13
それから2週間ほどは落ち着いたいつもの学園生活を送っていた。
しかしある日、学園の廊下でひとりの女子生徒に声をかけられる。少し暗いあまり人通りの多くない廊下は、静寂に包まれており、小さな声もよく通る。
「ねぇ、あなた」
長い真っ直ぐな黒髪に黒い瞳の女子学生のことは、よく見れば全く見知らぬわけでもないことに気づいた。
思い出すのは、ここ最近での最も嫌な記憶。人前で婚約破棄を言い渡されたそのとき、婚約者の隣にいた異世界人。それが彼女だった。
彼女は目が合うと、ライラににこりと微笑んだ。
「婚約者、返してあげる」
その言葉にライラは理解が追いつかない。相手はただ、微笑みなんなら「嬉しいでしょ?」と言う表情だ。
何を言っているんだろう。
意味がわからない、それがライラの感想だ。もう正式に婚約は破棄されてるし最早ライラには何の関係もない。なぜ返すなどと言ってくるのだろうか。
「この間ね、この国の王子様にあったの。そしたら、彼と比べ物にならないぐらいかっこよくて。王子様の方がいいなって。とりあえず手近なところから攻めちゃったけど、やっぱり楽しむなら王子様よね」
あぁ、なるほど。
頭の中では冷静に納得する。だが、返しますと言われて、はいそうですかと言うわけにはいかない。国王から正式に認められて婚約破棄をしている以上、ライラには関係のない話だ。
「私にはもう関係のない話です。どうか、ご本人にお伝えください」
ライラはそれだけ言って立ち去ろうとすると、腕を強い力で掴まれる。
「言えるわけないでしょ。あなたから願い出てよ。あなたが婚約を戻したいって言ったら、それで丸く収まるでしょ?貴女もそれで名誉が保たれるんでしょ?」
なんて自分勝手なことを言うのだろうか。婚約破棄を言わせたのも彼女だろうに、戻ることまで要求して、丸く収まるという考えに至る方がどうかしている。
「国王陛下に認められて婚約破棄をしております。それは簡単には覆せません」
そう言ったライラに、「うそでしょ」と言う呟きが聞こえる。
幼馴染とこの異世界人の少女があの後正式に婚約したのかどうかはライラは知らない。そもそも何を理由に婚約破棄されたのかも知らない。大した理由ではないだろうが。
「では、失礼します」
そう言ったが、腕は掴まれたまま離して貰えない。むしろ掴む力が余計に強くなった気がした。この少女のどこにそんな力があるのか。痛みに顔を顰める。
「でも、婚約破棄したってどうせまた同じ人とだって婚約できるんでしょ?それでいいじゃない」
国王の承認をなんだと思っているのか。非常識な考えに頭が痛くなる。これ以上話しても埒が明かない。
「離して下さい」
「ねぇ、良いでしょ?あなたもそれで良いって言ってよ。そうしたら後はどうにかするから」
ぎりぎりと掴まれたところが、熱を持ったように熱い。普通の力ではないと感じ、少女を見ると目の色がおかしい。先程まで黒かった目が、赤紫色の光を帯びている。
なに?!
「ねぇってば」
チリチリと制服の下の一部が焼けるように痛い。それに合わせてそこから謎のぴりぴりした痛みが急に広がる。思わず声にならない悲鳴を上げる。その痛みは腕から広がるように、ライラの身体を這っていく。
「っ……!」
痛みに耐えられなくなり、ライラの身体が倒れるように膝をつく。
「ちょっと、重いんだけど!」
腕を掴んだままの少女はライラに文句を言う。立ち上がらせようとする少女の腕を、誰かがライラから引き離す。
「何をしている」
ライラを庇うように現れたのは、リンドール公爵令息だった。座り込んでいるライラを庇うようにしゃがむと、彼女の顔色が悪く、額に異常なほど汗をかいており、左腕の制服の様子がおかしいことに気づく。
ハイスネスはすぐにライラを横抱きに抱えた。普段なら抵抗したはずのライラも、まともに動くことさえできない。
「ちょっと、今は私と話をしているのよ!」
異世界人の少女のことなど無視し、ハイスネスは医務室へ急いだ。
医務室へ着きすぐに治療師に事情を説明すると、備え付けられたベッドに寝かせるように言われる。その後は、カーテンが引かれ、ハイスネスはただ待っているしかなかった。
治療師によると左腕の一部が火傷をしたような状態になっていたらしい。おそらく跡は残らないだろうが……と言うような説明だった。
(もっと早く見つけられたら)
そう考えるが、見つけたのも偶然に過ぎない。ハイスネスは早々に医務室から追い出され、授業に出るように言われた。
正直授業に出る気分にもならず、いつもの学園内の庭園へ向かう。人がいない静かな場所が、ハイスネスは気に入っていた。
ライラの腕を掴んでいた人物を思い出す。長い黒髪に黒い瞳の女子学生で見覚えがあった。割と最近現れた異世界人だったはずだ。どういう経緯でこの世界に来たのかは知らないが、腕を掴んでいただけで火傷など異常すぎる。何か道具を持っていたわけでもない。
苦しげなライラの顔を思い出し眉を寄せる。何故彼女ばかり立て続けに、不幸なことが起こるのか。
「あの異世界人は能力持ちか?」
ないことはない話だった。過去の異世界人によってはこの世界とは異なる力を持っていたと言う記録は残っている。しかし、今回の異世界人については特段能力はないと言うことを王太子殿下が話のネタの一つとして言っていた。
(隠している?)
能力については本人の申告がない限りこちらにはわかりようがない。本人の意思で黙っている、または隠している場合には全くわからない。
(殿下への報告案件だな。何も解決する気がしないが)
そんなことを思いながら、結局頭の中はライラへの心配で埋められる。どんなに考えたところで最後はそこだ。
大きくため息を吐く。
彼女と話すことがあれば、聞いてみたいことがあった。ずっと頭の片隅で思いながらも、未だにそれについては尋ねられてはいない。聞かない方がいいのかもしれないと思うところもあるのだ、あの図書館で拾ったメモについても。
ぼんやりと芝生の上で寝転がりながら、うたた寝をしていると、ふと真上が陰ったような気がして瞼を開ける。
「あ」
そう声を上げたのはハイスネスを覗き込んでいたライラだった。驚いて慌てて身を起こすとライラと頭がぶつかり、お互い声にならない痛みに堪える。
「すまない……」
「いえ、こちらこそびっくりさせてしまってごめんなさい」
ライラは、自然にハイスネスの隣に腰を下ろした。
「リンドール様が医務室まで運んで下さったんですよね。ありがとうございました」
「いや。それより、腕は」
「まだ痛みますけど、掴まれていた時は身体中が痛かったので、それに比べたら……」
と苦笑いする様子が痛々しい。
異世界人が相手ではほぼ手が出せない。手厚く保護することが決められており、余程のことが無い限り、彼女を罰することは難しい。
ライラも泣き寝入りせざるを得ないことを理解しているのだろう。
「私、なんでこんな目にあうんでしょうね」
それはおそらく今回のことだけでなく、婚約破棄や、サイ男爵子息に追いかけられたことなども含まれているのだろう。
「異世界人には何か言われたのか?」
ライラは頭を伏せたまま話す。
「元婚約者との婚約を戻すように言われました。王太子殿下の方がいいからと」
ハイスネスは怒りが頂点に達した気がした。あの異世界人が原因で婚約者から婚約破棄をされたはずだ。勝手すぎるにも程がある。
「元に戻ればあなたの名誉が保たれるでしょって」
あり得ない。
一度傷つけられたものが元に戻ることもないし、元の鞘に収まったとしてもいい笑いものだ。
「……、何か前世で悪いことしたかな」
膝を抱えて頭を伏せたままの言葉は聞きづらかった。慰める言葉が見当たらない。言葉なんて何の意味も持たない気がした。
「ライラ嬢と呼んでもいいか?」
唐突すぎる質問にライラが慌てたように体を起こす。
「あ、あの?」
「クレアは名前で呼んでるだろ?」
「えっと、それは」
「俺のことも、ハイネでいいから」
「え?ですが」
困ったようなライラに、ハイスネスは畳み掛ける。困る理由はわかっている、ライラはともかく、ハイネは愛称であり、ごく親しい間柄で呼ぶものだ。
「呼んでほしい」
ライラは幾らか瞬きしたのちに、少し目を泳がせ口を開く。
「……、ハイネ様」
たぶん、ハイスネスの身分の高さ上、仕方なくなのだろうが今はそれでいい。
「ライラ嬢、どうせならもう一つぐらい大変なことを引き受けてくれ」
「はい?」




