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邸に帰ると珍しく父親が待っていた。
それはそうか。もう耳に入ってるよね、婚約破棄をされたこと。
相手は侯爵、こちらは伯爵。父にしてみれば願ってもない縁談のはずだ。
父の書斎に呼ばれて立ち尽くす。何を言われるのだろうか。そう思いながら俯いていると、声をかけられる。
「大変だったな、守ってやれなくてすまない」
思いがけない言葉にハッとして顔を上げる。父はとても難しい顔をしていた。
「良い婚約だと思っていたのだが、とんだ婚約者だったようだな。正式に婚約破棄の手続きをすることになるが、よいか?」
「構いません」
ライラは父の目を見てはっきり答えた。
こんな婚約続けていたところで、なんの意味もない。メリット無い上にデメリットしかない。元婚約者には好意のかけらもない。それはライラも同じだ。
「正直向こうの都合とはいえ、婚約破棄されたと言うのは、世間から見ればいい印象はない。今後、あまり良縁は見込めなくなるだろう」
「ご迷惑をおかけします」
おそらく父としては早く結婚をして家を出て行って欲しいと思っているだろう。兄も弟もいるのだから、この家の跡取りは十分。女のライラがいても仕方ない。
「いや、お前が悪いわけではない。私の判断ミスだ。お前にはつらい思いをさせる」
「いえ、私は大丈夫です」
「そうか。では手続きは私の方で進めよう」
「お願いします」
ライラは頭を下げて書斎を出た。
扉を閉めるとすぐに人が立っていた。
不機嫌そうな顔の兄・アトラスと、悲しそうな表情をした弟・ミリクだ。二人ともライラと同じく亜麻色の髪に、緑の瞳を持つ、よく似た兄弟だった。
兄とは歳が10も離れており、王城勤めをしていることもあり、普段はなかなか顔を合わせない。弟は同じ学園に通っているため会いはするが、そこまで普段から常に一緒に行動しているわけでもない。
こんな時間に二人とも邸にいるということは、やはり自分のせいなのだろうと思い頭を下げる。
「お兄様、ミリクにもご迷惑をお掛けしているようで、申し訳ありません」
ライラの言葉にアトラスはフンと鼻を鳴らす。
「お前の婚約破棄ぐらいでは迷惑にもならん。あの婚約者は、ろくな奴じゃなかった。さっさと婚約破棄するのが正解だ。そのうちわかるだろう」
「そんなことより!姉さんは大丈夫なの?!」
ミリクの言葉にライラは首を傾げる。
「ええ、大丈夫よ」
「ホント?無理してない?辛くない?」
「えぇ、むしろ清々してるわ」
泣いたのは内緒だ。
その言葉にアトラスとミリクが目を見合わせる。そして、少し二人して破顔する。
「お前も言うようになったな」
「なーんだ、安心した!」
二人はそう言うと、私を間に挟むように歩き出す。
「てっきり泣いて混乱して自棄になると思っていたのだが」
「姉さんのことだから、部屋に引きこもってもう出てこないかと!」
兄も弟もどうやらライラを心配してくれたらしい。そんな二人にライラは思わず笑みが出る。
その様子に二人は心底安心したようだ。
「ライラ、お前はなんでも一人で抱え込みがちだ。こうなる予感がしてたんじゃないか?」
それはなんとなく感じていた。異世界召喚された少女と仲睦まじい姿が見えた頃からずっと。しかし、元婚約者に好意もなく、何かするのも億劫で、そのままにしていた結果があれだ。
「相談してくれれば、力になれた。困ったときは頼ってくれ。俺ももう少しお前の様子を気にかけるべきだった。今更だが」
兄はもしかしたらとても後悔しているのかもしれない。たしかに兄に相談していたら、もう少しマシな形で婚約破棄できたかもしれない。あんな人前で声を上げられるような形ではなく……。
「学園はどうするの?」
ミリクがライラの顔を覗き込んでくる。どちらかと言うと可愛らしい顔の弟が首を傾げて聞いてくる。
「行くわ。卒業までまだあるし」
そう答えた私に兄は驚いた顔をする。
「行くのか?」
「婚約破棄されたからって学園を休む理由にはなりませんよね?」
「まぁ、そうだが……」
「なら行きます。休んでも私に利はありませんし」
苦笑いしてそう言うと、兄が端正な顔で首を傾げる。ちょっと可愛くなる。
「お前何か変わったな」
「え」
ギクリとした。兄は鋭い。たしかにいつも大人しい妹の言動ではなかったかもしれない。でも、菜々はライラにはなれない。それでも、今は菜々はライラだ。
「あんな風に婚約破棄されたら、劇的に変わらないとやっていけません」
そう言うと、兄は特にそれ以上何も言わなかった。
「あ!お兄様、学園にいるH・Rというイニシャルの男子生徒を探したいのですが、何かいい方法ありませんか?」
話を変えるために別の話題を振った。どちらにせよ口止めのために調べ出さねばならないと思っていたのだ。
「なんだ?今は謎解きでもはまっているのか?」
「いえ、ちょっと事情がありまして……」
ちゃんと説明することはできない。何故なら外で昼寝したことまで言わなければならなくなるからだ!
目をそらしながらそう言うと兄はため息をつきながらも提案してくれる。
「貴族名鑑でまず家名にRがつく家を絞るんだ。その家の中に学園に入学する対象年齢がいるかどうかだな」
「貴族名鑑」
基本的にはすべての貴族について家系図が記載されている本だ。しかし、簡単には閲覧できない代物だ。貴族には血生臭い事情が多すぎる。
「まぁ、そうは言ってもRが付く貴族はそういない。レトランド公爵、リンドール公爵、リノン伯爵、ルンデラン伯爵、ロング伯爵、ラティーマ男爵、レニストード男爵。それぐらいだろう」
さらっと言ってのける兄に感心する。
「さすがお兄様」
拍手したくなった。
「この中で今学園に通っているような息子がいるのは、レトランド公爵、リンドール公爵、ラティーマ男爵の三家だろ」
「そこまでわかるんですか?」
兄はにやりと自慢げに口の端をあげるとそのまま続ける。
「レトランド公爵の息子は、ヒスト。リンドール公爵の息子が、ハイスネス。ラティーマ男爵の息子が、アシード。……、H・Rなら公爵子息のどちらかだな」
貴族名鑑必要ないじゃんと思いながら聞いていたが、どちらもライラにとってはあまり関わったことのない人物だった。残念ながら顔も思い出せない。
「ヒースなら、ヒスト・レトランドなら僕がわかるよ。何か知りたいなら聞いてみようか?同じクラスだからすぐに聞けるよ」
なんと弟よ、レトランド公爵子息と友人関係にあるのか?愛称呼びなんてやるわね。私なんて伯爵の友達なんて全くいないのに。むしろ友達自体が少ない。
せいぜいティナぐらいね。そういえばティナにも言わずに帰ってきちゃったな。
唯一ライラの友達と呼べる人物。
ティナーリア・ポートランド。ポートランド伯爵令嬢だ。
「姉さん?」
ミリクがまた首傾げ攻撃をしてくる。この弟はどこへ進む気なのか。
「えっと、そうね、制服の上着をなくしていないか、知りたいわ」
「制服の上着?ってこれ?」
ミリクがまだ着ていた制服の上を指差す。不思議に思ったようだが、特に理由は聞かずコクリと頷くとミリクは同じように頷いた。
「わかったよ。聞いてみるね」
「ありがとう」
ミリクにお礼を言い、アトラスにも向き直る。
「お兄様もありがとう」
「これぐらいなんでもない。それより、せっかく早く帰ってきたんだ、お茶でも飲もう」
「はい、そうですね」
あぁ、全然寂しくない。むしろ、心はとても温かい。
菜々の頃は、仕事は充実していた。理不尽なことはいっぱいあったが、それでも自分がした仕事が報われると嬉しかったし、達成感があった。しかし、ふと仕事から離れると、ふとした寂しさや虚しさに襲われることがあった。
あれ?何してるんだろ、これでいいんだっけ?
部屋に一人、友達との約束もなく、彼氏は当然いなかった。休みの日が怖い。むしろ休日出勤があると安心する。
そんな、どこかおかしな状態。
ここは温かいなぁ。
そんなことを感じる。例え、あんな婚約破棄をされてもだ。この世の終わりじゃない。ただ、1つの婚約がなくなったに過ぎない。家族は心配してくれる、近くにいてくれる。それだけで十分幸せだ。
ライラのために記憶が戻ったのかと思っていたが、実は逆なのだろうか。
「私のため?」
「姉さん?行くよー」
「えぇ、今行くわ」
もしかしたらライラのためじゃなく、前世の私のためなのかもしれない。