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医務室へ行くとすぐにハイスネスは治療師によって怪我の治療を受ける。腕の怪我は結構深く切れているようで、ライラは青ざめた。
「ハイネ様……」
口元を手で押さえ震えているライラに、ハイスネスは大丈夫だと伝える。
「ライラ嬢、今日は早く帰って休んだ方がいい。俺はもう少し処置が残るだろうから」
ハイスネスの言葉に治療師にも促され、ライラは医務室を追い出された。側にいても、何もできないが、自分だけひとり先に帰ることもできず、医務室の前で待つことにした。
先程までの出来事を思い出すと自然と足がすくんだ。簡単に繰り出される魔法で、容易く崩れる壁。赤紫色の光に恐怖を感じる。
もう力を使った本人は捕らえられたため、二度と起きるはずはない。しかし、目の前でハイスネスの血が飛んだ映像は強烈にライラの記憶に残っている。
少しズレていれば首が切れていたかもしれない。その場合はおそらく今より深刻な状況になっていたかもしれない。
遅れて震えがやってくる。
前世でも経験したことのない、死を間近に感じる出来事だった。前世はおそらく交通事故死だが、その死については菜々自身は感じていない。恐怖を感じることもなくその生は終わったのだ。しかし、今回は違う。
あ、ダメかも。
そう思った時、目の前の医務室の扉が開き、処置を終えたハイスネスが出てきた。ライラを見ると驚いた顔をして、駆け寄ってくる。
「すまない、全然気が回らなくて」
そう言うとライラの頬にハイスネスの手が優しく触れた。頬には涙が流れていて、未だに震えが止まっていない。
突然足元から地面が無くなり、ライラは驚いて横を見ると、ハイスネスに横抱きにされていた。あまりに驚いて涙が多少引っ込んだ。
「ハイネ様?!」
「場所を移動しよう」
「お、下ろして下さい!」
「歩けないだろう?」
そう言うとハイスネスはスタスタと歩き始め、全くライラを下ろそうとはしなかった。
着いたのは学園の庭園の奥まった場所。つまり、いつものハイスネスの気に入っている、場所だった。
ハイスネスは緑の芝の上にゆっくりとライラを下ろす。連れられている間に、ライラの心は少し安定を取り戻しつつあった。
「すみません、ご迷惑を」
「いや、あんなことがあったのにひとりで帰らせようとしてすまなかった」
そう言われてハッと気がついた。
あの場から離れられなかったのはひとりになりたくなかったからだったのね。32年の記憶があるのに、情けない……。
悲しくなり俯いているライラに、ハイスネスが視線を向ける。
「生きていることを、確かめても?」
「え?」
意味がわからず首を傾げると、ハイスネスに引き寄せられた。彼の胸に顔を埋める形になり、一気に体温が上昇する。ドキドキと心臓の音がうるさい。
ハイネ様に気づかれませんように!
あまりにバクバクと大きな音を立てていそうな心臓に、静まれ静まれと祈っても効果はない。しかし、顔を寄せているハイスネスの胸の音も少しばかり早く鼓動していることに気がつく。
自分だけじゃないのかも。
そう思うと少し安心し、ふふと笑みが漏れる。
「なに?」
ライラが笑ったことに気づいたのかハイスネスが尋ねる。ライラは少しだけ顔を上げて聞いてみた。
「ハイネ様も緊張します?」
「……、好きな女性を抱きしめているのだから当然だろう」
そう返されてしまい、逆に真っ赤になって俯くしか無くなってしまう。そんなにはっきり好きな女性だと言われるとは思わなかった。
「ひとつ聞いておくべきだったのに、聞かなかったことがあるんだが、今聞いても?」
どうやらまだ解放はしてくれないようで、腕の中に閉じ込められたまま、ライラは頷いた。
「元婚約者のことは、好きだったのか?」
予想斜め上の質問にライラの頭は疑問符だらけだ。
「いえ。特に」
それ以上の答えがなく、ライラがあっさりした返事を返すと、ハイスネスは心底ほっとしたような言い方で「よかった」とだけ呟いた。
「ライラ嬢に危害を加えた者たちは、皆あの異世界人に操られていた。おそらく、元婚約者の彼も」
あの婚約破棄自体、婚約者の意思ではなかった。ただ、そう聞いても特にライラの感情は動かなかった。もともと元婚約者に特に恋愛的な感情も無く、家同士の決めたものという認識だった。記憶を思い出す前のライラも、あまりそこへの執着はない。しかも、ほとんど婚約者とまともに出かけたこともなく、お互いにあまり興味関心がなかった。
だからこそだったのかもしれない。
「もし、婚約破棄に異議申し立てがあった場合、戻ることを望むなら」
その言葉に、ライラはハイスネスの腕の中で首を横に振った。
「望みません。……ハイネ様がいいです」
するりと出て来た言葉にあわあわしていたが、そんなライラを包む腕の力が強くなった気がした。
私はハイネ様のことをどう思ってるんだろう。
顔を見ると、側にいると、その腕に抱きしめられると安心する。
菜々のときは、仕事に追われて、碌に恋愛なんてしてなかった。毎日がただ義務のように過ぎていくだけの日々。ただ、仕事しかなかった。
ここにいるととても心が温かくなる。家族も友人も私を心配してくれて、ひとりじゃないと思える。
ハイスネスといる時は、彼の公爵令息と言う身分にどうしても構えてしまったが、一緒にいることに不安はない。
まだはっきりとした恋愛感情には、なっていないかもしれないが。
好き……、なのかな。
ひとりで考え、ひとりで赤くなる。
こっそり上を見上げるとすぐにハイスネスと目が合う。彼はとても嬉しそうな笑顔を見せ、ライラは撃沈する。
ダメだ、攻撃力が高すぎる。敵わない。
戦う必要性はないのにそんなことを考えてしまう。それでもなんとなく悔しくて、ライラはそっと自分の両腕を、ハイスネスの背中に回した。おずおずとその背中に触れる。
どうかな?と思いちらりと視線だけ上に上げると、破壊力が増した笑顔のハイスネスがいただけだった。
うぁあああ。もう、無理!!
思わず背中に回していた手は離し、ハイスネスの体を押し退ける。ただ、真っ赤になっただけのライラのできあがりだ。
「ハイスネス様は、笑顔禁止でお願いします」
理不尽なことを言い出したライラに、ハイスネスが首を傾げる。
「何故」
「私がどうにかなりそうなので」
ライラの言葉に、スッと表情を変えたハイスネスは、急に彼女の右手を取る。
「ライラ嬢、好きだ」
真顔もダメだったぁあああ!!
これ以上どうにもなれないぐらいに真っ赤になったライラに、ハイスネスは満足そうだ。何か返さなければと思ったライラは、何とか俯きながらも口を開く。
「……、私も、ハイネ様と一緒にいるととても安心します。まだ、この好きと言う感情が、恋愛的なものなのかよくわからないですけど」
その言葉に、ハイスネスは驚いたような顔を見せてから、とても嬉しそうに笑った。
「いや、今はそれだけで十分だ。こちらを見てくれるだけで」
もう一度強く抱きしめられ、ライラはそれに応えるように返した。
記憶を取り戻してから、良いことなんてひとつもないように感じてたけど、そんなことなかった。
自分のことを見てくれる人がいて、自分が目を向ける先がある。
たぶん、私はとても幸せね。
次エピローグで完結です。




