― みんなトンカツが好きでした(3) ―
◆尺八と着火
幸い店の業務が手空きだったので、帳場に四人が集まって現場で採取した線について検討を始めた。
「紙風船による爆発実験はそれとして、この線についてみんなの知恵を借りたいんです。さっきも話したように、おそらく着火方法に関係していると思うんです」
平太は口を開いた。
「さっきも平太や太一と話したが、爆発自体は起こるんだろうと思う。が、問題は平太が言うように着火方法だよな。これが解けて、実際に実験で使用できれば犯行の手段については謎解き完了だ」
「一連の事件の謎解きは半ば村田様の依頼であって、何らかの結論は報告しなくちゃならねえと儂も考えている。そのためには、お前ぇらの言うとおり中途半端な結論じゃ洒落にならねえ。忠助の言うように犯行の手段だけは完璧に解明しなくちゃな。それ以降の犯人像や容疑者についちゃ儂らにゃ無理だ。それは奉行所に任せるしかねえだろう」
「頭の言われるとおりです。で、問題の線についてなんですが、そうなると是非ともこの正体を解明しなくちゃいけないんです」
「平太、線や着火方法について解明するためにも、店一軒吹っ飛ばすための犯行をシミュレーションしてみねえか?」
忠助が提案した。
「そうですね。着火方法からは少し離れて、犯行そのものの手順を考えてみましょうか」
忠助のもっともな誘導に賛同した平太はその意見に従った。
「まずは片栗粉を霧状にして店内に送り込まなきゃならねえんだろうが、お前ぇ、紙風船での実験じゃどうやって霧状にするつもりなんだ?」
台所での会話を知らない清造が訊いた。
「実験では、台所の鞴と竹筒を使って片栗粉とともに紙風船に空気を吹き込んで、それで何らかの方法で着火するつもりです」
「何らかの方法で着火ってのも少し頼りねえが、その同じ方法で被害に遭った店に片栗粉の霧を送り込めるのかい?」
「台所にあるような鞴では無理です。あれはあくまでも竈用にシゲさんが作ったもので、あの大きさじゃ満足に送風できないんで不可能です」
「じゃあ、どうすれば霧を送り込めるんだ?」
忠助が訊いた。
「店の一階部分に片栗粉のエアロゾルを充満させようとすると、もっと大型の鞴が二台は必要でしょう。しかも、ロータリー式の鞴なんて無理でおそらくレシプロ式でしょうから、その二台の送気をタイミング良くバッファ、合流させるための柔軟な革袋も装着しないと」
平太の口から連続して出る片仮名言葉に、忙しなく清造の首が捻られていた。
「その風をどこから吹き込むんだ?」
「あ、考えてなかった……」
「おいおい、お前はハードウェアしか見てないんだな」
「じゃあ、どこからなんですか?」
むっとした平太は忠助に逆質問をした。
「壁に穴開けるんだろう。江戸のお店の一階に窓なんかねえだろうし、例えあったとしても深夜に開いてるとは思えねえから、壁に穴開けるしかねえだろう」
「そんな事したら、穴の存在から人による犯行だとバレるじゃないですか」
「吹っ飛ばして燃やしちまうんだろう。だからそれでいいんだよ」
「あっ、そうか」
「昭和の時代と違って鉄筋コンクリートなんて無えし、竹筋と赤土と板でできた壁に穴を開けるなんて簡単だ」
「でも平太さん、そんな大きな鞴だったら壁にも大きな穴を開けないと」
「いや、鞴そのものの風はそのままじゃ拡散してしまうから、その吹き出し側を管か何かで絞ってやるんだ。そうすれば空気の流れが集中して高速になる。そしてその管の途中に枝管を設けてそこから片栗粉を投入すれば、送風側の管の中は負圧になってるから勝手に片栗粉が吸い込まれ、霧状になって店内に送り込まれる。だから壁に開けるのは小さな穴で足りはずだ」
「へえ、そうなんだ。だからさっき頭の尺八って言ってたんだ」
太一は感心したように平太を見つめた。
「ああ、あれは風を絞るというよりも、実験では中に片栗粉を入れて一緒に送風しようと思っていたんだ。あの程度の大きさの紙風船なら、それで十分霧状にできるはずだ」
「お、片栗粉マガジンか。さすが頭いいな」
忠助に褒められた平太は、へへ、と言いながら頭を掻いた。
「何だぁ、その儂の尺八って?」
「いえね、平太が頭の尺八に片栗粉を詰めて実験に使おうと言い出したんですよ」
「でーっ!俺?俺ですか?」
「この野郎、人が大切にしてる尺八に片栗粉詰めるたあどういう了見だ」
「お、俺じゃ」
「後で洗って返しますから」
反論しようとする平太の声に、忠助が言葉を被せた。
「そういう問題じゃねえ」
「まあまあ、頭、冗談ですよ。実験じゃ別の竹筒を用意しますから」
激怒しそうな清造を押さえるように忠助が言い
「鞴を動かすにも動力はねえよな」
と平太に向き直った。
「動力じゃねえだろう、儂の尺八の話だろう。絶対に使わせねえからな」
「この時代だから、人力しかないでしょうねえ。ざっと頭の中で考えて、足踏み式か手押し式のどちらを選ぶか分かりませんが、木製の梃子か踏み板を組み合わせて、男二人が目一杯に踏むか押すかすれば必要な風力が得られると思います」
平太は清造の言葉を無視して忠助の問いに答えた。
無視された事で怒りの倍増した清造が腰を浮かせた時、いつの間に入れたのか、太一がお茶をすっと差し出した。
「頭、お茶でもどうぞ」
急にお茶が目の前に出された事で、怒りを逸らされた形になった清造は
「お、おう、あ、ありがとうよ」
と腰を下ろした。清造の横で忠助が右手の親指を立て、グッジョブと口を動かした。
平太は話し続けて多少疲れたのか、帳場の横で胡座を組み直して煙草入れに手を掛けた。その動きに誘われたのか清造と忠助も煙管を取り出した。
紫煙を吐く三人に
「平太さん、爆発を起こすには火さえ着けばいいの?」
また太一が訊いた。
「そうだな。できればエアロゾル、片栗粉の霧の真ん中辺りで炎を作り出せれば、一番効率的に爆発させる事ができるはずだ」
「となると、おいらが今朝言ったように、近くで火を着けたりしたら自分も吹っ飛ぶでしょう。だから松明や蝋燭なんかじゃないよね」
「そういう事になるな。標的の建物からなるべく離れて着火しないと自分が危ないな」
「火矢を打ち込むってのは?」
清造が言った。
「さっき言ったように送風機の先は絞られているはずなんです。それも五、六センチくらいかな。とすると、壁に開けた穴もそれよりちょっと大きいくらいなんで、遠くからその十センチ足らずの穴に矢を通すのは至難の業だと思います。かと言って、あまり近くで火矢を構えるのも、さっき太一が言ったように極めて危険です」
「うーん、だよなあ」
「絶対に火じゃねえと駄目なのか?」
忠助が腕組みをしながら訊いた。
「そうですねえ、理論的には火、ファイヤーでなくてもスパーク、火花だったら着火できるはずなんです。近代での粉塵爆発事故って、ほとんどが静電気による火花が原因と言われています」
「じゃ、建物の中で静電気が起きればイケるんだよな」
「でも、中に静電気を起こす人が入る訳にもいかないし」
その時、静電気、火花……とぶつぶつ独りごちていた清造が、ぱんっと両手を打ち
「静電気!火花!あるじゃねえか!分かった、儂には分かったぞ」
と声を上げた。
「頭、何が分かったんですか?」
「エレキテルだぁ!」
自慢そうに口にする清造の言葉に、平太は、あっ、と何かを思い出したように腰を上げた。
「そうですよ、エレキテルですよ!そうだ、そうなんだ。だからあの線なんだ」
「ちょっと待った。そのえれきてるって何なんだ?」
「おいらも聞いた事ないよ」
忠助と太一はエレキテルを知らなかった。
「何だ、お前ぇら知らねえのか?知らざぁ言って聞かせやしょう」
忠助や太一の知らない知識を自分が知っている事が自慢なのか、清造は歌舞伎っぽく見得を切るように言った。
「エレキテルってのは明和年間だったっけな、今から五、六十年前に、かの有名な平賀源内先生が発明した電気 絡繰りだ」
「そりゃあ、一体どんな物なんですか?」
身を乗り出す忠助と太一に、勿体付けて、えへん、と咳払いを一つした清造が説明を始めた。
「こいつは凄えぞ。電気で火花を飛ばして肩凝りを治すって代物だあ」
「は?そりゃ医療機器なんですか?」
「肩凝りと爆発に何の関係があるの?」
清造の説明では何の事やら理解できないようで、二人は平太の顔を伺った。
「いつもながら頭の卓越した説明は凄いですね。でも、それじゃあ凡人の我々には難しいんで、俺が補足しましょう」
平太は少し笑いを噛み殺し、煙管に刻みを詰めながら言った。そして煙草盆の炭火でそれに火を着け、旨そうに紫煙を吐いた。
「エレキテルとは、ガラスの管を摩擦する事によって静電気を発生させ、それを蓄電して出力端子である二本の銅線の間で放電させる装置です。頭の説明どおり、平賀源内という人物が作って肩凝り治療や見せ物に使っていたようです。今で言う、じゃなかった未来で言う電気治療器でしょう。ただ、平賀源内が発明したんじゃなくて、オランダから入ってきた物を復元した、というのが正しいと思います。俺の中ではマイナーな装置だったんで失念していました」
「そうだったっけな、発明したんじゃなかったっけな」
平太は、自分の知識の一部を否定されてぶつぶつ呟く清造を無視して説明を続けた。
「だから、エレキテルというのは発電器であり放電器でもあるんです」
「そうか、それであの線なのか。あれで店の中にスパークを飛ばしたんだな」
平太の説明で理解できたのか、忠助が丸めた右拳で左掌を打った。
「そうです。銅にも電気抵抗があるんで何キロも先からってのは無理でしょうが、数十メートル離れた場所から起電し、あの線を通じて店内に火花を飛ばすというのは簡単にできると思います。まさに遠隔起爆装置なんです」
「それで銅線なのか。だから絶縁のための紐や膠だったんだな」
さすがに忠助には構造も分かったようであった。しかし太一は電気に関して今一つ理解できないようで、平太と忠助の顔を見比べながら首を傾げていた。
「でも、そのエレキテルって装置、どこにでもあるの?おいら見た事ないよ」
「そうだな。儂も本で読んだだけで実物は見た事がねえな。確か寛政年間の改革で統制に掛けられて、それっきりじゃなかったっけな」
「どうして?どうして統制なの?」
「生活必需品じゃねえからだろうな。それとも原理があやふやだったりしたから、役に立たねえとでも思われたのかな」
「何で?肩凝りが治るんでしょう」
「本当に治ったかどうか知らねえよ。儂だって本で読んだだけだ」
清造は太一の質問が疎ましくなったのか、邪険に言葉を返し始めた。
「それを誰かが持っていたのか、それとも再復元したのか。どのみち相当な頭脳、というか発想の持ち主が存在しているんだと思います」
「まあ、その辺の容疑者や人物像に関しては村田様にお任せしようじゃねえか。それよりも、ここまでの話で爆発に関する一連の手順は解明できたはずだ。だったら後は実験あるのみだな」
「ええ、そうなんですが」
平太は忠助の促しに、何だか煮え切らない口調で反応した。
「どうしたんだ?まさかエレキテルを作ろうなんて言うんじゃねえだろうな?」
「そんな事は考えていません。エレキテルの構造は知っているんですが、あれってガラス管どころか金箔なんかも必要なんです。製作に銭も時間も掛かるんで、いくら何でもエレキテルの製作までは無理です」
「えーっ、金箔やガラスか。そりゃ無理だ、そんな銭はねえぞ」
金箔と聞いて清造が悲鳴のような声を上げた。
「頭、安心してください。今言ったように製作までは考えていませんから。それよりも」
そこで平太は言葉を切り、太一が入れてくれていた茶を口にした。そして煙管に刻みを詰め始めた。
「それよりも、何なんだよ」
忠助が急かすように前屈みで言った。
「今まで実験の事をチョロく考えてたんですが、よく考えてみたら、実験だけでも騒ぎになるんじゃないかと」
「どういう事だ?」
「外からの拘束が無い紙風船とは言え、結構な爆音と爆炎が出ると思うんです。そんな事をこの市中でやったらどうなるんでしょう?」
「まず町役人や奉行所に知れて、市中を騒がす不届き者としてお縄だな、逮捕だ。特に火に関しちゃ大罪だから、良くて江戸所払い、悪くすりゃ島送りだあ」
すかさず清造が言った。
「ですよね。俺が甘く考えていました」
反省するように平太は項垂れた。
うーん、と忠助が唸った時
「村田様にお願いしたら?」
思い付いたように太一が言った。
「だって、平太さんは臨時だけど奉行所の手下なんでしょ。だったら、奉行所に立ち会ってもらって、堂々と実験すればいいんじゃない?」
「そりゃいいな。そうだ、村田様にお願いしてみよう」
清造もぽんと両掌を打った。
「でも、村田様も忙しいんじゃ?」
「暇とは思えねえが、今月は南町が非番のはずだから、多少は余裕があるんじゃねえかな」
「え、非番の月って、奉行所って開いていない月があるんですか?」
平太がびっくりしたように訊いた。
「ああそうだ。北町奉行所と南町奉行所が月交代で非番、勤番を敷いているんだ」
清造が説明した。
「じゃあ、奉行所って一年の半分は休みで閉鎖なんですか?」
「馬鹿野郎、非番っても一般からの訴状なんかを受け付けねえって事で、別に休んでる訳じゃねえよ。勤番の月に受けた訴状の処理とか事件の対応なんかはずっとやってるんだ」
「ありゃ、そうなんですか」
「もう夕刻近いが、何ならひとっ走り行って相談してみるか」
清造の言葉に
「おいらが行くよ」
太一が手を上げた。
「じゃあ、あらましをざっと紙に書くから、それを届けてくれ」
清造は紙と筆を取り出し、さらさらと概要を書き始めた。それを、へーい、と受け取った太一は、行ってきまーす、と元気よく店を飛び出していった。
しかし、しばらくして太一の持って帰った村田からの返事によってその日の実験は見送られ、実行は翌日の正午と決まった。まさかの事態を想定してか、場所は赤坂の溜池とも記してあった。
◆隅田川と本所
その日の深夜、深川の隅田川沿いに三人の人影があった。その内の二人は人間大の菰包みをそれぞれ担ぎ、残る一人は辺りを窺うようにその二人の前を歩いていた。
川岸に近づいた三人は更に周囲を窺った後、二つの菰包みを同時に隅田川に投げ込んだ。どぼん、という落水音が闇に響いた時、既に三人の姿はそこになかった。
隅田川に菰包みが投げ込まれたのと同時刻、本所にある荒れ掛けた寺の山門前に、妙にくぐもった車輪音を立てる大八車が止まった。
大八車を引き押ししていた二つの影は荷台に乗せた大柄な物を両側から掴むと、何も言わず山門から中へ放り込んだ。投げ込まれた物は跳ねる事もなく、軟体動物のようにその場で柔らかく一回転がっただけだった。そして、二つの影は何事もなかったように大八車の前後に戻り、そのまま闇に消えて行った。
◆井戸端とケイ
翌日の朝、爆発実験決行に神経が昂ぶったのか、いつもより早く目の覚めた平太は、まだ暗い部屋で身を起こした。前夜もその興奮でなかなか寝付けず、布団の中で何度も体の向きを変え続けた平太だったが、いつもより少ない睡眠時間にも拘わらず、その意識は十分に覚醒していた。
“小学校の遠足に行く時と変わらないな”
そう思い、ガキと一緒じゃん、と呟きながら手拭いを首に掛けて歯磨き粉を着けた房楊子を咥え、湯飲み茶碗を持ってまだ薄暗い表に出た。
ほたる屋の向こうの通りからは、あっさりーしじみー、と、少し調子外れな浅蜊売りの、おそらく子供のものであろう声が響いていた。
その声も程なく遠離り、忙しなく動かしていた房楊子の動きを止めた平太は、おおー、と両拳で天を突きながら背伸びをした。そして、そのままの姿勢で、うー、と息を吐きながら百八十度向きを変えたその視界に、井戸端で葱と浅蜊を洗っているケイの後ろ姿が入った。平太が場違いに発する悲鳴のような声が耳に入ったのか、ケイが体を軽く捻って振り返り、会釈をしながら小さくくすっと笑った。
誰もいないと思って上げた声を聞かれて、少し恥ずかしく思った平太だったが、慌てて眦の目脂と口角に垂れた歯磨き垂れを手拭いで拭きながら井戸端に歩み寄っていった。
「おはよう」
ケイの横から声を掛けながら、平太は井戸から水を汲んで湯飲み茶碗に注いだ。
「おはようございます。今朝は早いんですね」
湯飲み茶碗の水で口を濯いでいる平太にケイも挨拶を返した。数歩移動して口中をぐじぐじと濯いだ水を溝に吐いた平太は
「ええ。今日はいろいろあるんで早く目が覚めちゃって。それより、ケイさんも早いですね」
手を休める事なく浅蜊を洗うケイに言った。
「今朝は浅蜊の味噌汁にしようと思って、少し早起きして浅蜊売りを待っていたんです」
「そうだ。ここを通る浅蜊売りが朝早過ぎて困る、ってトモさんもぼやいていましたよ」
井戸枠に腰掛けて同調するように言う平太に
「そうそう。一昨日、トモさんに南瓜を炊いたのを頂いたんですよ。とても美味しかったってお伝えください」
ケイは立ち上がって、前掛けで手を拭きながら頭を下げた。
「ああ、一昨日の南瓜ね。太一が、南瓜は好きじゃない、って食べる前から言ったもんで、その分が回ったんでしょう。俺も美味しいと思ったんですが、もうこれで当分は作ってもらえないな」
「まあ、あんなに美味しいのに」
意外そうに言うケイに
「駄目なんですよ。一度太一が嫌いと言ったものは、トモさん二度と作らないんですよ」
平太が顔の前で左掌をひらひらさせながら困った顔で返した。
「そうなんですか……」
不思議そうな顔でそう言ったケイは、浅蜊の入った笊と葱を抱えて、では、と会釈をして自分の部屋に歩いていった。
その体が横を擦れ違う瞬間、平太は、その清潔に結われた髪に飾り物が一つもない事に気が付いた。不似合いなほど質素な櫛が一つ挿されているだけだった。
“清楚で可愛い娘なのに、勿体ないな……今度、簪でもプレゼントしようかな”
そう思った平太は、なーんちゃって、と口にしながら、手拭いを首に掛け、スキップでも踏むような足取りで部屋に戻った。
◆実験と与力
正午前、早めに昼飯をすませた忠助、平太、太一の三人は、紙風船と竹筒、鞴、蝋燭、そして片栗粉の入った瓶を風呂敷に包み
「じゃ、頭、申し訳ありませんが行ってきます」
と忠助が清造に告げた。
「おう、事件の解明はお前ぇらに掛かってるんだ。しっかり爆発させてこいよ。とは言っても、くれぐれも気を付けてな」
清造の言葉に三人は頭を下げた。
本来、忠助と平太の二人で行こうとしていたのだが、太一がどうしても行きたいと譲らなかったため、使用人全員が行く事になり、清造も本当は行きたかったのだろうが、店を閉める訳にもいかないので、渋々居残りを決めたのだった。
「江戸の興亡、この実験にあり」
訳の分からない言葉で見送る清造を背に、三人は半ばウキウキと高揚した気分で店を後にした。
「兄ぃ、おいら楽しみだよ」
「おい太一、遠足じゃねえんだから、楽しみってのも可笑しいぞ。てな事言ってる俺も、実はわくわくしてるんだけどな」
忠助と太一は不謹慎な会話をしながら平太の前を歩いていた。
「そうですね、爆発とか破壊ってのは、何だか本能的にわくわくするんですよね」
平太も足を速めて不謹慎な会話に加わった。
「俺は大学で一応土木工学科に籍を置いたんだが、最初に習ったのは‘破壊は建設の第一歩’という言葉だったな」
「お、それいい言葉ですね」
「まあ、全く勉強もしなかったんで、それ以外何も頭に残らなかったがな」
「兄ぃ、はかいはけんせつのだいいっぽ、ってどういう意味?」
「何事も一度壊さなければ何も創れない、って意味だな」
「極めて唯物的な名言ですね」
「平太さん、ゆいぶつてき、ってどういう事?」
「人の思いや感傷に振り回されない、って事かな」
「そうだ。魚が可哀想だと思ってたら、刺身も鮨も食えねえだろう。だから食いもんは食いもんとして、ただ感謝して食う、という事だ」
忠助が意味の分からない例えを口にした。
「じゃあ、魚が可哀想だったら飯と豆腐と大根を食べるんだ」
「その内、米や大豆にも命がある、とか言う輩が出てくるぞ」
「あは、俺の時代にも極端な環境保護運動家とか生物愛護主義者、そんな奴いましたよ」
「昭和の時代にもいたさ」
「ふーん。おいらにゃ理解できないよ」
「いいんだよ、そんなの理解しなくても」
そんな脳天気な話をしながら歩いていると、後ろから、おう、と声を掛ける人物がいた。
「あっ、村田様」
太一が一番に声を出して村田に駆け寄った。
「おお、太一も来たか」
村田は笑顔で太一の肩をぽんと叩いた。平太にはその顔がやはり父親のものとしか見えなかった。
「村田様、お早いご登場で。俺達は現地で村田様をお待ちしようと早めに店を出たんですが」
「ははは、儂も同じように考えて、もっと早く溜池に向かおうと思っていたんだが、今朝方北町の方に寄ったら、隅田川で死体が二つ浮いていたという話を聞いてな。非番の身にも関わらずちょいと興味をそそられていろいろ聞き込んでいたら、それでこの時刻になってしまったんだ」
忠助の言葉に村田が腕組みをして応えた。
「仏が二人って事は心中ですか?」
「いや、心中ではない。お前らだから話すが、仏は二人とも男だ」
「じゃあ、陰間とその男の心中ですか?」
今度は平太が訊いた。平太はここに飛ばされて来てから、おネェやオカマとも違う、陰間という言葉の響きが気に入っていたのだった。
「そうじゃない、心中じゃないって言っているだろう」
そこまで言って、村田は差し掛かった橋の欄干に腰掛け、煙草入れから煙管を取り出した。そして刻みを詰めた煙管を手に、少し離れた場所で煙草を吸っていた棒手振りに近づき、火を分けてもらった。釣られたように忠助と平太も煙管を咥え、村田から火をもらって紫煙を燻らせた。話の内容が内容だけに、四人ともその場でそれ以上の事は話さなかった。
一服終わって、またぞろ四人が歩き始めてから
「殺しだ。二人とも刃物で刺されていた」
村田が口を開いた。
「そいつら何者ですか?」
平太が後ろから村田に訊いた。
「それはまだ分からん。同心の中に心当たりのある者がいたようだが、儂はその確認が取れる前に奉行所を出たからな」
ふーん、と太一が言い、それっきりその話題から離れた与太話などを言い合いながら四人は歩いた。そして
「着いたな」
と村田が言った。
◆溜池と爆発
溜池とは言っても、元は江戸城のお堀の一部だったと平太は聞いていた。神田や玉川の上水が整備される前には、ここの水を上水として利用していたとの話だったが、今ではほとんどが埋め立てられ、その面積はかなり縮小していた。
水量も減少した水面の見える土堤に留吉が立っていた。
「お早いお着きで」
留吉が腰を折るように挨拶をした。
「こんな所まで呼び出して、悪かったな」
「いえいえ、とんでもございやせん。村田様の仰せなら、例え火の中水の中、どこへでも参じやす」
「で、昨日の今日で申し訳なかったが、例の物はできておるかな?」
例の物という村田の言葉に他の三人は首を傾げた。留吉は、
「へい、こっちでやす」
と応えながら水辺に向けて駆けだした。
「例の物って何でしょうか?」
平太が訊くと、村田は
「実験するんならと思ってな。あれだ」
留吉の後を追うように歩きながら村田が前方を指差した。
「これは?」
意外な物を目にした平太が疑問を口にした。
「昨日、太一から二つの紙風船で爆発実験を行うと聞いて、それも大きい方は三尺以上あるとの事で、ちょっと余興を思い付いたんだ」
それは、縦横奥行きが一メートルちょっとの薄い板で作った小屋だった。
「昨夜、大工の勘次に頼みまして、今朝一番から作ってもらいやした」
留吉が少し自慢そうに言った。
「ミニチュアでの実証実験ですか。こりゃあいい」
平太は子供のように喜んだ。
「何でやすか平太さん、その、みにちゃってのは?」
「いやいや、こっちの話」
留吉の質問に適当な返事をしながら、平太は小屋に近づき
「いいですね。じゃあこれは二発目で使いましょう」
確認するように、ぱんぱんと小屋の屋根を叩いた。
「平太、どうする、始めるか?」
後ろで風呂敷包みを解きながら忠助が訊いた。
「やりますかあ。そこに落ちていた竹竿を拾ってきますんで、その間に荷物を出しておいてください」
平太は小走りで戻り、四メートルほどの竹竿を拾ってきた。
忠助と太一は打合せどおり、てきぱきと実験に使う物を取り出して地面に並べた。片栗粉はシメに貰っただけでは二回の実験に足りそうになかったので、朝、ほたる屋の台所から追加しておいた。
「いいですか、今朝打ち合わせたとおり時間との勝負ですんで、ちゃっちゃとやっちゃいましょう」
瓶の蓋を開けて片栗粉を竹筒に充填した平太は、鞴の先にその竹筒をセットしながら言った。清造の抵抗があって尺八が使えず、朝から捜した竹筒だった。
小さい方の紙風船の皺を伸ばし終わり、その手前で竹竿の先に蝋燭を括り付けていた忠助が、おうよ、と声を上げ、離れた場所で火を熾していた太一は、へーい、と応えた。村田と留吉は、安全を考えて遙か側方に離れていた。
「じゃあ、いきますよー」
声を上げた平太は、手にした足踏み式の鞴に思い切り空気を吸わせ、両腕を閉じるように一気にそれを吐き出させ、それを四回ほど連続した。ぶあっぶあっ、という音と共に、忠助によって半ば膨らませてあった紙風船が一瞬で真球になった。
「忠助さん、どうぞっ」
その声で、太一によって蝋燭に火が着けられ、その竹竿を忠助が紙風船の口に向かって伸ばした。
しかし、四メートル以上の竹竿でその先に括られた蝋燭を、たかが五センチ程度の穴に突っ込むのは至難の業だった。蝋燭はなかなか紙風船の口を捉えられず、口の縁周辺に突き当たるだけだった。
「はい、止め~ぇ」
平太の気の抜けた声に忠助は、へ?、と振り返った。
「どうしてだよ、もう少しで上手く入るぞ」
竹竿を地面に降ろして不満そうに言う忠助に
「駄目です、粉が沈降しちゃいました」
言いながら平太は蝋燭の火を消し、紙風船の中を覗き込んだ。
「あっちゃー、俺か。俺が悪いんだ」
「いや、忠助さんじゃなくても困難です。紙風船の口の周りを濡らしておいたんで良かったんですが、こりゃ難しいですよ」
頭を抱えて悔しがる忠助に平太が声を掛けた。
「よしっ、もう一度。次は一発で仕留める」
忠助は顔を起こし、ふんっと鼻息を吐いた。
「そうですね、もう一度頑張りましょう」
再び同じ作業が開始された。今度は紙風船の口と自分の目の高さを合わせようと考えたのか、忠助が腹這いになって竹竿を構えた。そして、おりゃっ、という掛け声とともに、忠助は予告どおり一発で蝋燭を突っ込んだ。
その瞬間、バゴンッ!、という音響と共に紙風船が破裂し、爆炎が全方位に広がった。
「やったー」
「熱っ」
「すげー」
様々な悲鳴と歓声が上がり、爆炎は一瞬で萎みながら上空に消えていった。
「忠助さん、成功です。さすがっすよ」
平太と太一が駆け寄った足元で、腹這いの忠助は更に顔を伏せていた。そして、蛋白質の燃える嫌な匂いが二人の鼻を突いた。
「大丈夫ですか、忠助さんっ」
その匂いに不安を感じた平太が声を掛けると
「お、おお。大丈夫みてえだ」
忠助が体を起こして顔を上げた。
「どわっ、髷が、眉毛も焦げてるよ」
太一の声でやっと匂いを感じたのか、忠助は慌てて髷と眉毛を触り、指先を見つめた。そこには煤のような燃えかすが着いていた。
「平太っ、髷はあるか?眉はあるのか?」
「あ、あります。ちょっとだけ先が焦げてますけど、ちゃんとありますよ」
平太はその両肩を掴むように問う忠助に答えた。
「そうか、良かったー」
忠助は安堵したように地面に座り込んだ。
しかし、髷は先が焦げただけだったが、どう炎に曝されたのかその左眉はほとんど焼失していた。それを正直に言うと次の点火役が自分になると感じた平太は、咄嗟に嘘を言ったのだった。太一も同じように思ったのか何も言わなかった。
「さすがだ。確かに爆発した」
いつの間にか側に村田と留吉が立っていた。
「だけど、こりゃあ凄え威力だぞ。あの小さい方の紙風船でこれだから、でっかい方はやべえぞ」
忠助は、ふう、と大きく息を吐いた後でそう言った。
「ですねえ。次の紙風船は倍の大きさなんで、さっきの倍の距離は離れないと忠助さんの身が持ちませんねえ」
これも平太の嘘だった。紙風船の直径は確かに倍だが、爆発エネルギーを発生させる球体の体積は約八倍になるのが正解だった。という事は、先程の倍の避難距離では危険が伴う事になるのだが、八倍の距離では着火する事が絶対不可能と判断した平太による無責任かつ強行的な嘘であった。
「そうだな。じゃあ太一、倍くらいの竹竿をもう一本捜してきてくれ」
忠助には分かっていなかった。土木工学科に籍を置いていたのなら、直径が倍になったら体積は八倍になる、と言う事くらいすぐにぴんとくるはずだが、やはり勉強はしていなかったようである。
へーい、と返事をした太一は、竹竿を捜すため土堤に向かって走った。平太は道具を包んできた大きな風呂敷を地面に広げ、鋏で小さな長方形の穴を切り抜き始めた。そしてその風呂敷を溜池の水に浸した。
「何なんだそれは?」
「これを忠助さんに掛けて炎を防ぎます」
村田の問いに平太は答え、それをもう一度水に浸した。
「火消人足の頭巾でやすな」
留吉にも意図が分かったようであった。
どこから捜してきたのか、太一は十メートル近い長さの竹竿を持ってきた。忠助が、いいじゃねえか、とは言ったものの、さすがに撓みがひどく、平太にはそのままの状態で先端の蝋燭を突入させる事は、至難を通り越して神業としか思えなかった。うーん、と唸った平太はふいに土堤に歩いて行き、何かを捜すように榎の大木の下辺りを彷徨いた。
「何でやしょう?」
「さあな。なかなかの頭脳の持ち主だから、我々には分からない知恵を働かせているんだろうな」
村田と留吉は平太の行動の意味が分からず、ただ眺めているだけだった。
あったあった、と言いながら、平太は両手に枝のような物を持って帰ってきた。それは長さ七十センチ、太さ五センチくらいの、アルファベットのYの字をした二股の枝だった。
「何だそりゃ?」
「これで竹竿をサポートするんです」
忠助の問いに答えながら、平太はその枝を紙風船の直前に一本、忠助との中間地点に一本、ぐりぐりと地面に差し込んでその股の上に長い竹竿を載せた。
「おっ、いいじゃねえか」
「平太さん、頭いい」
「これだったら、忠助さんが竹竿を押すだけで蝋燭を突入させる事ができます」
忠助と太一の賞賛に乗ずる事もなく、平太はさらっと言った。
「さすがだな。奴の対処能力は並じゃない」
村田も感心して腕組みをした。
平太は腹這いになろうとする忠助の元に行き、ぽたぽたと水の滴る風呂敷を手渡した。
「何だこりゃ?」
「防炎頭巾です。炎もですが、今度は小屋の破片も飛散しますんで、これを頭から被って、切り抜いた穴から覗いて照準を付けてください」
「お前、そこまで考えてくれたのか。恩に着るぜ」
忠助は少し目を潤ませたようだった。
「兄ぃ、これで残った右の眉も燃えないですむよ」
「おわっ、太一、それ言っちゃだめだろう」
太一の言葉に平太は慌て、太一は、あわわ、と言いながら、しまったという表情で口を押さえた。
「何だっ、じゃあ左の眉は無えのかっ?さっきので燃えちまったのかっ?」
事実を知った忠助が起き上がり、平太の両肩を掴んで食って掛かった。やばいと感じた平太は
「眉毛が何ですか、また生えてきます。何なら眉墨で書きゃいいんです」
顔を引き締めて強気に言った。
「馬鹿野郎!人を何だと思ってやがるんだ。何で俺がこんな酷え目に遭わなきゃなんねえんだ」
「忠助さんしかいないんです。この重大な任務には、自衛隊員としての気合いと根性を持った忠助さんしかいないんですっ」
平太は忠助のプライドを擽る作戦に出た。その作戦と平太の強硬な勢いに押されたのか、肩を掴む忠助の力が弱まった。
「頭も言っていたはずです。江戸の興亡この実験にあり、と。事件の謎を解くためには誰かがやらなければいけないんです」
ここぞとばかりに、平太は逆に忠助の両肩に手を掛けた。
「お、おう。だが、俺か?俺なのか?」
「もう一度言います。これができるのは忠助さんだけです。頼れるのは、数々の修羅場を潜り抜けた忠助さんしかいないんです」
平太は肩に載せた手に力を込め、じっと忠助の目を見つめた。忠助の目が平太を見つめ返した。
「成せば成る、成さねば成らんっ!やればできますっ、忠助さんならできますっ!忠助さんはやればできる子なんですっ!」
平太は大きな声でとどめを刺した。
その瞬間、一気に忠助の目が輝き
「よ、よしっ、やるぞ。俺だ、俺だ、俺だぁ!俺しかいねえんだ」
平太の肩から離した両手に力を込めて天に突き上げた。
「何を青春熱血劇やってんだか……」
離れて見ている村田が腕組みのまま呆れたように呟いた。
「平太さん、凄ぇや」
平太の隣で太一が感心したように言った。
「これをマインドコントロールと言う」
勝ち誇ったような笑顔で、ぼそっと平太が言った。
「平太さん、まいんどこんとろーる、って何?」
「後で説明するよ」
平太は太一の質問をさらっと躱し
「じゃあ、もう一発行きますかあ」
雄叫びのように声を上げた。平太の声に、おうっ、と威勢の良い返事をした忠助と太一がそれぞれの持ち場に着いた。
平太は竹筒に先程の八倍量の片栗粉を詰めて鞴の先に装着し、その先端を小屋の中にある紙風船の口に突っ込んだ。そして、鞴を一気に数十回連続して思いっきり絞った。太一が蝋燭に点火するのを確認した平太は、太一の着物を引っ張って忠助よりも遙か離れた地点まで転がるように走って避難し、先程よりも大きな声で合図を送った。
「忠助さんっ、どうぞーっ!」
そして、風呂敷を被って照準を定める忠助に向かって
「ファイトーっ」
と叫んだ。
「いっぱーつっ!」
案の定、スナイパーはそれに応えた。一瞬、平太は、息の長いCMだよな、と思った。
どおーーーん!、という凄まじい爆発音とともに、小屋は粉々に吹き飛んだ。自信と集中力を研ぎ澄ました忠助が一撃で仕留めたのだった。土堤に立つ村田と留吉の所までは届かなかったが、破片は十間(約十八メートル)四方に飛散し、一部は同時に発生した爆炎のために落下した後も炎と煙を上げていた。あまりの威力のため、誰も歓声を上げる者はいなかった。
「やったーっ」
ややあって、太一が引き攣った顔で声を上げた。
「忠助さんっ」
すぐに平太はスナイパーに駆け寄ったが、あまりの衝撃からか忠助は俯せのまま気絶していて、その尻には燻っている木片が載っていた。
「忠助さんっ、忠助さんっ、大丈夫ですかっ」
尻の火をはね除け、その両肩を掴んで揺すりながら上げる平太の声に忠助の意識が戻った。
「お、お……こ、ここはどこだ?」
「忠助さん、成功しましたよっ」
平太は実験の成功に感極まったのか、忠助の首に抱きついた。
「おっ、せ、成功したのか?」
「大成功です、忠助さんのお陰で大成功ですよ。ありがとう、ありがとうございますっ」
平太は忠助の首に回した腕に力を込めた。
「うぇ、く、苦しい……熱っ、おいっ、熱いぞっ」
忠助の着物の尻が燻って煙を上げていた。
「おわーっ、燃えてるじゃねえかっ、し、尻が、あちちっ」
忠助は慌てて平太を突き飛ばして立ち上がり、腰を前に突き出して踊るように跳ねた。それでも着物は燻り続け、砂利に足を取られた忠助が前のめりに倒れ込んだところに、ちょうど太一が池の水でたっぷりと濡らした手拭いを手に走ってきて、忠助の尻の上で力一杯それを絞った。じゅわっ、という音が聞こえたかどうか、尻の煙は鎮まった。
「グッジョブ」
平太は太一に右手の親指を立てて微笑んだ。
「グッジョブじゃねえぞ。一瞬、死んだ爺ちゃんと婆ちゃんが迎えに来たのが見えたぞ」
忠助が俯せのまま、ふーう、と息を吐きながら言った。
「すみません、ちょっと想定より威力があり過ぎたようです」
平太が周りを見回すと、村田と留吉が想定外に飛び散った破片の火を踏み消していた。平太と太一も、すぐに手拭いを濡らして駆け寄り消火を手伝った。
「やったな、平太。ご苦労であった」
破片の火も全て消して四人が小屋のあった箇所に集まった頃、村田が声を掛けた。
「いえ、俺はあれこれ指図しただけで、一番大変だったのは忠助さんです」
平太は絞った手拭いで汗を拭きながら忠助を見た。その忠助は尻に火傷を負ったのか座る事ができず、四つん這いでこちらを見ていた。
「おーい、忠助、大丈夫か」
村田の掛ける声で四つん這いの男はもぞもぞと立ち上がり、みんなの所によたよたと歩いてきた。
「兄ぃ、大丈夫?」
太一は首を傾けて忠助の尻を覗き込んだ。
「おう、これしき何て事ぁねえよ」
「でも、着物の尻に穴が開いてるよ」
みんなが覗き込んだ先には、二十センチくらい開いた着物の穴から、少し爛れた尻の皮膚が見えた。
「こりゃ火傷をしているな。小石川に行くか?あそこの与力は良く知っているから、すぐに治療してもらえるぞ」
「いや、村田様、お許しください。尻に火傷して養生所に行ったなんて格好悪くて。こんなのは唾でも塗っときゃ、明日にゃぴんぴんに治ってます」
空元気なのか、忠助はその場でぴょんと飛び跳ねた。しかし、着地した時の顔が少し歪んだのがみんなには分かった。
「そうか、それならいいんだが。ところで皆、今日は良くやってくれた、礼を言うぞ。これで一連の爆発の手口は解明できた。後は容疑者を洗い出すだけだ」
「それについては、ちょっと」
村田の言葉に平太が口を開いた。
「何だ、何か知ってるのか?」
村田は怪訝な表情で訊いた。そして平太がちらっと留吉を見たのを察し
「留吉、もういいぞ、ご苦労だったな」
と留吉に向き直り、懐から大きな財布を取り出した。
「鼻緒代だ。それに小屋代もこれで大工に払っておいてくれ」
財布から一分金を二枚、留吉の手に握らせた。
「ありがとうございやす。しかし、これはかなり多ございます」
平に頭を下げて金貨の載った掌を差し出す留吉に
「いいさ。こいつらがお前の内儀から今日の片栗粉を貰ったらしいしな。多いと思ったら内儀に櫛の一つも買ってやれ」
一瞬顔を上げて村田の顔を見た留吉は
「へへえ、ありがとうございやす。嬶も泣いて喜びやす」
再び更に深く頭を下げ、では、と言い残して走り去った。
「鼻緒代って何ですか?」
平太は隣の忠助に顔を寄せて小声で訊いた。
「御用聞きの草履は白い鼻緒が義務付けられてるんだ。だからああやって臨時の手当を渡す時は、鼻緒代、と言って渡すんだ」
忠助も顔を寄せて教えてくれた。
さてと、と言いながら平太に向き直った村田は
「容疑者の心当たりでもあるのか?」
と訊いた。
鋭いな、と平太は思った。柔和な顔で優柔不断っぽく見えるが、剃刀のように鋭い慧眼の持ち主ではないだろうか、とも思った。
「容疑者というよりも犯人像とでも言いましょうか、ぼやっと浮かんできたものがあります」
「長くなる話か?」
「ええ。この前のように、いろいろと村田様に教えて頂きながら考えを整理したいと思いますので」
「ならば今夜、またほたる屋に顔を出そう。申し訳ないが今日の内に北町に引き継ぐ件があって、そろそろ奉行所に帰らねばならん。それで良いか?」
ちらっと振り返った村田の先の土堤に同心らしい侍が一人立っており、村田の視線に気が付いたのか、その若そうな侍がぺこりと頭を下げた。
「はい、ありがとうございます。その時に俺の考えを話させて頂きます」
平太は頭を下げ、他の二人も続いてお辞儀をした。
では後程、と踵を返す村田の背中に
「村田様、お酒と食べる物を用意しておきます」
太一が言った。村田は一瞬足を止めたが、指でオーケーサインを作った右手を上げ、そのまま若い侍の立っている方向に歩いて行った。
「じゃあ、俺達も片付けて帰るか」
忠助の言葉で道具の片付けを済ませた三人は、ぼろぼろになった風呂敷に鞴などの道具を包んで帰路についた。
◆帰路とゴシップ誌
しかし、途中で三人が、というより忠助が至る所で擦れ違う人々の笑いを誘ってしまい、苦難の帰路となってしまった。
左の眉は燃えて無くなり髷は乱れて先が焦げ、おまけに着物に穴を開けて赤黒い尻を覗かせたその姿は、寄席なんかよりも十分笑える対象だった。
「くそっ、暇人どもめ。着物に穴が開いてるのがそんなに可笑しいか」
毒づく忠助は、片方の眉の無い事を完全に忘れているようだった。平太も太一も忠助と歩く事が恥ずかしいのと、片眉の顔を思い出して笑ってしまいそうになる事から、ずっと顔を伏せて忠助を前後から挟むように歩いた。
途中、眉が焼失した事を思い出した忠助が、眉墨を買うために店に入った時には、このまま置き去りにして帰ろうかと二人で相談したが、後でぶつぶつ言われても嫌なので背を丸めて店先で待っていたのだった。
「ちきしょうあの店、小僧が俺の顔を見て悲鳴を上げやがった。番頭は番頭で吹き出しやがるし、有る事無え事、瓦版で流してやるぞ」
完全に気分を害したのか、眉墨を買わないで店から出て来た忠助が憤慨して叫ぶように言った。
「え、そんな事できるんですか?」
「おう、金さえ払えば何でも書くのが瓦版だ。瓦版ってのは半分以上ゴシップ誌だ」
「兄ぃ、ごしっぷし、って何?」
「うるせえ!」
知りたがりの太一は、機嫌の悪い忠助に一喝されてしまった。
「ねえ平太さん、ごしっぷって何なの?」
太一は忠助の前に回り、今度は平太に訊いた。
「ゴシップてのは興味本位で無責任な噂の事だな」
「へえ。やっぱり平太さん何でも知ってるね。今回の実験だって凄かったもん」
「違うぞ太一。実験なんてそれを実行する人が一番立派なんだ。今回は忠助さんだ。俺は頭の中で考えただけで、忠助さんがいなかったら何もできなかったんだ」
二人の会話が耳に入るのか、忠助は、ふんっ、と自慢そうな鼻息を吐いた。
「ところで、実験の時に平太さんが言ってた、まいんどこんとろーる、って何?」
太一のこの場では不都合な質問に、うっ、と息を詰まらせた平太は
「帰ってから、ね」
と小声で言い、太一にウインクをした。幸いにも、眉を気にして触っていた忠助には聞こえていないようだった。
◆眉墨と膏薬
ほたる屋に着いた頃はもう日暮れ前、暮六つに近づいていた。
「ただいま帰りました」
裏から店に入った三人は、渋々留守番役を引き受けてくれた清造に頭を下げた。
「おう、実験はどうだった、って、な、何だぁ忠助、その顔はどうしたぁ?」
そう言った途端、清造は、ぷぷーっ、と吹き出して引き攣ったような笑い声を発し始めた。
「うひょーっ、ま、眉毛が片方無えじゃねえかーっあっはっははー」
途端に忠助の顔に不機嫌な表情が浮かんだ。平太は初めて月代を剃った時の事を、あの清造と忠助の暴力的な笑いを思い出した。
「頭、お願いです、笑わないでください。俺の想定が甘くて忠助さんはこんなになっちゃったんです」
本当は嘘を言って騙したんだけど、と心の中で思いながら、平太が一歩前に出て清造に頭を下げたが、清造はそんな事はお構いなしで
「ぎゃひいーっ、わ、笑うなったって、そ、その尻、お、お猿の尻そのまんまだあーっはっはー」
更に増幅した笑いを続けた。忠助は何も言わず、ぷいっと台所に入って行った。慌てて追う平太と太一の背中で清造の引き攣った笑いが響いていた。
台所で荒れているかと後を追った二人の先には、鏡を手にする忠助がいた。力無く土間に立ちつくす忠助は、がくっと肩を落としていた。
「兄ぃ、大丈夫?」
太一の掛ける声に、ああ、とだけ答え、鏡を脇に置いた。
「忠助さん、髪を結い直して眉を描けば大丈夫ですよ」
平太の言葉にもすぐには応えず、忠助はもう一度鏡を手にして
「だよなあ」
何度か顔の角度を変えながら言った。
「ですよ。元どおりになりますよ」
「違う。笑われても仕方ない顔だなと思ったんだ」
鏡を覗きながら口を開き
「これが平太や太一だったら、やっぱり俺もコテンパンに笑ってしまうよな」
言葉を続ける忠助の表情は徐々に明るくなっていった。
そして
「しゃーねえ、文太にやってもらうか」
踏ん切りがついたように、背筋を伸ばして言った。
「おいら文太さん呼んでくるよ」
太一が言った。
「文太さんいるのかな?」
「いると思うよ。だって今朝、厠でゲロ吐いてて、大丈夫って訊いたら、酷い二日酔いだから今日は何もしない、って言ってたから、ずっと寝てたんじゃないかな。すっげー酒臭かったよ」
平太の疑問に太一は呆気なく言い放ち、行ってきまーす、と裏から出ていった。
程なく裏口から太一が文太を連れて戻ってきたが、太一の後によたよたと続く文太の顔は悲惨な状況だった。両目の下には殴られたかと思われるような隈を作り、朝から嘔吐続きで何も口にしていないのか頬は痩け、おまけに口角には瘡蓋にも見える皹荒れが赤いクレバスを覗かせていた。
「文太さん、一体どうしたんですか?」
平太の問いにもすぐには反応できないようで、へなへなと上がり框に腰を下ろした文太は
「悪いお酒飲んだのか、酷い二日酔いで何も喉を通らないし、このところ胃も荒れてたみたいで、口の端が切れちゃうのよ」
俯き加減で言った。
「何でそこまで飲んだの?」
「放っといてよ。あたしだっていろいろとあるんだから」
「それよりも、体調の悪い時に申し訳ないんですが、忠助さんのこの状態を何とかしてほしいんです」
投げ遣りに言葉を吐く文太に平太が言った。
「へ、忠助さんって?わっ、何なのそれ。忠助さんどうしちゃったの?」
それまでその虚ろな目に入っていなかったのか、改めて忠助に目をやった文太は今更ながらに驚いたようだった。
「ちょっと実験で手違いがあって、髷と眉が焦げちゃったんです」
「実験って何なのよ。何の手違いか知らないけど、こんなに焦げ焦げになっちゃって。すぐに髷を結い直さないとこれじゃ外も歩けないでしょ」
忠助に駆け寄って髷を確認していた文太が言った。
「それに眉が片方無いじゃない。太一ちゃん、すぐにあたしの道具箱持って来てちょうだい」
忠助の酷い状態を見た途端、文太はボロボロのよれよれから一気に覚醒し、へーい、と太一が飛び出て行った後も、入念に髷を確認していた。
「うーん、毛先だけじゃないわねえ、かなり焼けてるわ。忠助さん、ちょっと短い髷になるけど仕方ないわね」
確認するように言った。
「ああ、こんなんじゃ仕方ねえだろう」
忠助も諦めたように返した。
「まあ、幸いこのところ、浅草辺りで細くて短い髷が流行り始めてるようだから、最先端のモードになるかも知れないわね」
気合いが入ってきたのか、文太は目を輝かせ始めた。
太一が道具箱を持って来るのを待たずに髷を解いて洗髪をした文太は
「まず、メイクから行きましょうか」
言いながら、忠助の両 小鬢を左右の指先で押さえ、その顔を正面からじっと見た。
「左眉はだめ。生え際から完全に燃えちゃってるわ」
その目は媚びを売るおネェではなく、メイクアップアーティストの輝くそれだった。
「右も剃っちゃいましょ。でもって、生え揃うまで眉墨だわね」
「お、おい、右も剃ちゃうのか?」
文太は、道具箱から剃刀を取り出すと、忠助の言う事などお構いなしに、淀みの無い動きで一気に右眉を落とした。
さてと、と文太が眉墨入れの蓋を開けようとした時
「おう、どうでい。さっきは笑っちまって悪かったな」
暖簾を分けて清造が台所に入ってきた。そして眉を落としたざんばら髪の忠助を見た途端
「おわーっ、何だその顔!ま、眉が両方無えじゃねえかーあっはっは」
再び暴力的な笑い声を発し始めた。
「そ、そりゃ、お前ぇーひっひっひいー、まるでトカゲの顔じゃねーかぁーっ、そんなんでーっひゃっひゃ、そんな顔で外歩いた日にゃ、ひーっひーっひー」
「放っときましょ」
文太は腹を抱えて転げ回る清造を無視してメイクを始めた。腹筋の引き攣りに耐えられなくなったのか、清造は四つん這いになってひーひー笑いながら店に戻っていった。
「忠助さん、どんな眉型がいい?」
「ああ、すっきりと細めのやつがいいかな」
「いっそ、太くげじげじで左右一本に繋げちゃいましょうか。どこかの公園前派出所のお巡りさんみたいに」
「馬鹿野郎。俺は腕捲りして下駄履かねえといけねえのか。ふざけんな」
「冗談よ。これでオッケーっと」
眉墨と筆を戻して櫛と鋏を取り出した文太は、半ば嬉々とした表情で忠助の頭を構い始め
「正直言うとね、新しい髷にチャレンジしてみたかったのよ」
誰に言うともなく口を開きながら、二日酔いとは思えない手捌きで程なく髷を結い直した。
「平太さん、どうよ」
そして忠助から少し離れ、腰を屈めるようにその頭を眺めて言った。
「おっ、いいですね。ますます精悍になったような」
「兄い、格好いいよ」
平太と太一はお世辞抜きで褒めた。
「そうかぁ?うーん、そうだな」
手鏡を手に、多少明るい笑顔になった忠助が満更でもなさそうに言った。
「文太さん、今度はおいらも同じにしてよ」
「あら、太一ちゃんはだめよ。ジャニーズ系なんだから似合わないわよ」
「じゃにーずけー、って何?」
「アイドル系の男の子って事よ」
「あいどるけー、って何なの?」
「まっ、いつもながら何なの何なのってしつっこいわね。それよりも、そのお尻どうしたの?」
腰を上げて繰り返し手鏡の向きを変えていた忠助に、文太が訊いた。
「ああ、尻も焼けてたんだったな」
手鏡を置いて着物の裾を引っ張り、首を捻るように後ろを確認した忠助が言った。
「あらら、火傷してるじゃない。だめよ、すぐに手当てしないと」
素早く着物の穴から忠助の尻を覗き込んだ文太が声を上げ
「膏薬塗るから、そこに横になって」
板間を指差した。
「やめてくれ、オカマに尻なんか触られたかねえ」
しかし、文太は腰を引く忠助の帯を掴むと、ぐいと板間に這い蹲らせた。屈強な忠助の体躯がいとも簡単に組み伏せられた。もしかして文太は何かの武道をやっていたのか、と平太は思った。
「良い膏薬があるのよぉ。この前、薬売りのお兄さんから買ったの」
言いながら文太は道具箱から小さな壺を取り出し、褐色の中身をたっぷり指に着けた。
「そのお兄さん、いい男だったの?」
「あら太一ちゃん、何で分かったの?」
「だって、道具箱にいっぱい入ってるもん」
平太が道具箱を覗き込むと、五つの同じ壺が並んでいた。
「そうなのよお。ちょっと反逆系の大人びたアイドルってとこかしらね。まるでマッチみたいだったわよ」
「まっち、って誰?」
「このガキ、本当にしつこいわねえ」
太一のしつこさに毒づきながら、文太はぬるぬると忠助の尻に膏薬を塗り始めた。
「おわっ、お前どこ触ってんだ!何考えてんだこの野郎」
途端に忠助が悲鳴を上げ始めたが
「何言ってんの、褌も焦げてるくらいなのよ。多少中心部に指が当たったって仕方ないのよ」
文太は嬉しそうに膏薬を塗り続けた。
「馬鹿野郎、中心部過ぎるだろ。大事な所に指を突っ込むんじゃねえ。って、そりゃ前過ぎるぞ」
「あら、たまにはいいじゃない。哀れな文太さんにエネルギー補給をさせてよ」
「たまにはって、いつ俺がお前に尻や股間を触らせた。何がエネルギー補給だ、余計にひりひりし始めた。もういいやめろ」
腰をくねらせていた忠助は耐え切れなくなったのか、がばっと立ち上がって文太から離れた。
「さてと、あたし疲れちゃったから、帰って寝るわね」
一連の作業で残り少ないHPを使い果たしたのか、元の窶れた表情に戻った文太は道具箱を抱えてよたよたと帰っていった。
「くっそー、眉は焼けるわ、オカマに尻の穴ぁ触られるわ。今日は散々な一日だ」
尻を撫でながら忠助が言った。
「本当にすみません、俺が目論見を誤ったばかりに」
「そりゃいいって事よ。これで少しでも村田様の力になれりゃ御の字だ」
「おっと、今夜村田様が来られるのを頭に伝えておかなけりゃ」
「そうだ、お前言っておいてくれ。俺はちょっと長屋に戻って着替えてくらあ」
忠助は草履を突っ掛けて出て行き、へい、と応えた平太は太一と共に店表に戻った。
帳場に座った清造に村田が来る事を伝えると
「そりゃこの前のように長い話になるだろうから、太一、今からひとっ走り行って、旨えもんと酒を買ってきな。ついでに、古着屋に声を掛けて、明日の朝早い内に来てくれ、と頼んでおいてくれ」
いつもの如く帳場の引き出しからから一分金を取り出して太一に渡した。
へーい、と太一が店を飛び出すと、清造は平太に
「明日古着屋が来たら、忠助に着物を一枚世話してやってくれるか。儂は朝一番から廻船問屋の三田屋に行ってくる」
と同じく引き出しから金貨を渡し
「さっきは派手に笑っちまって、悪い事をしたかな」
申し訳なさそうに言った。
「あれはちょっと笑い過ぎでしたね」
金貨を受け取りながら平太が言うと
「そうだな。反省、反省だぁ」
と自分の後頭部を叩いた。
◆牡丹鍋と犯人像
日も暮れて店仕舞いも終わり、店に到着した村田を入れた五人は、清造の部屋で牡丹鍋を囲んでいた。
「薬は久し振りだな。こう見えても顔が知れているんで、なかなか百獣屋には入り辛くてな」
笑顔で言う村田に
「与力のお役職も大変な事で。最近太一がえらく薬を食べるようになりまして、今日は牡丹(=猪肉)を仕入れて参りました」
清造が小皿を渡しながら言った。
「成長期だから仕方あるまい。太一、しっかり食って大きくなるんだぞ」
太一に目を細めた村田は
「それはそうと、忠助、かなり火を浴びて尻も焦げたようだったが、大丈夫か?」
忠助に向き直って訊いた。
「ええ、お陰様で尻の火傷も大した事はありませんでした」
事実、文太が塗った薬の効能なのか痛みは無いようで、忠助は普通に座布団の上に座っていた。
「そうか、髪型も何だかすっきりしたな」
「へい。今流行の細身の髷に結い直してもらいました」
忠助は照れたように首を前に傾け、髷を見せた。
次に村田は平太を見て言った。
「今日はご苦労だった。お陰で爆発の仕掛けも解明できた。この事は御奉行様にも報告しておいたが、もしかすると御奉行様が、仕掛けを解き明かした知恵者に会ってみたい、と仰るかも知れんぞ」
「いえ、こういう事で目立つのも考えものですので、あまり俺の名前は出さないで、適当にはぐらかしておいて頂ければ助かります。それに今回の実験が成功したのも俺の力だけじゃなく、ここにいるみんなの協力があったからです」
「そうだな。とにかく今日は皆に助けられた。礼を言う」
頭を下げる村田に、他の四人は更に深く頭を下げた。
「村田様、鍋が煮えましたよ」
そのお辞儀の連鎖を切るように太一が声を出し、五人は猪口を片手に七輪に載せられて湯気の立つ牡丹鍋を頬張り始めた。
何度か酒と鍋を口にした後、村田は、さてと、と箸を置いた。
「平太、昼間の話だと、何やら犯人像が浮かんだような事を言っていたが?」
「はい。その前に今回の実験に至った経緯と、その結果が一連の事件の状況と一致する事を確認しておきたいと思います」
みんな平太の言葉に異存は無く、各々は続く言葉に聞き入った。
「ここにいるほたる屋のみんなとは、ずっと相談を続けていたので実験までの経緯を知っていると思いますが、村田様には断片的な情報しか話せていません。諄い話になるかも知れませんが、我慢して聞いてください」
平太は、そう前置きして話を続けた。
「最初の事件から、現場で確認されていたのは音だけでした。‘家鳴がキーキーと騒ぎ始め、輪入道の転がる音が近づいた後、天狗の団扇が起こす振動とともに台風より強い風が吹く音が聞こえ、その後大きな音とともに吹き飛ばされ、輪入道の炎で焼かれてまった’という事です。連続した全ての現場での手掛かりはこれだけだったんです」
「そうだ、音だけなんだよな」
清造が言った。
「そうなんです。その音が聞かれたからこそ、輪入道や天狗という妖怪達が引っ張り出されたんです。しかもその音は一回目の犯行から全くぶれていないんです。全てを同じ人間が聞いた訳ではない、現場ごとに違う人々が聞いた音なのにイメージが完全に一致している。という事は、毎回同じ音が同じ順序で発せられたという事です」
「その都度撒かれる瓦版に書かれていたのも全く同じだったな」
忠助も頷いた。
「そして、昨日、というより一昨夜ですが、村田様のご配慮で五件目の現場に立ち会う事ができ、これにはかなりの収穫がありました。その一つは、これが現場に残されていた事です」
平太は懐から手拭いに包んだ線を取り出し、村田の前に押し進めた。
村田はそれを手に取って顔に近づけた。そしてその断面を確認して
「これは、銅線なのか?」
「ご明察のとおり、これは銅線です。四件目までの現場にあったのかどうか分かりませんが、五件目の現場に残されていました」
「ふうむ。今までこのような物が現場にあったとは聞いていない。今回の現場でも北町からそのような話は無い。平太、銅線はこれが全てなのか?」
「いえ、現場にはもっと長く、二十メートル程度残されていました」
「そんな長さの物が現場にあって、それが問題になっていない事が問題だな。北町は何を検分してるんだ」
村田は、苦虫を噛み潰したような表情で言った。
平太は、その事や現場にいた同心の福堀などには触れず説明を続けた。
「続いて、同じく現場に残されていた物として、片栗粉があります。これについて最初は何の粉か判りませんでしたが、留吉親分の奥さんであるシメさんの見立てで、すぐに片栗粉だと言う事が判明しました。その粉は紀浜屋の燃え残った壁際に残っていて、その事で俺は爆発の仕掛けに気が付きました」
「そうか、それで実証実験という事になったんだな」
村田は感心したように言い、ほたる屋の三人はその経緯を確認するように頷いていた。
「そうです。しかし、実は今回の仕掛けで最後まで起爆装置の正体が謎だったんですが、昨日みんなで話している時、頭がエレキテルの存在に思い至ったんです」
清造はその事が自慢なのか、鼻の穴を広げてしたり顔で胸を張った。
「エレキテルとは何なんだ?」
そこで村田が質問した。
「エレキテルとは、頭の話では今から五、六十年前らしいんですが、平賀源内が作った静電気を利用する発電器兼放電器なんです」
「放電器という事は火花を飛ばせるんだな。それも離れた場所から電線を引いて着火できるという事か」
昭和の村田にはすぐに仕掛けの構造が分かったようであった。
「そうです。おそらくその目的で使用された銅線がこれだと思われます」
平太は村田の前に置かれた銅線を指差した。
「今日の実験では蝋燭を使いましたが、実験で行ったように片栗粉を強力な風で店内に送り込んで霧状にしておき、予め店内に送り込まれていた銅線、これは既にエレキテルに接続してあったと思われますが、この銅線の先端から店の中心部でスパークさせれば、極めて効率良く爆発を起こす事が可能だと考えられます」
そこまで言って平太は猪口を口にした。平太以外の全員が爆発の仕掛けを頭に浮かべているのか、うんうんと首を縦に振っていた。
猪口を置いて煙草盆を引き寄せた平太は、慣れた手つきで刻みに火を着け、紫煙を上に向かって吐きながら続けた。
「そして先程の音の話に戻るんですが、今回の実験と犯行を行うための在るべき仕掛けの推定とを合わせると、これまで現場で聞かれた音と完全に一致します。この事からも、今回の実験で使われた爆発の仕掛けは我々の推理どおりだと思われます。片栗粉を吹き込むための、そしてエレキテルから繋がる銅線を突っ込むための穴を壁に開ける。この時の音は家鳴の騒ぐ音です。次に、片栗粉を霧状のエアロゾルにするための強力で大型の鞴、それに火花を飛ばして起爆するためのエレキテルと長い銅線、これらの大がかりな絡繰りを大八車で運ぶ。これは、最初に輪入道が近づく音になります。そして目標となる建物の壁に開けられた穴から鞴で一気に風と片栗粉を送り込む。これは天狗の団扇が起こす振動と台風より強い風の吹く音です。そしてエレキテルによる起爆。その後の出火は輪入道の炎。瓦版に書いてあったとおりです」
「分かった。これで完全に実証できたな」
腕組みをした村田が笑顔で言った。そして
「あとは容疑者だが、一連の事件が同じ手順で同じ結果を引き起こしている以上、同一犯の犯行と見るべきだな」
今度は考え込むように言った。
その村田に向かって、しかし、と煙管を持った平太が口を開いた。
「どうした、何かあるのか?」
「ええ。一連の事件が同一犯の仕業だとして、何故連続なんでしょう?言い換えれば、何故複数の金貸しを爆破する必要があるのか、って事です」
「そりゃ、その店々から金を借りてる奴が犯人だからじゃねえのか?」
清造が簡単に言った。
「そんなに多くの店から借金するような人物がいるんでしょうか?もしこの先、また別の金貸しが同じ手口で爆破されたとしたら、犯人はそこからも金を借りているって事なんでしょうか?」
平太は簡単に言い放つ清造に反論した。
「複数の金貸しから借金するって奴はいるが、四つも五つもの店から大金を借りるってのはなあ」
村田が箸を手に取って、肉の塊を摘みながら口を挟んだ。
「店を吹っ飛ばしたくなるほどの借金と言えば、そりゃ相当な額のはずだ。十両、二十両程度の金でそのような凶悪犯罪に手を染めるってのも割に合わない。おそらく何百両、何千両、もしかすると何万両って額だろうから、そんな大きな借金をする、もしくはできる人物と言えばよっぽどの大店か……武家、それもかなり有力な、おそらく旗本以上だろう」
「大店やお武家様がそのような事をやりますでしょうか?」
清造が疑問を呈した。
「そんな大物が大きな借金を続けた場合、金貸し達の間でも噂になるはずだ。あの世界にブラックリストってのは無いんだろうが、結構頻繁に顧客の情報交換をやってるからな。そうなると、それ以上おいそれと金を貸す相手が出てくるとは思えない。だからと言って、四つ五つの金貸しから借金するってのも不可能とは言えん。大店なら信用問題になるが、大名や旗本だったら可能なのかも知れんな」
可否について何とも言えない村田の発言に、あまり参考にはならないと感じたのか、平太が方向を変えて訊いた。
「満更不可能ではないと言う事ですか……もう一つ、一連の規模の爆発を起こすためには、相応の知識や技術と人手が必要になると思います。しかし人手は別にして、一般の町民にそのような知識と技術力があるとは考えられません。武家に関しては状況が分からないんですが」
「うーん、そうだなあ。旗本の中には大砲や鉄砲組を率いる技術畑もいるが、一連の事件に火薬は使用されていないし。かと言って犯行を可能にする技術力を持ったテクノクラートも思い当たらない……」
またも曖昧な意見だった。
「そうですか。俺が考えるに、商家や武家にはそのような知識や技術を持った人間はいないんだと思います」
「じゃあ、こんな技術や手法を誰が使ったんだ」
忠助が訊いた。平太には何か思いがあるようだったが、すぐには答えず、下を向いて考え込んだ。
「何か考えている事があるようだな」
平太の表情を見ていた村田が言った。
そこで平太は意を決したように口を開いた。
「ただの推理だけで何の確証も無いんですが、爆破を実行した人間は、どこにも借金なんかしていないんじゃないでしょうか」
「は?借金もしてない金貸しを吹っ飛ばした奴がいる、って事か?じゃあ、恨みか?やたら多くの金貸しに恨みを持つ奴の犯行か?」
平太の言う意味が分からない忠助が訊いた。
「いえ、借金も恨みも無いけど爆破する必要の有る人物が、一連の犯行を行ったんじゃないかと思うんです」
「爆破マニアって事か?」
「その線が無いとは言い切れませんが、自分の愉悦感のためだけに危険を冒して、複数の人手を必要とするここまでの仕掛けを弄する人間が存在するでしょうか?」
「テロリストってのは?」
「幕末や明治維新ならまだしも、この天保年間に幕府転覆というのも可能性は低いでしょう。それにテロなら商家ばかりを狙う事もおかしいし、犯行声明なども出ていないはずです」
「益々お前の言ってる事が分からねえ。何が言いてえんだ?」
忠助が痺れを切らせたように口を尖らせた。
「犯行対象に借金や恨みは無いが、それを爆破しなくてはならない……爆破を依頼された集団」
そこで言葉を切った平太に、忠助は、まさか、と言葉を口にした。
「まさか、それは爆破を請け負う奴がいるって事か?」
やっと平太の考えを察したのか忠助が大きな声を出し、その天外な言葉に清造も太一も猪口を手にしたままあ然と口を開けた。
「じゃないかなって思うんです」
平太だけが冷静に言葉を発した。
「以前、片栗粉の買い占めがありましたよね。あれって実行犯が調達したんじゃないでしょうか。それも麹町辺りから粉が消えてしまうほどの大量買いですから、おそらく一回、二回だけの犯行を考えてじゃなく、我々がやったような事前の実験も何回か想定して相当数の連続犯行を計算、予定していたとすれば納得のいく量です。そこまでの準備を整えておいて、何らかの連絡方法で複数のクライアントから爆破を請け負う人物か組織が存在するんじゃないかと思います」
平太が口にする奇想を耳にした清造たちは声を失った。ただ、村田だけは、面白いとでも言うような表情で顎に手を当て、何かを考えているようだった。
「そんな馬鹿な……」
やっと声を出した清造に向いて平太が続けて言った。
「例えば、金貸しから一千両借りた者がいるとします。しかし、その一千両プラス利息全額の返済が不可能になった、もしくは返済したくなくなった。そこに、二割の二百両で貸し主を抹殺しましょう、と誰かが接近したとしたら」
「俺が悪人だったら依頼するな。湯屋や蕎麦の値段からざっと換算計算して、一両は昭和の俺の時代でおよそ十万から十二、三万円くらいだろうと思う。千両となると高く見積もって一億三千万円、その二割だと二千六百万円。って事は、一億三千万円借金しても二千六百万円払えばチャラだ。一億円以上が手元に残る。俺だったら三割でも飛びつくかも知れん」
横から忠助が真顔で言い、猪口を煽った。
「ですよね。ただ、一千両って金額で例えましたが、これくらいの金額って、借金の額としてはどうなんでしょう?」
平太は清造に向かったまま訊いた。
「あるな。千両、二千両なんてのは大店や旗本程度なら平気で貸し借りする金額だ。大名程度になると、石高にもよるが数万両って世界になってくる」
清造は、当然の当たり前という言い方で答えた。
「そうなると、俺の考える事も強ち荒唐無稽ではないと思います」
清造の言葉でその可能性を確信したのか、平太の言葉には断定にも近い響きがあった。
しかしすぐに、ただ、と言葉を続けたが、何故かそのまま口を噤んでしまった。
「ただ、何なんだ?」
気になったのか忠助が訊いた。
「いえ、今言うと話がややこしくなるかもしれないので……」
平太は言い淀み、後を続けなかった。
面白い、と村田が口を開いた。
「これまでの状況を矛盾なく考えた場合、極めて合理的な説だ」
村田は不敵とも見える笑みを浮かべていた。
「どうでしょう。この時代に、犯罪を請け負う、という概念が存在するのかどうか。平成という時代を知る俺だけが考えつく邪悪な発想でしょうか?」
平太の不安とも問い掛けとも聞こえる言葉を受け、いや、と村田が言った。
「以前、殺す相手とその人数によって数十両から百両ほどで殺人を請け負う組織があった。いまから二年くらい前の話だ」
「そんな事があったんですか?」
初めて聞いたのか、驚いたように清造が言った。
「犯行を行っていたのは四人、首謀者と目される人物と連絡役を含めて七人の集団だったが、組織を作って犯罪を請け負うってのはこの江戸でも十分あり得る発想だ。今までの平太の意見とも併せて、一連の犯行に同様の組織が存在する可能性は高いと思う」
「それで、その人殺し組織はどうなったんですか?」
実在する組織犯罪という存在に類似性を感じた平太が訊いた。
「実行犯の四人は全てが腕の立つ浪人で、夜道もしくは押し入ってでの斬殺がその犯行形態だった。実行犯同士の面識は無かったんだが、その内の一人が首謀者の身元を突き止めてしまい、恐喝に及んだ。首謀者はそいつを他の浪人に始末させようとしたが、かなりの深手を負わせたのみで、刺客は返り討ちにされてしまった。恐喝した浪人の方が手練れだったんだろうな。その浪人は瀕死の状態で番屋に倒れ込み、事の次第を全て話した上で絶命した。そこから首謀者が判明し、芋蔓式に残る実行犯二人と連絡役二人、それと首謀者もお縄になった次第だ」
「その沙汰はどうなったんですか?」
太一が、経緯を語る村田に訊いた。
「浪人二人と連絡役の内一人は裁きの上で当然死罪となったが、首謀者は某有力藩のお抱え検校、連絡役の一人が神社の神官だった事から儂ら町奉行所の手出しができず、二人は寺社奉行の差配になった」
「その二人は、それからどうなったんですか?」
目を輝かせて身を乗り出す太一に
「知らん」
村田は素っ気なく言った。
「えー、知らないってどういう事なんですか?」
「寺社奉行がどのような沙汰を出したのか、町方担当の儂らには分からんのだ。寺社と町方では完全に管轄が違うから裁きの結果も何も回ってこないし、知る由もない。ただ」
食い下がって訊く太一に村田は猪口を干して続けた。
「噂では、その某藩の圧力で一件が寺社奉行から幕閣扱いとなって隠密裏に死罪となった、と聞いたが、事実かどうか定かではない」
不確実な噂程度の結果しか分からず、太一は口をへの字に曲げて残念そうに座り直した。
「じゃあ、その犯行グループは全滅って事ですか?」
忠助も興味があるようで、村田に尋ねた。
「という事にはなっている」
「という事には、ってのはどういう意味なんでしょうか?」
忠助は奥歯に物の挟まった言い方をする村田に更問いした。
「儂ではなく他の与力の担当だったんだが、横から見ていた儂の感触では、首謀者の更に後ろにまだ黒幕がいたんじゃないかと……あくまでも儂の岡目だが」
「その人物とは?」
「あくまでも儂が感じただけだ。実在するかどうかも定かではない」
「犯行依頼と実行の取り次ぎはどのような方法で行われてたんでしょうか?」
平太は犯行グループの末路よりもその手段に興味があるようだった。
「新月の深夜、神社裏の祠に依頼主が文と金を置いておき、神官がそれを検校に知らせ、その後もう一人の連絡役が浪人の住む長屋の部屋へ指令書に包んだ銭を投げ込む、というやり方だった」
説明しながら、村田の顔が上気し、徐々に目が大きく見開かれていくのが平太には分かった。たぶん村田も犯罪組織説に強い可能性を感じているんだろう、と思えた。
「そうですか。犯罪を請け負うという行為と、依頼主と直接接触しないという狡猾かつ安全な発想は存在するんですね。やはり今回の連続事件の裏に、そういった犯罪市場が存在するんじゃないでしょうか?」
「面白い!極めて柔軟かつ合理的な考えだ。ハラショーである」
興奮の域に達したのか、村田が声を上げ、ロシア語で賞賛しながら手を打った。
一連の考えを話した平太は語り疲れたのか、多少脱力したように猫背となって猪口を手にした。
「どうだ皆、平太の考えに異はあるか?」
村田が背筋を伸ばし、場を見回して語り掛けた。
「いえ。最初に平太の考えを聞いた時にゃ、荒唐を通り越して天外とも思いましたが、村田様のお話と併せて考えると、満更あり得ねえ事でもねえんだと思います」
「うむ。未だ怨恨の線は消し切れないが、この考えを元に調べてみる価値はあるだろう」
ややあって口を開いた清造が素直に言い、村田は捜査方針とでも言うべき方向を口にした。
「異はございませんが、もしそうだとすると、先程村田様がおっしゃった黒幕、居るか居ないか分かりませんが、こいつの存在が引っ掛かります」
忠助は意見を加えた。
「あれは儂の私見なんだが、そうとしか思えない状況も見て取れた。もしかすると、前回で味をしめたそいつが新たな知恵を得て、またぞろ動き始めたって事も考えられる」
村田は忠助の意見を否定しなかった。
そこで再び、ただ、と平太が口を開いた。
「ただ、みなさん気が付いているか分かりませんが、一連の五件の中で一昨夜の一件だけが異質なんです」
「異質?何が異質なんだ?」
忠助は平太の言っている事に気が付いていないようで、即座に訊き返した。
「それが先ほど言い淀んだ事なんだな?」
村田が思い至ったように訊いた。
「はい。俺は、それまでの四件を検証していないんで、村田様にも確認しながら話して行きますが、大きく異なると思われる点がいくつかあるんです」
背筋を伸ばして言葉を発する平太に、四人とも、うむ、という表情で聞き入った。
「まず、一昨夜現場に着いて感じた事なんですが、紀浜屋が全壊もしくは全焼していなかった事です。俺の感覚では六割の焼失で、破片は十五間ほども飛散していないと感じました。これは村田様にお伺いしたいのですが、それまでの四件は全壊だったんでしょうか?」
「そうだ。全壊の上に全焼だった」
腕組みをした村田が簡潔に応えた。
「破片の飛散は、瓦版によると半町四方という事ですが?」
「四件とも同様だ」
村田は腕組みのまま頷いて言った。
「紀浜屋の店舗の大きさはどうなんでしょう?他四件と比べて大きな店だったんでしょうか?」
「いや、逆に五件の中では小規模な方だな」
そうですか、と呟いた平太は
「威力が小さいんです。同じ仕掛けを使ったはずなんですが、爆発が小規模なんです」
みんなを見回しながら言ったが、誰の口も閉ざされたままだった。
「次に現場の遺留品です。今回俺が持って帰ったように、現場には二十メートル以上の銅線と無視できない量の片栗粉が残されていました。この遺留品情報に関しては先ほど村田様が渋い顔をされていたんですが、四件目まででそのような物の報告はありましたでしょうか?」
平太の問いに村田は再び苦渋の表情を表し
「それに関しては無いとしか言い様がない。一昨夜の事があるんで、本当に何も遺留品が無かったとは言えないかも知れないが、あったという報告はない」
吐くように言った。
「じゃあこの件はペンディングとしましょう」
そこまで言った平太は、清造が、ぺんでぃんぐとは何だ、と質問するかと思ったが、話の流れを妨げる気がないのか、清造は何も言わなかった。
「そして、一昨夜の紀浜屋がそれまでの両替商や金貸しではなく、鼈甲問屋だった事です」
誰かが、おお、という声を漏らした。
「先程から話している中で、犯行のキーワードに借金というのが挙がっていましたが、借金と鼈甲問屋というのが結び付かないんです。裏で金貸しをやっていた、と言うんなら分かりますが」
「そりゃねぇな」
この事に関しては何か知っているのか、清造がすぐさま言った。
「その辺の銭屋ならまだしも、今回の動機になりそうな大金を裏で貸して、それを恒常的にやってたとすりゃあ、金貸し業界の噂にならあ。こう見えても儂はその業界とも付き合いがあるんで、そうなりゃ儂の耳にも入ってくるはずだ。それにあの店をちょいとばかり知ってるんだが、亡くなった旦那も内儀も欲の少ない律儀な人で、裏で金貸しなんて考えられねえ」
人物像を語るだけの付き合いがあったのか、清造は少し力を入れて言った。平太は清造の気持ちを逆撫でしないよう、分かりました、とだけ言い、その点に関してそれ以上の言葉を口にしなかった。
「それでは最後のポイントです。紀浜屋では内儀と娘、そして番頭の三人が亡くなられていますが、三人とも刺殺だそうです。間違いありませんでしょうか?」
平太に視線を向けられた村田は
「間違いない。三人とも匕首で何カ所も刺されていた。内儀母娘は心臓を刺されてほぼ即死、番頭は救出直後に失血死している」
悲しそうな顔で応えた。
「それまでの四件では全員が爆死もしくは焼死で、生存者はいなかったと聞いていますが、そこはどうなんでしょう?」
村田は黙って頷いた。その顔に、うん、と頷いた平太は
「何故今回だけは刺殺なんでしょう?」
場を見回しながら言った。
しかし、誰からの返事も無かった。自分の猪口に酒を注ぎ、ちらっと口を付けた平太は声を少し大きくして言葉を続けた。
「刺殺という事は、爆発以前に押し入った、って事です。何故そうする必要があったんでしょう?」
「何かを盗ろうとしたのかな。金かなあ。吹っ飛ばした後じゃ、騒ぎになるから何も盗れないよね」
太一は当然の推理を口にした。
「俺もそうだと思います。だとすると、犯人の目的が変化しています。爆発とそれに伴う火災で全てを消去する事が目的なのに、今回は強盗という目的が加わっています。これが何を意味するのか……」
「行きがけの駄賃に金子も、って事じゃねえか?」
「今回の犯人、犯行グループは相当に頭が良くて用心深いんだと考えられます。意図的だと思いますが、瓦版を操作して家鳴や天狗と言った妖怪を表に出し、その陰で人間臭を消して暗躍する。これは今日忠助さんから、瓦版の記事は金次第、と聞いてそう考えたんですが、そんな犯人が、一時的な金は入手できるがそれ相応のリスクも発生させ、明らかに人間の手による殺人であるという事が露わになってしまう、という行為を行うとは考え辛いんです」
ほたる屋の三人が何も言えずに唸る中
「それで異質だと言うのか。それらの点については儂も考えが及ばなかった」
村田が顔を顰め、低い声で吐くように言った。
「そうです、異質です。手際が悪過ぎるし、部分的な手口を急に変えているんです。もっと言えば、とても同一犯とは考えられないのが紀浜屋の一件なんです」
「おい、同一犯じゃねえのか?それじゃあ、先程までの同一犯説は何なんだ」
忠助が顔色を変えて噛み付いた。
「いや、全く別の組織がやったと言ってるんじゃないんです。使用した仕掛けは同じだと思います。あれ以外に火薬を使わない爆破ってのもこの時代では考えにくいし、まさか粉塵爆発用の仕掛けが広く流通しているとも思えません。ただ、同じ犯人がやったと考えるには、あまりに不手際が多いんです」
「て事は、組織の中の下手くそがやったってのか?」
「そうなんです、下手くそなんですよ」
上手い表現を使う忠助に平太が返した。
「手が替わったって事か?」
村田が後を継いだ。
「その可能性はあります。それまで実行犯に加わっていなかったメンバーが行ったのか、それともメンバーの中で担当する役割を変えたのか」
「役割って、この犯行を行うのにそんなに人数が要るのか?」
「俺の想像した仕掛けから考えて、最低でもざっと六、七人は必要です。二台の鞴で風を送り込む役と片栗粉を装填する役で三人。この三人は壁に穴を開ける役と兼務できます。穴から建物内に銅線を送り込んで配線をセットする役が一人と、同時にエレキテルを回し始めて発電、蓄電を行う役が一人。一連の流れを把握して指揮を執る役で一人。この指揮役は配線役と兼ねられるかも知れません。そしておそらく見張りも必要でしょうから、それに一人か二人ってとこでしょうか」
「そんなに要るのか。大所帯だな」
清造が驚いたように声を上げた。
「それだけの人数が大八車とともに移動する訳ですから、相当慎重に用心深く事を運ばないといけません。人通りの全く無い深夜である事は当然、月明かりの無い時間帯もしくは新月の夜が条件となるでしょう。一昨夜も新月でした。その移動も木戸の無いルートを選ばなくてはならず、服装も動きやすくかつ目立たない色の……あっ!」
平太が大きな口を開けて上げた突然の大声に、気を張って聞き入っていた四人が飛び上がるように腰を浮かせた。
「ばっ、馬鹿野郎!驚かすんじゃねえ」
座ったまま仰け反るように後ろ手を突いた清造が声を上げた。
「そうだ。百物語じゃねえんだぞ。驚かしてどうするんだ」
忠助も身構えるようにして言った。
「あの夜ですよ」
平太はそれまでの話とは全く脈絡の無い言葉を口にした。
「そうだよ。あの夜の黒い奴らだよ」
太一には平太の言いたい事が瞬時に分かったようだった。
「何だ、あの夜とか黒い奴らってのは?」
二人が合点した意味が分からない村田が訊いた。
「以前、店のみんなで百獣屋に行った帰り、大八車を引く黒装束の集団を見ました。そしてその夜に赤坂の事件が起こっているんです」
「何っ、犯人を見たのか?」
村田が身を乗り出した。
「犯人かどうか分かりませんが、夜目の効く文太さんによると、大きな葛籠と行李を載せた大八車と黒装束の男たち七人でした。男達の顔までは確認できませんでしたが」
「そうだったな。ありゃ怪し過ぎだったな」
忠助は思い出すように腕組みをした。
「もしそうだと、あの集団が犯人だとすると、やはり七人。しかも大きな葛籠や行李……やはり爆発の手口は間違いないでしょう。となると……七人が、いや……」
平太はぶつぶつ呟きながら煙草盆に手を伸ばした。
暫し上を向いて紫煙を吐いていた平太は、そうだよ、そうなんだよ、と呟くと、ポンと灰吹きに雁首を打ち付け
「紀浜屋の時には、その人数が揃わなかったんじゃないでしょうか?」
四人に向かって言った。
「ほう、また急に飛躍した話だな。何故そう考えるんだ?」
平太の新たな意見に、村田が腕組みをして嬉しそうに訊いた。平太が次々に語る、奉行所という組織では考えつかない推理と可能性に期待を寄せているように見えた
「逃げ方が雑だからです」
「逃げ方が?」
「はい。四件目までの犯行で現場に遺留品が無かったとは言い切れないんですが、紀浜屋の一件では犯人が銅線と片栗粉の残滓を残したまま退却しています。今回推理した仕掛けで犯行を行うには統制の取れた動きとスピードが必要になります。例えば、片栗粉をエアロゾル状にしてすかさず着火しないと、浮遊した片栗粉がすぐに沈降を始めます。我々の実験の際でも、一回目は着火に手間取って失敗でした。そしてその着火の折には、鞴とその操作役は既に避難していないと巻き添えを食います。そして、退却の時もそうです。爆発と同時に銅線を回収し、一切合財を大八車に積み込んで逃げないと、誰に姿を見られるか分かりません。秒単位での進行が必要なんです」
長台詞を喋った平太は、そこで、ちょっと、と言い、猪口の酒を煽った。
「中断してすみませんでした。で、そのスピーディな動きのできていない事が、今回の遺留品に繋がっていると思います」
「片付けが杜撰……って事か」
村田は腕組みのまま呟いた。
「杜撰と言うよりも、手が回らなかったんじゃないでしょうか?」
「それで人数が揃わなかった、と考えるのか」
「ええ」
村田は口を一文字に結び、ふんっ、と鼻息を吐いた。
「ねえねえ平太さん、揃わなかったって、何人?何人でやったの?」
「そんなの分からないよ。見た訳じゃないし、あくまでも俺の憶測なんだし」
太一の突拍子もない質問に窮した平太は、腰を浮かせて鍋を覗き込んだが、そこにはもう汁しか残っていなかった。
「爆破対象の店にもよるけど、必要なのは最低三人かなあ。でも少ない人数だと危険なんだよ」
平太の顔を覗き込み続ける太一に仕方なく答えた。
「危険なの?危ないの?」
「ああ。指揮役がいないと、焦ったりして着火のタイミングを誤った場合、一緒に吹き飛ばされる可能性があるな」
座り直して箸を置いた平太に
「なあ平太。今一つ分からねえんだが、もしお前の言うとおり犯行をまともに実行する手が揃わなかったのなら、何でそれでも強行したんだろう?」
忠助が当然の疑問を口にした。問われた平太も答えが見当たらないのか、うー、と唸ったまま腕組みをした。
村田が口を開いた。
「もっと状況を単純に考えてみないか」
行き詰まってしまい、考えの浮かばないほたる屋の四人がその顔を見た。
「五件全ての事件に同じ爆破装置が使われた。これは間違いないな。そして五件目だけ爆破装置以外の手口が異なる。具体には、爆破装置の運用、殺人の手口、狙った店の業態が違うという事だ。これだけを考えるとどうだ?」
「先ほど平太が言ったように、やはり五件目だけ犯人が違うような気がします」
忠助が答えた。
「だが、爆発装置は同じものを使っている。同じ装置が巷に幾つもあるとは思えない」
「同じ装置を別の人間が使ったとしか……」
「それでいいんじゃないのか?」
忠助は、へ?、という顔をした。
「犯行グループの中で仲間割れが起こったか、もしくはスタンドプレーを行う者が出てきた」
腕組みのまま呟くように平太が言い
「そうだ。それが一番シンプルな結論じゃないのか」
端からそう考えていたのか、村田が賛同するように言った。
「私欲に走ったスタンドプレーだとは思えないか?犯行グループの中の数人が、おそらく三、四人が勝手に装置を持ち出して、依頼ではなく私欲のために鼈甲問屋を襲った。動機が私欲だから、直前に押し込みを行って金品を奪った挙げ句に刺し殺す。その上犯行は天狗の仕業にしたいから、当然爆発は実行しなくてはならない」
「あに図らんや、人数が少ねえから思うほどの爆発規模にならず、雑な逃げ方しかできねえ」
村田の後を受けるように忠助が言った。
「そう考えると、五件目だけ犯人の人格が変わったように見えるのも肯ける」
そう締め括ろうとする村田に
「しかし、それは推理以前のただの可能性であって、それを裏付けるものは何もありません」
渋い顔で平太が言った。
「実はな、それに関して繋がりそうな情報があるんだ」
平太の反論に崩れる事もなく、村田は背筋を伸ばして応えた。
「繋がる情報ですか?」
「そうだ。と言っても、関連しそうだと考えたのはつい今しがたなんだがな。先ほど小人数でのスタンドプレーという話が出て思いついた事なんだが、今朝方実験に向かう途中、隅田川で刺殺死体が二体上がったって話はしたな」
清造を除く三人が頷いた。
「それで、実験の後北町に行った折、向こうの与力から仕入れた情報なんだが、一昨夜はもう一人仏がいたらしい」
「隅田川とは別に死体ですか?」
忠助が首を伸ばして訊いた。
「ああ、見つかった場所も隅田川じゃなく本所の寺だ。その直接の死因は心臓を匕首でひと突きって事なんだが、体中に火傷を負っていた」
「火傷?」
「そうだ。本所の寺の山門に、体中に大火傷をした刺殺死体が転がっていたそうだ」
怪訝そうに訊く忠助に村田が言葉を続けた。
「検分の結果、膝から首まで体前面に酷い火傷を負っていて、そのうえ両腕と右脚、右肋骨数本が折れていた。それだけでも命に関わる重傷だろうが、とどめは匕首で心臓をぶすりとひと突き。身に着けていたのは焦げた形跡もない浴衣一枚だけだった。儂もちょいと興味を持って仏を見させてもらったんだが、ありゃあ酷かったな。火傷と怪我を負った時は生きていたんだろうが、とてもとても自分で助けを求める事のできる状態じゃなかったと思う」
「その仏はいつ見つかったんですか?」
今度は太一が訊いた。
「明け六つに住職が見つけたそうだ。仏の周りに血溜まりも無かったって話だから、どこか他所で殺されて寺に放り込まれたんだろうな」
「そんな大火傷と大怪我をしている事自体が不自然ですね。この江戸では、火事でも起きない限り体中に大火傷なんてしませんよね」
「飯を炊いていて竈の火が着物に燃え移ったとか」
当然の疑問を口にする平太に清造が言った。
「かも知れませんが、骨折はしないでしょうし、とどめを刺される謂われもないでしょう。それに浴衣も焦げていないという話ですから」
平太の言葉にあっさりと、だよなあ、と呟いた清造は、煙管に刻みを詰め始めた。
「そこで、だ。何故その男が大火傷と派手な骨折をしていたのか、何故刺殺されなければならなかったのか、って事だな」
村田は思わせぶりな言い方で場を見回した。
“やはり、この人は切れる人だ。持っている情報が多い事は当然だが、右往左往と与太話のように議論を進めながら、いつの間にかその様々な情報を合理的かつ高精度な推論に纏め上げてしまう”
平太は村田の言いたい事を瞬時に理解するとともに、心の中でその統合能力に感心していた。
「失敗したんだよ。爆発の時に一緒に吹っ飛んだんだよ」
「そうだ」
太一の回答に、算盤の先生が、御明算、とでも言うように村田が声を上げた。
「今日の実験を見たら分かるよ。あれくらいの爆発でも兄いは大変な事になったんだ。あれの何倍もの爆発に巻き込まれたら本当に大怪我しちゃうよ」
太一の言葉に自身の受難を思い起こしたのか、忠助はうんうんと頷いていた。
「という事は、そいつが犯人だよ」
太一は村田に自分の意見が認められた事が自慢なのか、腕組みをして、ふんっ、と鼻息を吐いた。
「瓦版だあ」
突然、清造が素っ頓狂な言葉を口にした。
「そいつは他の仲間に連れ帰ってもらったんだ。だから鵺なんだ」
「鵺?」
そうか、と清造の言いたい事に思い至った平太の横で、意味の分からない忠助が訊いた。
「そいつはな、大怪我をして大八車か何かに載せられたんだ。それも痛さに悲鳴を上げながら。それが鵺の鳴き声なんだ」
跳ねるように立ち上がった清造は、百メートル走の如くロケットスタートを切り、あっという間に帳場から瓦版を取って来た。
これです、と清造から突き出された瓦版を一瞬で速読した村田は、ほう、と言って薄笑いを浮かべ、それを忠助に渡した。
「何々、紀浜屋が吹き飛んだ後、おーうおーう、と鵺が鳴きながら走り去った、ってか。そうか、頭はこの鳴き声がそいつの悲鳴だと」
「そうだ。騒音が少ねえから江戸の人間ってのは耳が効く。誰かが聞いた悲鳴が鵺の鳴き声になっちまったんだろう。もしくは、誤魔化すために意図的に鵺を登場させたのか」
「そうなると、瓦版も犯人なの?」
「そりゃ分からん。妖怪の名前を出せば怖い物好きの江戸っ子にゃ売れるぞ、とでも入れ知恵すりゃ、版元はほいほい乗ってくるかも知れねえからな」
清造の言葉に太一は、ふーん、と鼻から声を出した。
「まさにそうだな。鵺に関しては状況を考えれば符合する」
賛同する村田の言葉に、そうですね、と同調した平太は
「おそらく、三人という小人数ゆえ指揮役を立てられなかったんでしょう。その挙げ句に着火のタイミングを誤り、一人が重傷を負った。そのままにする訳にもいかないので、慌てて大八車に乗せて引き上げた」
想像される情景を語った。
「だから、片付けが杜撰になった、負傷した奴は大八車の上で鵺の鳴き声のように悲鳴を上げ続けた、って事だな」
忠助にも理解できたようであったが
「でも、何で刺し殺されたんでしょうか?」
村田に次の疑問を口にした。
「おそらく、粛清だな」
「粛清?」
眉を顰めるようにぼそりと言う村田に忠助がオウム返しをした。
「スタンドプレーに走った奴らは、その後どこに引き上げた?」
「そりゃアジトでしょう。怪しげな道具はそこから持ち出したんだろうし、うんうん唸ってる怪我人を抱えてる訳ですから、やっぱりアジトに戻るしかないんじゃないでしょうか」
村田の謎掛けのような問いに忠助が即答した。
「だろうな。日が昇ってからもその怪しげな道具の載った大八車を市中で引く訳にもいかないし、おそらくその上に重傷者が載ってるだろうから、とにかく人目を避けなくちゃならん。人目のある長屋などのねぐらにそのまま戻る事もできない。そうなると、やはり組織のアジトしか無いんだろうな。そうなるとどうなる?」
「どうなるって訊かれても……」
新たな村田の問いに忠助が窮し
「だから粛清なんですね」
村田の言いたい筋書きを理解している平太が後を継いだ。
「平太には解っているようだな」
そう言った村田は眉を絞ったまま煙草盆に手を伸ばし
「清造、お前だったらどうする?」
と訊いたが
「どうするとは?」
質問の意図を図りかねるのか、清造が上目遣いで訊き返した。
「仮にお前がその組織の頭だったとして、勝手に道具を持ち出して全く違う手口で人殺しと金品の強奪を行い、挙げ句の果てにドジ踏んで瀕死で帰ってきた奴らをどうする?」
邪悪な質問が紫煙と共に村田の口から吐かれた。清造は一瞬下を向き、ややあって口を開いて低い声を発した。
「儂が悪党だったら……始末します」
「そうだな、儂でもそうするな。私欲に走って組織を破綻させかねない事をしでかした奴は放って置けない」
村田に振られた情景に入り込んでいるのか、へい、と応えた清造の顔には、普段に無い表情が浮かんでいた。それを見た太一の顔が一瞬引き攣るほど凄みのある形相だった。
“洋酒輸入会社の社長とは言っていたが、もしかすると……”
平太はふとそう思った。
「それで刺し殺して寺に放り込んだ、ってえ訳か。酷え事しやがる」
忠助も苦虫を噛み潰したような表情で言い
「だが、犯行はそいつだけじゃないでしょう?」
と紫煙を吐く顔を見た。
「そこで隅田川の仏二人が登場だ」
村田の発言に、あっ、と四人が声を上げ
「その二人について何か分かっているんですか?」
平太が訊いた。
「片方の顔を知っている同心が北町にいて、それで身元が判ったんだが、住処を捜索したところそいつの長屋から小判十両ほどと鼈甲の櫛が三枚見つかった。さすがにヤバいと思ったのか、一人は長屋に逃げ帰ったんだろうな。小判も櫛も紙に包まれて七輪の下に隠してあった」
「櫛?紀浜屋は問屋なんで製品の櫛は扱っていないはずでは?」
留吉から紀浜屋の業態を聞いていた平太が疑問を口にした。
「見本と称して鼈甲細工の職人が櫛や飾りを問屋に預ける、ってのは往々にある話だ。仕入れ金の一部に換えてってのもあるが、まあ、あの店にゃ娘もいたから広告も兼ねた贈り物ってのも考えられるな」
清造が疑問に応えた。
「広告?」
「あそこの娘は日本橋一の別嬪だって有名だから、錦絵にもされている。その絵に描かれていたり、本人が飾って町を歩きゃそれ自体が広告だ。どこの職人の作だって事で話題になって、他の金持ち娘達が買い漁り始める」
へえ、と平太は納得した。
「そういう話なら、明日その櫛を紀浜屋の使用人に確認させてみよう」
村田は新たな糸口を見つけたせいか、少し嬉しそうに顎を撫でた。
「そいつは何者なんですか?」
「名は喜一と言って、悪事を繰り返して何年か前に所払いになったんだが、いつの間にか市中に舞い戻った男だ。ついこの前までは職に就かない遊び人だったらしいが、なかなかの男前だった事から、ほれ、あの浅草の男茶屋で働き始めたらしい」
忠助の問いに返す村田が意外な店の存在を口にした。
「ほう、その悪党はそんなに男前だったんですかね」
忠助はひねた言い方をした。
「儂には分からん。ただ、遊び人の時も女にはもてたらしい。美人局の様な事もやっていた、と北町の同心が言っていた」
「となると、残る二人もその茶屋の人間でしょうか?」
「それは北町が調べているだろう」
忠助に答えた村田に向かって平太が口を開いた。
「村田様の仰るとおり、これで繋がりましたね。犯罪組織の中の数人、おそらく殺された三人でしょうが、こいつらがスタンドプレーで五件目の犯行を行った。しかし、不慣れに加えて少人数だったために怪我人を抱えて逃げ帰った。それを知った組織が見せしめと口封じを兼ねて抹殺した。ただ、今のところ状況証拠を元にしただけの推理なんで、この後は奉行所のお調べに任せるしかありませんね」
「儂が知っている情報はここまでだ」
満足のいく結論が得られたと感じているのか、平太に応えた村田は笑顔で猪口に手を掛けたが、もうその中に液体は残っていなかった。それを見た太一が酌をしようとしたが、これまでかな、と猪口を持った主が言った。
「今の段階で行き着けるのはここまでだな。後は平太の言うとおり、奉行所での捜査を進めるしかないんだが、幸い一連の事件は南北の奉行所で共に当たるようになっている。今後も新たな情報が入ったら、また皆で推理しようじゃないか。とは言っても、爆発の絡繰りを解いた以上、犯行グループの捜索は奉行所だけで足りるだろうが」
「それに関して一つお願いがあります」
猪口を置こうとした村田に、腰をずらすように正対した平太が声を発した。
「今回の推理を補完するためにも、確認して頂きたい事があります」
「ほう、何だ」
村田も平太に顔を向けて訊いた。
「先ほども少し触れましたが、犯人は爆発に関する実験を事前にやっているはずです。一回では済まないでしょうから、二回以上複数回の実験回数と思われますが、これの行われた形跡が無いかをお調べ頂きたいんです」
「そうだな。ただ儂が考えるに、その実験が行われていたとしても江戸市中ではないはずだ。そのような話や騒ぎは聞いた事がない」
「ええ。俺もそう思います」
「となると、まずは関八州に当たってみるか」
「かんはっしゅう?」
聞き慣れない言葉に平太は首を傾げた。
「関八州ってのは正しくは関東取締出役と言って、関東で江戸を除く常陸や上総など八つの地域を取り締まる幕府直轄の役職だ。それにも仲間がいる」
清造が説明した。
「そうなんですか。結構なネットワークが組んであるんですね」
「何だぁその、ねっとわーく、ってのは?」
「まあそれは後で説明するとして、おそらく江戸近隣の人口密度の低い場所で実験は行われたんだと思います。ただ、いくら人家から離れた場所とは言っても、何らかの痕跡は残っているはずですので、村田様、お願いします」
「分かった。明日すぐに問い合わせの連絡を出そう」
そう言って村田は、さてと、と声を出し
「昼間の実験といいこの場での推理といい、今日一日で多大な収穫があった。やはり未来の知識ってのは素晴らしい。その上久々に山鯨(=猪肉)も馳走になったし、皆には本当に礼を言わなくてはならん」
再び丁寧に頭を下げた。他の四人も平にお辞儀をしたが
「素晴らしいだけの未来ではないかも知れませんが」
平太がそう口にした。
「自虐的だな」
腰を上げ、後ろに置いていた刀を手にしながら村田が言った。
「ですね……余計な事を言いました」
平太は顔を伏せた。
店表から村田を見送り、忠助以下三人は片付けに掛かった。
「肉も酒も旨かったが、あんな話をしながらじゃどうも酔えねえな」
台所で鍋を洗いながら忠助が言った。隣で七輪の火を消していた太一は
「おいらは楽しかったよ。今日はいろんな事が勉強できたから」
笑顔で忠助を見上げながら言った。
そこに清造が入ってきて
「平太、ぺんでんぐとねっとわーく、ってのは何なんだ?」
と訊いた。やはりしぶとく憶えていたらしい。
「ペンディングは棚上げ、ネットワークは組織や個人の繋がりって事です」
平太は清造の質問を予測していたのか、小鉢を拭きながら答えた。
しかし、意外にも清造は、いとも簡単に、ふーん、と言いながら奥に引っ込んでいった。
「あれ、今夜はしつこくないですねえ」
更問いや追加の質問を予想していた平太は、拍子抜けしたように言った。
「すぐ簡単に説明すりゃ、食い下がる事はねえよ。あれが翌日くらいまで説明しなかったら、ずっと空想と妄想を繰り広げて訳の分からない質問をし始めるんだ。ただ、二日放っておくと全て忘れる」
「そうなんですか。じゃあ面倒臭かったら二日放っておけばいいんですね」
「あはは、そうだな」
笑いながら応えていた忠助は、これでよしっ、と鍋を棚に納め
「そう言や、トモさん今日も休んでたが大丈夫かな?」
誰に訊くともなく言った。
「夕方覗いてみたら、かなりいいみたいだったよ。お粥作って食べてたから」
太一が手拭いで手を拭きながら言った。
「そうか。トモさんも歳だから、簡単な風邪でも気を付けねえとな。おう太一、これで頭の部屋拭いてこい」
忠助から絞った雑巾を渡された太一は、へーい、と駆け足で奥に消えていった。
「トモさんって、いつ頃からいるんですか?」
平太は忠助の背中に、前から思っていた疑問を口にしてみた。
「さあな、訊いた事もねえから分からねえが、もうかなり昔に飛ばされて来たんじゃねえのか。頭よりも古いって聞いた事があるから」
「子供さんがいたんじゃないでしょうかね?」
「何でそう思う?」
忠助は平太を振り返って訊いた。
「太一をとても可愛がるから。それも溺愛に近い形で」
平太は、太一が行った奥を見ながら言った。ふん、と鼻を鳴らした忠助の顔は笑っていた。
「だろうな。それは俺も思っていた。確かに溺愛って言葉が当てはまる時があるな」
「やっぱり母親だったんですかねえ」
「多かれ少なかれ、飛ばされて来る奴の大半は人の親だったんじゃねえか。独身なのは俺とお前と太一くらいのもんだろう」
忠助がそう言った時、拭いてきたよー、と太一の明るい声が聞こえた。
「よし、じゃあ湯屋ももう仕舞っちまってるし、頭がまた何か思い出して、何だぁ、って訊きに来ないうちに、とっとと長屋に引き上げるか」
忠助の声で三人は裏口を潜った。
◆井戸端とケイ
翌日も平太は夜明け前に目を覚ました。早朝から井戸端で食材の準備をするケイと二人っきりで話をしたい、という半ば邪な思いからだった。目覚まし時計も無いこの時代に若い男が夜明け前に目を覚ますというのはなかなか困難な行為であったが、平太は気合いでそれを克服した。
しかし、それほどケイに惹かれている事を、実は平太自身は分かっていなかった。こと恋愛に関しては純粋どころか幼稚な男であった。
「おはよう」
その朝も歯磨きを装った平太が井戸端にケイの姿を確認した。
「おはようございます」
ケイは、小振りな大根を洗いながらはにかんだような笑顔で応えた。
「そう言えば平太さん、トモさん風邪で寝込んでたんですってね」
「ええ。お陰で昨日、一昨日と朝御飯が無かったんです。まあ、俺は朝食抜きの生活が長かったんで慣れていますけど、何でトモさんの事を知ってるんですか?」
「昨夜、湯屋に行く途中で一緒になりまして、熱も下がったんでかいた寝汗を流す、って言われていました」
「良かった。風呂に入れるほど回復したんだ。じゃあ今朝はご飯があるかな」
平太はほたる屋に視線を向けた。
「だったらいいですね」
そう言ったケイは大根を笊に入れ、では、と微笑んで井戸端を離れた。
“やっぱり可愛いよな”
平太はだらしない顔でにやにやしながら房楊子を緩慢に動かした。
そして、その後も平太の早起きは続くのだった。
◆与力と宿題
数日後の夕刻、御免よ、と暖簾を掻き分けて与力の村田がほたる屋に顔を出した。
「これは村田様。今日は何の御用でしょうか?」
清造の代わりに帳場に座っていた忠助が笑顔で腰を浮かせた。忠助は数日前の爆発実験で着物が焼け焦げたため、清造から新たな、といっても古着ではあったが着物を買ってもらっていた。
村田は、立ち上がらなくても良いとでもいう仕草で右掌を上下にぱたぱたさせ
「いきなり何の御用とはご挨拶だな」
笑いながら口を尖らせた。
「いえいえ、そんなつもりで申し上げたんじゃ」
「はは、冗談だよ」
困った顔をする忠助の肩をぽんと叩いた。
「それより、尻の具合はどうだ?」
村田は少し心配そうな顔で訊きながら帳場の横に腰掛けた。
「へい。あれからもうすっかり」
「そりゃ良かった。あの状態から見て、本気で小石川に連絡しようかと思ったんだが。何か良い薬でもあったか?」
「ええ、文太の持っていた膏薬が飛びっ切り効きまして」
「文太とは、あの髪結いの……か?」
「へい」
「まあ、お仲間だけど……儂はちょっと苦手だな」
「あはは、みんな苦手でさあ。ですが、髪結いの腕は間違いないし、あれで結構な伝を持ってまして、なかなか組の助けにゃなります」
「そうだな。それは清造からも聞いている。皆には何よりも組の存続を大事にしてもらいたいゆえ、そういう仲間は大切にしないとな」
「まあ、オカマってのがちょいと玉に瑕ですが」
「オカマとは言っても別に非合法な男娼をしている訳でもないし、実害が無ければ良かろう」
「害があるのか無いのか、良く分かりませんが」
「何だそりゃ」
「まあ、そりゃあ置いといて。で、旦那、頭に御用ですか?」
忠助は文太の話題から離れて訊いた。
「清造だけに用という訳じゃなく、この前の宿題だ」
「宿題ですか?」
「先日の話で、犯行を行った者がどこかで実験した形跡が無いか、と平太に問われていた事の調査結果だ」
村田は足を組み、足先に引っ掛けた雪駄をぷらぷらさせた。その態度と笑顔から何らかの収穫があったように忠助は感じた。
「どうしましょう?頭と平太は外に出ていますが」
「そうなのか」
「ええ。でも、直に帰ってくるとは思います」
ちょうどその時、ただいま帰りました、と平太が帰ってきた。以前に住み込み奉公を斡旋した店でその後の状況を確認してきたのだった。今で言うアフターケアのようなものであった。
清造はと言えば、朝から付き合いのある場所を回って、未だに良いものが見つからないケイの働き口を探していた。女性人口の少ない江戸とは言え、その社会進出にはまだまだ閉ざされた感のある時代でもあった。平太の心の中には、このままケイの働き口が見つからなければいいのに、とも思う邪悪な部分も少しあったが、さすがにそれを口にする事はなかった。
「あ、村田様、ようこそお越しを」
帳場の横で寛ぐように腰掛けている与力に気が付いた平太は丁寧に頭を下げた。
「相変わらず元気そうだな、平太」
「ありがとうございます。で、今日村田様は?」
「さっきも忠助には言ったんだが、この前の宿題に対する回答を持ってきた」
「もう分かったんですか。どこですか?」
平太が身を乗り出して訊いた時、帰えったぞ、という声と共に清造が暖簾から顔を覗けた。
「おお、村田様。今日は何事で?」
三人続けて、何事ですか、と挨拶された村田は、少しかちんときたのか
「おうおう、どいつもこいつも儂が来たんじゃ困るような言い方だな」
唇の片端を上げて意地悪そうに言った。清造は訳が分からず、へ?、と呆けた顔をして
「何かこいつらが粗相でもしでかしましたか?」
と腰を低くした。
「ははは、違う違う。ここの三人が揃って同じ台詞を口にするもんだから、ちょっと意地悪く言ってみただけだ。これで太一も同じような事を言ったら、儂は本当に帰るかも知れんぞ」
右腕を伸ばして掌を振りながら村田は笑顔で言った。
「ありゃりゃ、そうでしたか。そりゃ申し訳ありません」
清造は頭を掻きながら言ったが
「そういや、太一は?」
清造は首を上げて店を見回した。
「太一は蔵に道具を納めてます」
忠助がそう言った途端
「兄ぃ、終わったよー」
太一が奥から駆けて来た。そして忠助の横に腰掛けている村田に気付くと、笑顔でぺこりとお辞儀をした。
「あ、村田様、いらっしゃいませ」
「おお。太一は、何で来たんだ、って言わないのか?」
「え?どうしたんですか、おいらがそんな事訊かなくちゃいけないんですか?」
「いやいや、いいさ。お前だけだ、優しく迎えてくれるのは」
「ちょっとちょっと村田様、誰もそんな邪険な扱いはしてませんぜ」
態と陰険な口ぶりで言う村田に忠助が困ったように言った。そうですそうです、と忠助の言葉に次いでぶーぶー言う清造と平太に
「分かった分かった。そう言う事にしておこう」
冗談っぽく笑いながら右掌を見せた。
「じゃあ、もう客も来ねえだろうし、早めに店ぇ閉めるか」
清造の指示にみんな、へい、と応え、慌ただしく店仕舞いに掛かった。
いつもの清造の部屋で五人は車座に座った。清造は村田に
「酒と肴を準備しましょう」
と言ったのだが、
「いや、今夜はお奉行との約束があるんで遠慮させてもらおう。悪いが、今日はこの前の宿題を簡単に話すだけだ」
と体よく断られてしまい、買い出しに行く気満々だった太一は、肩すかしを食って少ししょげていた。
「じゃ、時間も無いんでざっと話させてもらおう」
と切り出した村田が後を続けた。
「この前平太に尋ねられた犯人達の爆発実験についてだが、あの後関八州に問い合わせてみたところ、相模でそれらしい騒ぎがあったようだ」
「相模ですか?」
「ああ、相模の大磯だ。そこで雷獣騒ぎがあったらしい」
「らいじゅうさわぎ?」
清造の問いに返した村田の言葉に四人が揃って声を上げ、
「らいじゅうって何なのでしょうか?」
その中でも全く意味の分からない平太が重ねて訊いた。
「雷獣ってのはな、雷と共に天から落ちてくる獣の事だ」
平太の問いに清造が応えた。
「この時代じゃ、いつもじゃねえが落雷と共に猫ぐらいの大きさの雷獣ってのが降ってくる、って話があるんだ」
「そんな動物がいるんですか?」
「そんな生物がいる訳ねえじゃねえか。降ってきたのを見たとか、とっ捕まえて食ったとかいう話もあるが、怪しいもんだ」
「へえ。そいつが雷を落とすんですか?」
「いや、雷神じゃねえから。そいつが雷を落とすってんじゃなく、雷と一緒に落ちてくるんだ」
「それで大磯の雷獣騒ぎってのは、一体どのような事が起こったんですか?」
清造と平太の雷獣談義を遮るように忠助が村田に訊いた。
「大磯の外れにある一軒家、といっても三間四方程度の崩れかけた廃屋なんだが、七ヶ月ほど前の深夜に雲も無く雨でもないのに雷が落ちて全焼した、って話だ」
「雷獣ってのは?何で雷獣騒ぎなんですか?」
太一が訊いた。
「焼け跡や周囲から、何体かの雷獣の焼死体が見つかったらしい」
「雷獣の死体ですか?」
「ああ、猫ほどの大きさの獣だったそうだ」
「それってどんな姿をしているんですか?」
「さっきも言ったように焼け死んでいたそうだから、猫ほどの大きさで尻尾と牙があって四つ足、って事以外は良く分からんそうだ。儂も本来の雷獣の姿なんて見た事がない」
平太は雷獣の姿が想像つかないため、ふーん、と首を捻った。
「それともう一つ、武蔵の久良岐でも半年前に騒ぎがあったようだ」
「ほう、次は久良岐ですか。江戸に近づきましたね」
地理の分かる清造が言った。
「それも、落雷、火事、雷獣ですか?」
「そうだ。これは見捨てられたような廃寺が燃えたんだが、大型の雷獣だったらしい」
村田は平太に顔を向けて応えた。
「大型?猫よりも大きいという事ですか?」
「仔牛くらいの大きさで細かったらしいが、角があったそうだ。ただ、やはり焼け死んでいたそうで、正体は不明だ」
「仔牛くらいというと、大磯の時よりかなり大きいですね」
「ああ。角がある事から麒麟じゃないかという話もあったそうだが、雷と麒麟の関連がない事から、雷獣の親じゃないかという話になったらしい」
村田の話す内容に、平太は顎に手を当てて考え込んだ。
「天狗、輪入道、家鳴に鵺、そして今度は雷獣。妖怪妖獣のオンパレードだな。全てを妖怪の仕業にして逃げようって算段か」
腕組みをした忠助が誰に言うともなく口にした。
「世間一般に対してはそうなんだろう。だが、依頼者に対しては、これほどの大仕事も我々に掛かれば妖怪の仕業としか思われないぞ、ってアピールなのかもな」
そう応える村田に
「そうでしょうね。どう瓦版を動かしたのか分かりませんが、今のところ妖怪は格好の広告になっています。仲間か何かのスタンドプレーによるチョンボも、鵺を登場させる事で辻褄を合わせていますし」
考え込んでいた平太が言った。
「という事は、最初から妖怪の仕業と見せかける計画だったのか」
「おそらくそうで、相模や武蔵での動物の焼死体も、何らかの方法で雷獣というキーワードを流したんでしょう。雷獣という最初のテストパターンが案外上手く行ったもんで、その後の既定路線にしたんだと思います。犯人達はなかなか用意周到に準備していたようですね。爆発だけでなく、動物実験まで行ったと思われますから」
「動物実験?」
平太の言葉に忠助が疑問を発した。
「天狗や鵺と同じく、雷獣なんて生物は存在しないんでしょう。相模の時は猫、武蔵のは……おそらく山羊か鹿でしょう。動物と建物が大きくなっています。もしかすると、知られていないだけで、途中に犬程度を挟んでいるのかも知れません。これらを使って爆破に必要な粉量の算出と、本当に人間まで殺害が可能かを確かめたんだと思います」
残忍な犯人に対する憤りなのか、平太を除く四人は腕組みをして、ふーん、と荒い鼻息を吐いた。
「それで村田様、犯人は分かったんですか?」
もやもやとした空気を破るように、太一が一足飛びに質問した。
「それは……まだだ」
村田は腕組みをしたまま言った。
「だって隅田川で殺されていた男の身元は分かったんでしょう。だったら、そいつの周辺を当たれば犯人の仲間が分かるんじゃないですか?」
「太一、そりゃ簡単には無理だって」
村田に食い下がる太一は平太に宥められ、そうだよね、と乗り出していた身を引いて背を丸めた。
腕組みをして目を閉じていた村田が、接点は、と呟いた。
「犯行グループとの接点は、あの茶屋しかない」
その後の言葉に期待する四人が何も言わず村田の口を注視した。やや間を置いて目を開けた村田は
「今、浅草の男茶屋を調べている……が」
そこまで言って、村田は後を続けようかどうしようか迷っているように見えた。茶碗に手を伸ばす村田を急かす事なく、四人は静かに待った。
「お前達だから話すが、あの店」
茶を一服口に含んだ村田は
「経営者がよく分からんのだ」
意外な言葉を口にした。
「経営者が分からない?」
意味の分からない清造が訊いた。
「ああ。店自体は借り物、借家なんだが、表向きは大阪の呉服商が借りた事になっている。しかし、その呉服商に訊いてみたところ、全く借りた憶えなど無いそうだ」
「そりゃ、勝手に名前を使われたって事ですか?」
腕組みをする清造が訊いた。
「そうらしい」
村田は渋い顔で応えた。
「怪しいな。無茶苦茶怪しい店だな」
「そうだ、忠助の言うように怪しいんだ。経営者が不明なだけでなく、営業そのものも怪しいところがある」
「営業が怪しいって、そりゃ何ですか?」
言葉を引用された忠助は、身を乗り出して訊いた。
「客への聞き込みで分かったんだが、どうも接客する男達の何人かが、客の家や店の内情を訊いてくるそうだ」
「客ってえと、大店か何かの娘や内儀にですかい?」
「あの店の茶や菓子はかなり高額な事もあって、通う客ってのも大店の娘や内儀がほとんどだ。中には有力な旗本や御家人の関係者、まあ大きな声では言えんが、要するに武家の女達もいる。それらの内のめぼしい客に、それとなく内情を訊くそうだ」
「内情ってのは?」
今度は清造が訊いた。
「金銭事情や家屋敷の間取りまで訊いてくるようだ。あの手の店に行く女客ってのは、店じゃちやほやされていろいろと話すんだろうが、儂らの聞き込みや調べにはなかなか口が堅くてな。その中で入手できた数少ない情報だ」
「金銭事情って、そんな事を訊いてどうするんでしょう?茶屋の支払いができるかどうか、値踏みでもしてるんでしょうかねえ」
「いや、情報収集でしょう」
それまで黙って話を聞いていた平太が口を開いた。
「情報収集?」
そう言った太一は平太の顔を見た。
「おそらく、男茶屋は犯行組織の息が掛かった店で、依頼主と襲撃対象双方の情報を収集しているんじゃないかと思います」
「儂もそう考えている」
平太が口にする意外な考えに村田も賛同し
「依頼者を募るにも、広告や宣伝なんかできないだろうし、既に成功した件の依頼者による口コミってのも難しい話だ。だから、それとなく大口の借金をしている家を探すんだろうな」
「それに、犯行を行おうとしても、対象となる店の家族や使用人の構成、店の間取りや部屋の配置も知らないと」
村田の言葉を平太が継いだ。
「そうか、アンテナを張ってるって事か」
仕組みの分かった忠助が掌を打った。
「あんてな、って何だぁ?」
案の定、清造が分からない単語に対して質問した。
「しかし、吹っ飛ばす店の女達がそう都合良く茶屋に来るもんですかね?」
清造の疑問をスルーして忠助が言った。
「いや、その茶屋だけが情報源でもないんでしょうが、茶屋で運良く依頼しそうな者と襲撃する相手の情報がカップリングできた場合にだけ、依頼主に話を持ち掛ければいいんですよ」
「そうだな。慎重に情報を入手して、成功する可能性の高い件だけ精査して実行すればいいんだ」
村田も平太の意見に納得した。
「ちょっと待て、さっきのあんてなってのもあれだが、そのかっぷりんってのも何なんだ?」
また清造が訊いたが、誰もそれに応えそうな雰囲気は無く、無情にも再びスルーされてしまった。
「ふーん、自ら依頼主と被害者を捜した上で、依頼主に持ち掛けるのか。かなりアクティブなやり方だな」
「そうですね。パッシブに依頼主を待っていても、看板を掲げている訳じゃありませんから、そう簡単に顧客は来ないと思います」
忠助と平太の口から聞き慣れない言葉が出ても、もう清造は何の質問もしなかった。
一瞬場が静まった後、だが、と村田が口を開いた。
「だが、今のところ分かったのはここまでだ」
「ここまで、と言いますと?」
「何か手立てを考えないと、これ以上前に進めんのだ。店が店だけに内偵が難しい」
平太の疑問に村田が困った顔で応えた。
「吹き飛ばされた店の人間は全滅しているし、その店に関係する女が出入りしていたかどうかも、簡単には聞き出せんだろう。かと言って、何の証拠も無いのに店の者をしょっ引く訳にもいかん」
「まずは何としても、実質上の経営者を探らなくてはいけませんね。それと、もし本当にその茶屋が犯行と関係があるのなら、どこかの倉庫と繋がっているはずです」
「倉庫?何で倉庫なの?」
太一が訊いた。
「前からずっと話しているように、爆破に使う道具ってのは結構な大荷物なんだ」
「あ、そうか。それを隠している倉庫なんだね」
「そうだよ。以前、百獣屋の帰りに見た奴らがそうだとすると、やはり大八車山盛りの道具になる。そんな物を人目の付く場所に放置なんかしてないだろうから、どうしても隠し場所が必要なんだ」
「さすが平太だ、物証を押さえる事まで思い至るとは。お前、奉行所に欲しいな」
感心したように腕組みをした村田は、冗談ともつかない言葉を口にしながら平太を見た。
「だが、どうやって調べる?」
清造が独りごちるようにぼそっと言った。誰もその言葉に対する回答を持ち合わせていないのか、応える者はいなかった。
ややあって、
「村田様の配下の誰かをその茶屋に潜り込ませたら?」
突然太一がとんでもない事を口にした。
「潜入捜査かあ。テレビでやってた隠密同心だな」
昔の未来を思い出したのか、忠助が少し懐かしそうな顔で言った。
「あっ、俺もCSで再放送を見ました。あれは面白かったですねえ」
「何だ、そのしーえす、ってのは?」
清造が質問しようと口を開いた瞬間、それより早く忠助が訊いた。
「衛星放送ですよ。人工衛星を使ったテレビチャンネルです」
「おおっ、それ、お前の時代にゃ実用化されてたのか?」
「ええ。しかもデジタル化されてチャンネル数も数百。プロ野球専門や時代劇専門のチャンネルなんてのもあって、よく親父が見ていました」
「プロ野球専門のチャンネルなんていいなあ。今でも大洋は頑張ってるのか?」
聞き慣れない球団名のファンなのか、忠助は、今でも、という場違いな言葉で訊いた。
「たいよう?」
「大洋ホエールズだよ。やっぱり弱いのか?」
「そんな球団ありませんよ」
「えっ、無い?そんな……大洋は消えたのかあ……。しかし凄えな、衛星放送なんて現代科学の勝利だな」
「ねえねえ、じんこーえーせー、って何?でじたる、って何なの?」
またも清造が質問しようと身を乗り出して口を開いた瞬間、それよりも早く太一が訊いた。
「あー、それは明日教えてあげる」
その場で説明するのが面倒なのか、平太はさらっとそう言った。不満そうな太一はぷくっと頬を膨らませたが、その場の雰囲気を感じてか、素直に黙った。それを横目で見た清造も何かを訊きたそうに尻がうずうずしているのだが、黙って座っていた。
しかし
「何だ、その隠密同心というのは?」
意外にも村田の口から質問が投げられた。
「身分を隠した闇の同心が敵の組織に潜入して犯行を暴き、最後には悪党を全員ぶった切るんです」
好きな番組だったのか、忠助が嬉しそうに説明した。
「何だそれは。そんな出鱈目な時代演劇が罷り通っていたのか?確かに隠密廻りという同心は存在するが、市中の風聞、風説を集めて報告するのが任務だ。潜入捜査や悪党の成敗なんてしない。実際の奉行所で、そんな密偵や人切り紛いの役職や人間はいないぞ」
村田はちょっと不機嫌そうに言った。
「いや村田様、あくまでも娯楽番組での話です。我々だってそんな都合の良い主人公がいるとは思っていません」
「まあ、そうだな。儂の時にも超人的御用聞きの映画や小説があったな。それの延長みたいなものか」
村田も表情を変えて一瞬懐かしそうな目を上に向けたが、すぐに元の表情に戻り
「しかしさっき言ったように、その潜入捜査をやるにしても送り込む人間などいない。儂の配下といっても、同心なんて皆顔を知られているし、その手下の御用聞きやそのまた下の下っ引きだってそうだ。まして、その店ってのは若くて男前じゃないと駄目なんだろう?」
「でしょうねえ。文太の話じゃ、女共に愛想を使って高い金ふんだくる店らしいですから」
「ますます駄目だな。適役はいない」
忠助の言葉で村田は顔の前で掌を激しく振った。
「おいらが行くよ」
突然、太一が大きな声を出した。その突拍子もない発言に、四人はあ然と太一の顔を見た。
「おいらはじゃにーずけーとかいって、男前なんでしょう?文太さんによく言われるもん。それでその茶屋で犯人の親玉と道具の隠し場所を調べりゃいいんでしょう」
太一は平然と笑顔で言った。
その瞬間
「馬鹿野郎っ!」
赤鬼にも見える形相で清造が立ち上がった。
「お前ぇ何言ってんだっ。どう考えても犯人の根城としか思えねえ場所に行くってのが、どんなに危険か分かってんのかっ!」
太一を見下ろすように仁王立ちする、そんな清造を平太は初めて見た。
「潜入だとか探索だとか、簡単に考えるんじゃねえ。もしもの事があったらどうするんだ」
頭上から烈火の如き清造に怒鳴られた太一の顔は引き攣っていたが、その憤怒の表情にも拘わらず、清造の目は赤く潤んでいた。
しかし、太一の安直な一言に対する怒りが収まらないのか、清造の罵声は続いた。
「お前ぇのようなガキの出る幕じゃねえ。滅多な事を口にするな」
恐怖に戦いた太一の目から、大粒の涙が溢れた。このまま怒らせ続けてはまずいと思ったのか
「太一、頭の言うとおりだ。お前は簡単に言うが、どれほど危険なもんか分からねえだろう。潜入した挙げ句に身元がバレでもした日にゃ、始末された奴らみたいに隅田川に浮かぶぞ。下手すりゃ死体すら見つからねえかも知れねえ。皮ぁ剥がれて肉を削られ、骨だけにされて犬の餌だ」
清造よりも低いトーンで、忠助が微妙に怪しい説教を始めた。
「ご、ごめんよお、ごめんよお」
更に顔を引き攣らせた太一は、その大きく見開かれた目から大粒の涙をぽろぽろ流しながら、清造と忠助に両掌を合わせた。それを見た清造は、ふう、と息を吐いて腰を下ろした。
「おいら、犬の餌にされるのは嫌だよう」
意外に清造の恫喝よりも、太一には忠助の語る怪しい最期の方が効いたようであった。
涙を流しながら詫びる太一が不憫に思えたのか、村田が優しく
「太一、気持ちはありがたいぞ。だがな、清造の言うように、どこに危険があるやも知れん。まだ若いお前にはちょっと荷が重いな」
清造や忠助よりもかなりソフトな口調で太一を宥めた。
しかし、その言葉の中に、誰かを潜入させたい、というニュアンスが潜んでいるのを平太は聞き逃さなかった。清造と忠助もそれを感じたのか、太一から目を離して同時に村田の顔を見た。
「て、事は……」
言い辛そうに清造が切り出した。
「今夜はもう時間も無いんで、単刀直入に話させてもらおう」
そう口にした村田の左手が動き、視線がその手首に向かったのを見た平太には
“腕時計を……やはり、癖は抜けないんだな”
全く関係のない事が頭に浮かんだ。
「誰かに行ってもらいたい」
与力は両膝に掌を載せて背筋を伸ばし、ほたる屋の四人を同時に見据えるような目で言った。
“村田様の事だ、端からその腹で来たんだろうな”
そう感じた平太は、丹田からゆっくりと長い息を吐いた。そして、おそらく誰も行かせたくないであろう清造が、険しい顔で村田に膝を向けた瞬間
「俺が行きます」
平太は少し俯いたまま右手を上げた。
「この野郎っ!」
村田に何か注進しようとしていた清造がすぐさま声を上げ、平太に向き直って片膝を立てた。その機先を制するためか、平太も清造に正対して声を上げた。
「ほたる屋の誰も行かせたくない、という頭の気持ちは良く分かります。本当にありがたいと思います。しかし、ほたる屋としてここまで足を踏み入れ、しかも奉行所では動きの取れない状況では、やはり誰かが行かなくてはならないと思います。だからこうして村田様がいらっしゃっているんでしょう」
ちらっと平太から視線を向けられた村田は、無言で腕組みをしたまま目を閉じていた。
それでも身を乗り出そうとする清造に向かって、平太は右掌を突き出して留めながら続けた。
「それでさっきの話で、太一では荷が重いと村田様の判断がありました。残るは忠助さんと俺しかいません。こう言っては何ですが、どちらもある程度の男前だと思います」
「ある程度じゃねえだろう。先般の町娘共の騒ぎ方から見りゃあ、このほたる屋の三人はある程度を超えてハイレベルの部類だろう」
清造の勢いを削ぐためか、忠助も冗談っぽく突っ込みを入れた。
「ありがたいご賛同、痛み入ります。しかし若い男前となると、やはり俺しかないでしょう」
「何だ、俺じゃあ歳って事か?」
「歳だとまでは言いませんが、三十代ともなると、もうおじさんの域ですから」
「この野郎、おじさんはねえだろう」
「仕方ないんです。JCやJKから見れば、俺だっておじさんなんですよ」
「何だ、じぇいしー、じぇいけーって?」
「JCは女子中学生、JKは女子高校生の事です」
「えー……そうか……おっさんなのか」
少し悲しそうな表情で忠助がぼそりと言った。
「分かった。平太、頼むぞ」
多少勢いは弱まったが、まだ何か言いたそうな清造に喋らせないようにするためか、間髪入れず村田が声を上げた。片膝を立てた挙げ句、何も言わせてもらえない清造は、平太と村田の顔を交互に見ながら口をぱくぱくさせた。
「その代わりお願いがあります」
正座に戻した両膝に拳を載せた平太が村田に言った。
「何だ?」
「人を使ってでも何とかして俺を雇わせるのは当然なんですが、住み込みというのは勘弁してください。何かあって、寝込みを襲われたんじゃ防ぎようがありませんから」
「それは大丈夫だろう。あそこで接客をする使用人は、全て通いのようだ。それに、やはり三人ほど接客の男が減っているらしいから、ちょっと町の顔役にでも動いてもらえば採用は間違いないだろう」
村田は腕組みのまま笑顔で言った。やはり期待したとおり平太が行く事になり、満足した表情が顔に表れているように感じられた。
「もう一つ、おそらく就業時間は暮れ六くらいまでだろうと思いますが、その間、俺を見張っておいて欲しいんです。昼日中でも何かあるかも知れません」
「分かった。元々外からの見張りを続ける予定だったんで、既に向かいの小間物屋の二階を借りてある。お前が働いている間は、そこに信頼できる同心を付けよう」
「あ、福堀様だけはご勘弁ください」
「分かっておる、あいつは使えん。もっと質が良くて腕の立つ同心を付けよう。何日続くか分からんが、南町奉行所を挙げて万全の体制を取る事を約束する」
平太が次々と口にする願いに、村田は予想していたかの如く平然と了解を出した。
「詳しい事は追って連絡をする。それまで暫し待ってくれ。では、儂はお奉行との約束があるんで、これで失敬する」
そう言って、村田は脇に置いていた両刀に手を掛けた。そして、思い通りに事が進んだためか、村田は来た時よりも機嫌良く暗くなった通りを歩いて行った。その後ろ姿には、スキップを踏んでも不思議ではないような躍動感があった。
“のらりくらりしながらも、結局自分の筋書きどおりに物事を運んでしまう……恐ろしい人だ”
遠ざかるその背中を見ながら平太は思った。
◆三佐とケイ
「頭っていつ頃からなんでしょう?」
翌日、帳場の前で台帳を確認していた平太は、ふと思って帳場に座った忠助に訊いた。
「何だそりゃ?いつからかって、そりゃいつ頭が飛ばされて来たかって事か?」
忠助は記入していた帳簿から顔を上げないで訊き返した。
清造は例によって、ケイの働き口を探すために朝から店を空けていた。しかし、なかなか良いものが見つからず、このところ付き合いのある同業者にも当たっているらしかった。
「それもあるんですが、いつからこの店の頭なのかな、って思ったんです」
手にしていた筆を置いた忠助が顔を上げた。
「来たのは三十年くらい前だって言ってたな」
「そんなに昔ですか」
「ああ。頭の年季に比べりゃ、俺達なんかまだまだ雛っ子だ」
「でも、頭って大正の時代から来たって言ってましたよね?俺が平成の二十四年から来て、大正の頭がその三十年前ってのも計算が合いませんよ」
平太が疑問を口にした。
「飛ばされる先の年代は不規則なんだろうと思う。俺だって昭和五十九年からだが、来たのは六年前だ。お前との年号での差は、えーと」
「二十八年です」
「そうか。だけどここじゃ六年の差しか無えだろう」
「確かに不規則な飛び方ですねえ」
「不規則って言うより規則、法則が無えんだ。ランダムに飛ばされるんだろうな。もしかするとお前のずっと後の奴が、今よりずっとずっと昔に飛ばされてるかも知れねえぞ」
「おわっ、もしかすると原始時代とか……怖いですね」
「まあ、いつからあんな穴の仕組みが存在するのか知らねえが、今の江戸に飛ばされた俺達ってのは、案外幸せな方かも知れねえな」
忠助は正座をしていた脚を崩して胡座をかき、手を伸ばして煙草盆を引き寄せた。それまで帳簿を手にずっと立っていた平太も帳場の横の框に腰掛け、煙草入れに手を掛けた。
「うーん、幸せかどうかは……。で、頭はいつから頭になったんですか?」
「先代から引き継いだのは二十年ちょっとくらい前かな。文化年間の初め頃だって聞いた事がある」
ふーん、と肯きながら、平太は鼻から紫煙を出した。
「何でそんな事を訊く?」
忠助も煙突のように紫煙を吐き、平太の顔を見ながら訊いた。
平太は灰吹きにぽんと雁首を打ち付けながら、いえね、と話し始めた。
「この前三佐さんとケイちゃんが来た時に、金治さんとこに布団や家財道具を借りに行ったじゃないですか。その時に三佐さんが言っていたんですよ。頭に前回の、五年前ですか、働き口を紹介してもらったって。それ以前なのかな、先代の頭にも世話になったって。さっきの忠助さんの話だと、今の頭が頭になったのは二十年以上前って事ですよね」
忠助は何も言わず、平太が口にする言葉を静かに聞いていた。
「だけどあの二人、どう見ても二十歳前後ですよね。それが先代の頭にも世話になったって、話がおかしくないですか?」
「母親の腹にでも入ってたんじゃねえか」
何故か忠助の口からは不可思議な言葉が出てきた。一瞬その言葉に、ん?、と上体を引いて怪訝に思った平太だったが、首を振って廻りを確認した後、すぐにその口を忠助の耳元に近づけた。
「それに三佐さんは俺に、飛ばされた人間なのか、って訊いてきたんです。未来から来た人間の存在を知っているんですよ」
来客も無く、太一も使いに出ていたため、店には二人以外には誰もいなかったが、話の内容からそのように小声で言ったのだった。
しかし、
「だろうな」
意外にも忠助の口からは素っ気ない言葉しか出てこなかった。その態度に業を煮やしたのか、再び上体を引いた平太は
「忠助さん、それっておかしくね」
半年前まで普通に使っていた口調で、半ば詰め寄るように言った。
「平太、あの二人に関わるなとは言わねえが、深入りはするな。特にお前はおケイちゃんに気があるようだが、やめとけ」
目を逸らしたまま吐く忠助の言葉に、平太は激高とまではいかないが十分に上気した顔で食い下がった。
「きっ、気があるとか無いとかは、か、関係ないでしょう」
突然秘孔を突かれたような気がした平太が立ち上がり、言葉を詰まらせながら声を上げた。
「そうか?朝早くからおケイちゃんとお前えが井戸端で仲良くしているから顔を洗いに行き辛い、って太一が言ってたぞ」
「な、な、仲良くなんて、太一が何を言ったか知りませんが、と、とにかく、あの二人に関しちゃ全てがおかしいでしょう。何で一つの店で五年以上働くのが憚られるんですか?何でそれを頭や忠助さんが肯定するんですか?何でどう見たって二十歳そこそこの兄妹が二十年以上前の先代を知っているんですか?仲間かと訊き返したら、仲間じゃないと言う三佐が、何で俺達の事を知っているんですか?」
平太はずっと心の中に蟠っていた疑問を一気に叩きつけた。
その途端、手で弄んでいた煙管をガツンと灰吹きに打ち付けた忠助が、すっと背筋を伸ばして平太に向き直った。いつものように、うるせえとか、馬鹿野郎という罵声を浴びせられると思った平太は、顎を引いて身構えながら一歩躙り下がった。
しかし
「仕方ねえな。話してやるか」
諦めにも似た脱力感の伴う言い方で忠助が口を開いた。拍子抜けした平太だったが、もしかすると油断させておいてグーパンチか、と警戒しながらじわりと近づいた。
「何を身構えてんだ。鉄拳なんか出さねえからもっと寄れ」
欧米人のように掌を上に向けて来い来いをする忠助に、平太は摺り足で近づいた。
「今から話す事は絶対に人には話せねえ内容だ。太一にも話してねえ。だからここ限りだ」
忠助の右拳が握られていない事を確認した平太は、見つめ続ける忠助に顔を近づけた。
「本当にお前は何でも知っていねえと気が済まねえんだな。あの二人が何であろうと、俺達にゃ何の害も無えんだからいいじゃねえか」
そこまで言った忠助は煙管に手を伸ばし、それでも無理なんだろうな、と独りごちながら煙草に火を着けた。
「お前、就職なんか考えねえで大学に残った方が良かったんじゃねえか。まさに学究の徒だな。その飽くなき探求心は凄えよ。ま、今更言ってもどうにもならねえだろうが」
「そんな事はどうでもいいんですよ。それよりあの二人、何者なんですか?」
忠助の言葉と動きに焦れた平太が訊いた。
「人間だ」
またも小馬鹿にしたような台詞が吐かれた。食って掛かろうと身を乗り出す平太を押しとどめるように掌を見せた忠助は
「ただ、俺らとはかなり異なる人間だ」
と続けた。説明とも回答ともつかない忠助の言葉に、平太の頭の中でクエッションマークが幾つも溢れた。
「俺が五年前に会った時、二人の容姿は今と変わらなかった。その前に今の頭が世話した時もそうだったんだろう。そして、先代の頭が世話した時も……少しは若かったのかな」
その言葉の意味が少しずつ分かり始めた平太は、鳩尾から喉元がじわりと熱くなり始め、口の中で一気に唾液が枯渇するのを感じた。
「だから、一所に永くは居られねえんだ」
「そ、それって、もしかして……アンデッド……不死なんですか?」
唾液の分泌も失くし、貼り付く上下の顎を何とか引き剥がすように平太が掠れた声を出した。
自らが話す驚愕すべき内容にも拘わらず
「ちょっと違うな。不死じゃあねえ。異常なほどの長い寿命、おそらく俺達の数倍、いやそれ以上の……だな」
訥々と語る忠助が、平太には不思議に見えた。
「と、とすると、あの娘、ケイちゃんは……百数十歳……二百歳?」
「そりゃ分からねえ。彼らの成長速度の傾きや割合が、俺達と同じかどうか分からんからな。もしかすると、大人になってからが長えのかも知れねえ。何歳かは彼らに訊いてみない事にはな」
忠助の話す内容に、へなへなと框にへたり込んだ平太は
「まさか……そんなのSFか伝奇小説の世界だ」
小さく呟いた。
「何言ってんだか。俺達がここにいる事自体がSFだろう」
そう言った忠助は火を落とした煙管をぷっと吹いた。
「て、事だ。お前が信じる信じないはどうでもいいが」
そこまで言った忠助は、いきなり表情を引き締めて平太の目を見つめ
「絶対に他言無用だ。この事を外に話したりしたら、大変な事になる。いいか、分かったな」
今まで聞いた事も無いような、ドスの効いた低い声で言った。
その迫力に、あうあう、と頷く平太に、忠助は更に続けた。
「ついでに教えてやろう。何で他に話すと大変な事になるのか、そして何で今の頭に代替わりしたかって話だ」
とんでもない話をする事で血中のニコチン濃度が下がったのか、忠助はまた煙管に刻み煙草を詰め始めた。相変わらず来客も無く、外からは忙しなく蝉の鳴き声が聞こえ続けていた。
「俺も頭から聞いた話なんで、細かいところは違っているかも知れねえが……二十年ちょっと前、あの二人が歳を取らねえって噂になっちまった。迂闊にもちょっと長く同じ所に居過ぎたんだろうなあ。それで、人魚の肉を食ったからだとか実しやかに言われ始めて、挙げ句の果てにゃ伴天連、キリシタンじゃねえかと奉行所が動き始めた。馬鹿な話だよな。人魚なんて生物はいねえし、キリスト教徒だって俺達と同じ寿命でおっ死ぬんだ。当時も奉行所に村田様のような仲間がいたらしいが、事禁教のキリシタンに関しちゃ抑え切れるもんじゃなかった。それで先代の頭が二人を庇って隠したんだ。その先代は彼らの親に尽くし切れねえ程の恩義があったらしいから、必死で庇ったんだろうな。事情は知らねえが命の恩人だったようだ。二人は何とか市外に逃がしたそうだが、店にも、って以前のほたる屋は違う場所に店を構えてたらしいんだが、奉行所が踏み込んで来て、店の全員に踏み絵をやらせたそうだ。そりゃキリシタンの疑いなんだからそうするだろうな。だけどその時に運が悪かったのは、先代が本物のキリスト教徒だったってえ事だ。未来の、禁教なんて無い時代から来たんだろうから、先代が敬虔なキリスト教徒であっても不思議じゃねえ。結局、今の頭以下使用人は全て踏み絵をクリアしたんだが、当然、先代には踏めねえ。それで先代はお縄になり、死罪になったって話だ。まあ、俺達に死罪ってもなあ……そんな事があって今の頭に代替わりして、店の場所も移ったんだ」
そんなに遠くない昔の苦難の話だった。一瞬、忠助の言葉に不審な淀みがあるのは感じたが、その過酷な内容にそれはすぐに消え去り、平太の目が潤んだ。
「だけどあの二人、市外に逃れたが、やっぱり事情を理解してくれているこの店と、自分たちを霞ませてくれる大都市という存在が無いと生きて行けねえんだ。彼らだって人間だ。腹も減るし、寝る場所も要る。ただ寿命が長いだけで、おまんま食って糞尿を垂れて生きていくってのは俺達と一緒だ。しかも、世間から隠れるようにして生きなくちゃならねえのは、まさに俺達、飛ばされて来た者と同じだよ。彼らも長い付き合いから俺達の正体を知っているが、何も言わねえ。ある意味、互いに寄り添っているのかなあ。かと言って彼らを奇異な目では見る必要はねえし、極自然に接すりゃいいんだ。ただ、さっきも言ったように深入りは禁物だ。特に、男と女ではな」
紫煙を掃き終わった忠助は、今度は優しく火更から灰を落とした。
平太は何も言えなかった。心の中では、知らない方が良かったかも、と思い始めていた。何故か両目が潤んで目の前の忠助が歪んだ。
それを見透かしたのか
「知識の探求者はその大半で後悔の結末を見る、ってえ言葉がなかったっけな」
嘯くように忠助が言った。
平太が何かを言おうと伏せていた顔を上げた時
「ただいまー」
元気な太一の声が店に響いた。そして目を赤くした平太を見ると
「平太さん、どうしたの?」
平太の側に駆け寄った。何でもないよ、と言いながら着物の袖で顔を拭う平太の横から
「あんまりにも言う事を聞かねえから説教してやったんだ。こいつだけは、太一、お前より強情だ」
忠助が態と顔を強張らせて言った。
「兄い、何があったんだよ。おいらならいいけど、いくら何でも平太さんが泣くまで叱っちゃ駄目だよ」
太一はずいっと二人の間に割り入った。
「太一、いいんだ。俺がつまらない意地を張っただけで、悪いのは俺なんだ」
適当に話を合わせてそう言った平太はすっと立ち上がり、忠助にぺこりと頭を下げると
「昼飯食ってきます」
捨て置くように言って裏口に向かった。忠助は、ああ、と応えてまた帳簿に目を落とし始めた。
何があったのか分からない太一は、不安そうな顔でその両方の姿を交互に見た。
◆井戸端とケイ
翌朝、平太は早起きをしなかった。
いつもであれば、ケイと井戸端で会話を交わす事を楽しみに、かなり早い時刻から寝床を飛び出ていたのだが、それをしなかった。
目は覚ましていたが、外の気配を窺いながら暗い部屋の天井を見つめていた。昨日忠助から聞いた話でケイの正体を知ってから、いつものように顔を合わせる気にはなれなかった。いつもどおり笑顔で話せるか、自信が無かった。
外の、井戸端の気配が消えた後しばらくして、平太はもぞもぞと布団から出て房楊枝を手にした。
◆与力と同心
その日の暮れ六つ、村田がいつものセリフと共にほたる屋を訪れた。
「御免よ」
笑顔で暖簾を掻き分けた村田だったが、店内に一般の客がいる事を確認すると、帳場の清造に何やら目配せをした後、再び表に出て行った。その行動を見た平太は、例の話だな、と感じた。
その客が帰ると、すぐさま忠助が暖簾から顔を出して通りを覗いた。程なく再び、御免よ、という声と共に、村田が若い同心らしき侍を連れて入ってきた。
「忙しいのに悪いな」
「村田様、折悪しくお待たせしまして申し訳ございません」
清造の言葉に、良い良い、とでも言うように掌を上下に振った村田は
「これは配下の同心、衣笠だ」
後ろに控える平太よりは多少小柄な侍を紹介した。
「衣笠 直之進です」
緊張した顔で一歩進み出た同心の雪駄がチャラっと鳴った。
「これはこれはご足労様です。店主の清造です」
清造は自分に続いて忠助、平太、太一を紹介したが、衣笠は平太が紹介される折に何故か微妙な笑顔を見せた。昨日、忠助から想像を絶する話を聞いた平太は、気持ちがネガティブな方向に振れているのか
“また同心の福堀と一緒で、村田様の酔狂とか戯れ言とか言って、小馬鹿にしているんだろうな”
無意識に斜に構え、黙って暖簾を片付け始めた。
店仕舞いの済んだほたる屋では、六人の男達が清造の部屋で車座になっていた。
「早速で申し訳ないが、平太、明後日から例の茶屋で働いてもらえるか?」
「はい。頭さえ了解して頂ければ」
いきなりの村田の問い掛けにも、平太は覚悟していたように静かに答え、清造の顔を見た。清造は無言で頷いた。
「詳細は衣笠から説明させよう」
村田は衣笠に顎を向けるようにして、詳細な説明を振った。
「茶屋には雇ってもらえるよう、内々に日本橋の顔役を通じて話を付けてあります」
後を受けた衣笠は、へん、と咳払いを一つして、丁寧な口調で話し始めた。
「名前は今のままで、それまで働いていた店を馘になったという設定です」
「通いですか?」
「そうです。あの店に住み込みはいないらしくて、使用人は全員が通いです。朝四つ(午前九時頃)から暮れ六つまでの間が商いという事になっていますが、どうも恒常的に夜五つ(午後九時頃)近くまで店を開けているようです」
「という事は、毎日ここから浅草まで……」
「申し訳ないんですが、そういう事になります」
「はあ……分かりました」
ほたる屋のある麹町から浅草までは結構な距離があり、それを毎日往復と聞いて、平太のテンションがちょっと下がった。
「平太さんだったら大丈夫だよ」
それを感じたのか、太一が無責任に励ましてくれた。
「それから、向かいの小間物屋の二階を借り、そこに私と手下の御用聞きで一日中詰めて見張ります」
衣笠は、安心してくれ、とで言いたげに、平太に白い歯を見せ
「こう見えてこの衣笠、剣を持てば北辰一刀流、徒手は楊心流柔術の使い手で、武術においては南北の奉行所を併せても敵う者はおらん」
村田もその腕前に関しては太鼓判を押した。平太もその丁寧な口調と時折垣間見せる笑顔から、福堀同心とは違うかな、と思い始めていた。
「それは心強く思います。ところで、俺はその茶店を見た事も行った事も無いんですが、服装はどうなんでしょう?」
「まあ、役者や傾き者程の派手さは無くても良いようですが、なるべく垢抜けて粋な着物が良いのでないかと思います」
衣笠の答えに平太は、着ている着物の両袖を引っ張るように腕を左右に広げ、顎を引くようにして見た。
「着物は儂が用意してやる。太一、明日の朝一番でいつもの古着屋に行って、粋でぱりっとした上物を持ってすぐに来い、と言ってくれ。丈や寸法は分かっているだろうから」
清造は太一に言い、太一は、へーい、と応えた。
「では明後日の朝四つ過ぎ頃、茶屋を訪ねてください。向こうには名前と容姿を伝えてありますので、入谷の巳五郎さんの紹介で、と言えば話が通じるはずです」
「みごろうさん?それは誰なんですか?」
「入谷の顔役だ」
平太の疑問に清造が答えた。
「顔役って、ヤクザですか?」
「まあ半分はそんなもんだ」
ふーん、と首を捻った後、分かりました、と平太が言った時、
「平太、お前女のあしらいできるのか?」
忠助が妙な質問をした。
「あ、そうだ。接客って具体には何をするんでしょう?」
今更ながらに平太は衣笠に訊いた。
「大店の娘や内儀に茶や菓子を勧め、話し相手になるのが仕事です。給金は歩合制のようで、客に高額の飲食をさせた者はそれなりの給金を受け取れるそうです。精算や金銭処理は手代か番頭か分かりませんが担当の者が一人います」
それを聞いて平太が、やっぱホストクラブじゃん、と呟くのが聞こえたのか
「ほすとく……じゃん?それは何ですか?」
衣笠が訊いた。その横では、ううんっ、と村田が渋い顔で咳払いをした。
「いやいや、こっちの話です……それだったら何とか大丈夫でしょう」
「まあな、それなら……とは思うが、どうもお前は唯物的な事には厳しいくらい客観的なんだが、事人間、特に女に関しちゃ緩いと言うか……」
「あれ?そうなんですか?意外に信用無いんですね」
昨日の事もあり、核心を突かれたような気がした平太は、むっとした表情で言い返した。
「信用してねえんじゃなくて、どうも特に女に対する免疫が無えんじゃねえかと俺は睨んでる」
「そんな事はないでしょう……でも当たっているかな。彼女とつきあっても、最後はいつも、いい人ね、で終わるんですよね」
「そりゃ話が違うと思うが、女にもいろいろあるから気を付けろよ」
「まあまあ、お前らの女性観論議はどうでもよい。とにかく明後日から出てもらうんだが、茶屋での情報が何か掴めた場合は仕事が引けた後にその旨を衣笠に接触して伝え、事が重大な場合はここで報告を兼ねた検討会を開こうじゃないか」
延々と続く忠助と平太の話に嫌気が差したのか、割って入った村田が提案した。衣笠は、承知しました、と軽く頭を下げ、異存の無いほたる屋四人も、へい、と頭を下げた。
とりあえずの打合せが終わったことから、では明後日から、と奉行所の二人は両刀を手にして腰を上げた。
「平太さん、先般の実験は見事でした」
四人の見送りを背に、店表で雪駄を履いた衣笠が笑顔で平太を振り返って言った。
「あ、あの時の」
平太は、溜池での爆発実験の際、村田を迎えに来ていた若い侍がいた事を思い出した。
「私はあれを見て平太さんの博識に感服しました。明後日からの探索にも期待しています」
「はい。衣笠様にはご面倒をお掛けしますが、よろしくお願いします」
分かっています、と応えた同心は、腰に両刀を差し込み、では、と雪駄をチャラチャラ鳴らせながら店を後にした。
※本作の内容は虚構であり、歴史上の江戸とは異なる世界の出来事です。
よって、史実とは異なる事項や設定その他が記述されている場面のある事をご容赦願います。