全くない。ライラは無言でくるりと行く方向を変えた。行く手をはばむと言うなら行く方向を変えるのみだ。
そのまま歩き出そうとしたライラを見ると相手は慌てて声を上げる。
「お、おい待て!!」
腕を強く掴まれ顔を顰める。ライラは相手を睨みつける。相手が貴族であろうとこのようなことは許される行為ではない。
「放しなさい」
ライラの言葉に男子学生は狼狽えながらも言い返す。
「婚約破棄されたようなやつが生意気な!」
そんなものは関係ない。狼狽したあたり、伯爵家以下の家柄か?だからこんなことができるのかと思いながら、腕の痛みが強くなり、ライラは反対の腕に持っていた鞄を大きく相手に振り上げた。
ブンッと風切り音がして、小気味良い音とともに男子学生は後ろへよろめく。腕を掴んだ手が緩んだ所でライラはその手を振り払うと、とにかく走った。
相手は貴族とは言え男。場合によっては運動神経がよければ、すぐに追いつかれてしまう。
単純に走ってはダメ。なるべく複雑に!
迷路のような学園内は、そういう意味では好都合だった。
こういうときに限って人が全然いない場所に向かっちゃってる!
せめて教員がいる方に向かえれば解決できたかもしれないが、望むところへは完全に行けそうにない。
がむしゃらに走ると、外へと続く扉の前まで来た。一瞬躊躇ったが、見えた深い木々に、ライラは選択した。
行こう……!
学園の庭は広い。校内を走り続けるにはライラの体力がもたない。それよりは、隠れる場所を探したい。
なるべく木々が立つ場所へ向かう。身が隠せそうな場所を探して走るが、後ろからもまだ走る足音が聞こえる。
く、苦しい……!体力ないんだった。
今更そんなことを考えても仕方ない、とにかく足を動かさなければと、体を叱咤するもの、だんだんと速度が落ちて来たのがわかる。
相手が誰かもわからず、執拗に追いかけられるのに、捕まるわけにはいかない。
そうは思いながらも、ライラの脚はすでに限界に来ていた。ハッとしたときにはスカートの裾に足を取られ倒れた。
どうしよう!
近くにあった木に身を潜め息を殺す。
「どこ行きやがった……、この辺りのはずだ……」
近くから聞こえる声に恐怖に身を縮める。見つからないように祈るしかない。
「……さっさと出てこい!どうせすぐに見つかるんだぞ!」
イライラとした声が聞こえて来たが、こんな言葉にのってはいけない。見つけられていないからあんなことを言っているのだ。なんとか自分の気持ちを落ち着かせる。
「連れて行かないと何をされるか……」
ぶつぶつと呟いたような声に首をひねる。
誰かに言われたということ?一体誰が。
「そこで何してる」
唐突に上から予期せぬ声が降って来た。ライラも驚いて危うく声を上げそうになったが、慌てて手で口を塞いで事なきを得る。
男子学生の方は、驚いて後ろに飛び退いたのが見えた。
「誰だ!」
上から声が降って来たと思えば、今度は人が上から降って来た、いや、飛び降りて来た。ちょうどライラが隠れた木の上からだ。
隠れているライラからはよく見えないが、ちょうど男子学生とライラの間に人が降って来た形だ。
「わからないか?」
声の主は高いでも低いでもないよく通る声。淡々と相手に告げる声は冷たい。ライラを追いかけていた男子学生が息を呑むのが聞こえた。
「リンドール、公爵令息……!も、申し訳ありません!」
慌てて声が聞こえる。
「名前は」
「……、マルス・サイです」
「ここは俺が気に入って使ってる場所だ。今すぐ去れ。そして、二度と来るな」
「わ、わかりました!申し訳ありませんでした!」
ライラを追いかけてきたのはサイ男爵家の息子だった。
なんでサイ男爵家の人が?
理由を考えようと記憶を探ろうとした所で、頭のすぐ上で声がした。
「大丈夫か」
ハッとして見上げるとすぐ上に、見知らぬ男子生徒の顔がそこにあった。銀色の髪に、少し鋭い青い瞳の端正な顔立ちの学生は、先程の追いかけて来た生徒とは別人だ。
サイ男爵家の息子は何と呼んでいたか。
リンドール公爵令息。そうだ、もう一人の候補!
と記憶が繋がったものの、顔が近すぎて動けず固まっていると、近くに手を出された。そのまま手を見つめていると、困ったような声が発せられる。
「立てないのか?どこか怪我してるのか?」
この手はどうやら立つのを手伝ってくれるための手だったらしい。ライラも慌てて首を振る。
「い、いえ!」
差し出された手を借り、なんとか立ち上がる。見ればスカートは草木や土で汚れている。令嬢としてはあるまじき格好だ。
「ありがとう、ございます」
ライラがお礼を言うと公爵令息は特に気にした様子もなかった。
ライラが公衆の面前で婚約破棄されたことを知らないのだろうか。特に何も言われないことに、ホッとしてしまう。誰も彼も会うたびに何かを言いたがる。
ふと再度目の前の彼の姿を見るが、制服の上着を着ている。
ということは、やはり今朝見たレトランド公爵令息の方が?
などとぼんやり考えていると、さらに心配そうな声が降りてくる。
「おい、大丈夫か?やっぱりどこか怪我でもしてるのか?」
「あ、いえ、大丈夫です。少し考えごとを……!」
慌てて言い訳をすると相手は少し眉を寄せた。
「門まで行くぞ」
そう言うと歩き出す。
「え?」
動けずにいるライラに、公爵令息は少しだけ振り返る。
「また追いかけられたくはないだろう?俺が少し前を歩いてれば無闇に何かしてくるやつはいない。門まで行けば家の馬車でも待ってるんだろう?」
彼の言葉に慌てて頷く。
ライラは彼の後ろを少し離れて歩き始めた。特に会話はなくただ距離を取り歩いているだけ。それだけだが、とにかく追いつかれる恐怖に走り回っていたライラにしてみれば、安心して歩けた。彼がいる限り先ほどの男は来ないと言い切れる。疲れている彼女を気遣ってなのか、公爵令息の歩く速度も遅い。
校舎近くまで来た所でちらほらと生徒の姿が見え始めた。
このままだと迷惑をかけてしまうかも。今の私と一緒にいてはろくな噂が立つ気がしない。
「あ、あの。ここまでで十分です。ありがとうございました」
ライラの言葉に少しだけ振り返ると、軽く頷く。そのままリンドール公爵令息は、門から校舎の方へ向きを変えて歩き始めた。ライラはその後ろ姿に少しお辞儀をして、足早に家の馬車が待つ門前へ急いだ。
***
「え、ちょっと、そんなことあったの?!聞いてないんだけど!?」
どうやら学園内にライラがいないことに気づき慌てて帰ってきたミリクが、事情を説明すると驚いて声を上げる。
「サイ男爵家ってあいつだよな、僕と同じ学年の。なんであいつが」
「誰かに言われて動いてたみたいだけど……」
ライラの言葉にミリクが首を傾げる。
「理由はわかんないけど、……とりあえずシメておくね」
そう言って何やら考え込み始める。
ミリクが動かないためライラもぼんやりと立っていると、その間に兄が帰ってきた。帰ってくるなりライラたちの方に向かってくると、何やら紙を取り出した。
「正式に婚約は破棄された。よかったな」
兄の言葉にライラはホッとする。
「はい。ありがとうございます」
もうあの元婚約者とは無関係だと思うと、心なし気分が上昇する。ただ、家には迷惑をかけてしまっているため、簡単には喜べない。
「そういえば、レトランド公爵令息の件だけど、聞いてみたけどなんかはぐらかされたよ。なんなんだろう?」
「そうなの?」
やはりレトランド公爵令息がライラに上着をかけてくれたのだろうか?あの時目があったのもそういうことなのだろうか。それでいて黙ってくれているということなのかもしれない。実際上着を着ていなかったのだから、そうなのかもしれない。
そう思いながら少しの違和感と共に、自分に言い聞かせるように頷いた。
どう交渉すればいいのかしら。でも、そもそも交渉する必要あるのかしら。
「こんな所で立っていないで、祝いでもしよう」
「祝い?」
「無事に婚約破棄できたんだ。めでたいだろ?」
「確かに」
兄とミリクのやり取りに、苦笑する。
「じゃあ兄さんいいワイン出してよ」
「お前まだ飲めないだろ」
「じゃあお高いお茶の葉」
「……、今日だけだぞ」
「じゃあ、せっかくなので私お菓子を作ってもいいですか?」
ライラの言葉に、2人は驚いたような表情をする。
「ライラが?」
「姉さんお菓子なんて作れるの?」
そう言う2人に、しまったかな?と思う。当然お菓子作りの知識はライラのものではない。
前世ではストレス解消の一つの手段としてお菓子作りをしていた。何より完成という成功体験を短時間で行える素晴らしい手段だ。
「作れますよ」
溜まったストレスを解消するには丁度いいかもしれない。そんなことを思いながらライラはキッチンで簡単な焼き菓子を作ると、兄弟に振る舞ってみせた。