PART6. ミイ(αAI Type A-YS ver.1.02)【2】
学術的見解は様々だが、生物界の頂点に君臨しているのは、人間だとボクは思っている。
有史以来、力や知能、技術や道具、ありとあらゆるものを用いて他の生物を圧倒してきた。故に、人間は狩りをすることはあっても、狩りをされることはほとんどない。だから、狩られる側の立場にならなければ、その恐怖を実感することができない──狩る側から向けられる冷徹な意志を、残酷な意志を、或いは狂喜の念、憎悪や怨嗟の念を。できることなら、そんな経験は一生したくないものだが、お姉ちゃんたちは不幸にも、不本意にも、この閉ざされた島でその貴重な体験をする羽目に陥ってしまった。
まさに‶魔島からの脱出、現代に再現する〟だ。
お姉ちゃんはレオを抱え、合流地点へ向けて疾走した。合流地点に定めた場所は、お姉ちゃんがレオとフンバーバと出会った崖の上で、距離にして約四kmの行程となる。合流地点に辿り着くまで、越えなければならない関門が幾つあるのかわからないが、現状では少なくとも、四つの関門が待ち受けていることだけは確かだった。
一、四〇〇メートル前方に待ち構えているフンバーバ。
二、真正面からこちらに向かって来ている鬼人型の竜 (たぶんゴブリン)。
三、左側の林の中で、こちらと距離をおいて並走している黒い影 (たぶんこいつもゴブリン)。
四、後方から迫りくる鬼人型の竜たち(たぶんこいつらもゴブリン)。
これらの竜を斃すにしろ、避けるにしろ、迅速で正確な判断が必要とされるはずだ。誤断は許されず、英断し続けることが唯一生還への道に繋がるだろう。
お姉ちゃんは前方を見据えながらレオに語りかけた。
「いい、レオ? 今から、前方の竜を突破して、さっき私たちが飛び降りた崖の上まで戻るよ。私が合図をしたら、君は一人で崖の上まで走って。道なりに三kmちょっと進めば、左手に開けた場所が見えるわ。そこが目的地よ。私の仲間が迎えに来ているはずだから保護してもらって。わかった?」
「一人で……って、ユーイさんはどうする気なんですか?」
「あいつらを足止めする」
きっとお姉ちゃんには、レオから返ってくる言葉がわかっていたのだろう。悲壮な表情を浮かべて反論しようとしたレオを言い宥めるようにこう続けた。
「勘違いしないの。私はそんなに自己犠牲精神に溢れた立派な人間じゃないよ。君を護りながら、逃げるのも戦うのも難しいと判断しただけ。言い方を変えれば、私一人ならあいつらを倒せるってこと。つまり、これは君の為でもあり、私の為でもあるんだ。だからお願い。合図をしたら、後ろを振り向かずに全力で走って」
お姉ちゃんの言は、嘘が半分、実が半分といったところだろうな。ボクの意見としては……いや、やめておくか。今はお姉ちゃんのモチベーションを下げたくないし、絶対に受け入れてはくれないだろうから。
返答を渋るレオにお姉ちゃんは強い語調で釘を刺した。
「いい、わかった? ちゃんと返事して」
「……わかりました」
レオは首肯したが、彼の憮然とした面持ちを見る限り、内心納得しかねるところもあったのだろう。そう思うのも当然かも知れない。一方的に助けてもらうことは、意外に心苦しいものがあるからね。ただ、これだけはわかってもらいたいものだ。お姉ちゃんが君を助けたいと思う気持ちに嘘偽りはないってことを……。
お姉ちゃんは、前方から徐々に速度を上げて向かってくる竜に視線を向けた。
二本の脚で大地に立ち、二メートルを優に超える体躯──尾を含めば全長三メートルはくだらない。その身に纏う筋肉は、まるで無数の鋼線で形成されているかの如く高密度で、柔靭かつ強靭極まりないことを窺わせていた。胸部と腹部以外は艶のある緑暗色の鱗で覆われ、ところどころ隆起した部分は厚く角張っており、鱗というよりは堅牢な甲冑を連想させた。あまりにも凶々しい形相、瑠璃色の有鱗目、前額部から突き出る青白い光を帯びた一本の短角が、あのはじまりの竜であることを確信させた。
それはタツノミヤ島の惨劇を引き起こした竜であり、人類が初めて遭遇した竜──ゴブリン。
お姉ちゃんは瞑目して深呼吸をついた。ゆっくり瞼を開けると、その瞳には並々ならぬ決意を宿した紫電が迸っているように見えた。まずは、あいつをやる気だな。
ゴブリンが更に加速したのとは対照的に、お姉ちゃんは少し速度を緩めた。レオを左脇に抱え直してその機会を待つ。そして、ゴブリンとの距離が二〇メートルを切った瞬間、お姉ちゃんは跳んだ。体内の全エネルギーを集約させた足先は大地を噛むようにして捉え、その力が解放された刹那、あたかも瞬間移動のような跳躍を見せた。
その緩急をつけた間合いの詰め方に、ゴブリンはまったく対応することができなかった。一気にゴブリンの右肩口まで跳んだお姉ちゃんは、右脚で顔面を思い切り蹴り上げる──サッカーボールを蹴るように右脚を振り抜く。お姉ちゃんの右脚は美しい放物線を描き、その軌道上にある全ての物を粉砕する鞭と化した。甲高くも芯に鈍い音を秘めた破裂音とともに、ゴブリンの首から上が消失した。
頭部ごと竜核を破壊されたフンバーバの肉体は青白く発光した後、一瞬にして少量の塩と灰に変わって霧散し、そして大地に還っていった。
「す、すごい」
その一部始終を目撃したレオが感嘆の声を漏らす。
本日、四体目となるゴブリンを難無く屠り去ったお姉ちゃんは、地面に着地すると、速度を落とすことなく再び駆け始めた。
よし! 第一関門突破!……と喜んでいる暇はない。第二の関門が直ぐ目の前に迫って来ている。二時の方向、一五〇メートル先にいるフンバーバは、突破されたディフェンスラインをカバーするように、こちらの進路に割って出ようとした。巨体を揺るがし、地響きをたてながら右斜め前方から迫り来る。
お姉ちゃんは左脇に抱えているレオに目を落した。
「レオ。今から君を前方に放り投げるわ」
レオは目を丸くした。まあ、当然の反応だろうな。
「え、ええ⁉ な、なげる? 投げる? 投げちゃうんですか?」
「大丈夫。ちゃんと加減して投げるから。着地したらそのまま全力で走って。いい?」
「や、やってみます」
フンバーバとの距離が残り四〇メートルを切ったところで、お姉ちゃんは急ブレーキをかけ、レオを前方へと放り投げた。その投擲は力強く、柔らかく、そして狙った位置も絶妙極まりない力加減だった。フンバーバは前進を止め、空中を遊泳するレオの方へ視線を向けた。しかし、レオに手は出さない──いや、フンバーバの攻撃範囲の外ギリギリを飛ぶレオには手を出したくても出せないのだ。
お姉ちゃんは急ブレーキから一転、フンバーバへ向かって走り出す。フンバーバがレオからお姉ちゃんに視線を戻した時には、既に間合いの中に侵入を許した後だった。
お姉ちゃんの左足で放った震脚が、フンバーバの右足の小指と薬指を踏み潰した。そして、震脚させた左足を力強く捩じると、巨大な小指と薬指があらぬ方向に向き、フンバーバは体勢を崩して地面に左手と左膝を着けた。
更にお姉ちゃんは攻撃を畳みかけた。フンバーバの右脛周りに、右下段正拳突き、左鉤突き、右下段回し蹴り、左鉄槌、電光石火の四連撃を叩き込む。打撃音が一つに聞える程の超高速の連撃は、一瞬にしてフンバーバの右足を破壊した。フンバーバの右膝から下は、地雷にでも吹き飛ばされたかのように、辛うじて原型を留めているだけのものになっていた。
このまま攻撃を続ければ、フンバーバを倒すことができたかも知れない(ボクはそう思う)。しかし、残念ながら追撃は中断を余儀なくされた。レオの背後に危険が迫っていたからだ。
お姉ちゃんは身を翻して、林の中で躍動する黒い影を追走した。黒い影は木々の合間を縫うように移動しながら、レオとの差をあっという間に詰めてゆく。その距離が残り一〇メートルもなくなったところで、林の中から姿を現して、レオを真後ろから追走する形を取った。既に見飽きたと言っても過言ではないその後姿、やっぱりこいつもゴブリンだった。
疾走するゴブリンの腰が僅かに落ちた。攻撃射程圏内に捉えたことに乗じて、今にもレオに跳び掛からんとしていたが、攻撃射程圏内に捉えていたのはお姉ちゃんとて同じことだった。ゴブリンがその健脚で跳躍に踏み切るより早く、お姉ちゃんは剛脚を以ってゴブリンとの距離をゼロにした。
お姉ちゃんの繰り出した右の打ち下ろしが、ゴブリンの腰部に深く突き刺さる。肉が潰れる濡れた音、骨の砕ける鈍い音が響き渡り、ゴブリンは糸の切れた人形のように、力無く地面に落ちていった。一五メートル程地面をもんどりうって、ようやく止まったゴブリンの頭部から、青く発光する結晶体が露出する。
──再生行為だ。体外に露出した竜核が負傷した箇所を再生し始めている。
竜を殺す唯一の方法は、竜核を破壊することだけであり、いかに早く竜核の位置を探り当てるかが胆となる。なぜなら、竜核を破壊せねば、どんなに損傷を与えたところでいずれ再生してしまうからだ。そして、厄介極まりないのが、竜核を破壊することができるのは醒心力を介しての攻撃のみであること。つまり、人間の手によってしか破壊できないということだ(まあ、これは極論が過ぎるが)。どんなに強力な銃でも、爆弾でも、ミサイルでも、毒でも、竜を殺すことはできない。人類の英知の結晶とも言える科学が竜には通用しない。竜を殺すことができるのは人間だけ、竜に対抗できるのは人間だけであると言われている所以がそこにある。
お姉ちゃんは地に伏しているゴブリンに駆け寄り、右足で竜核を踏み砕いた。ゴブリンの全身を青白い光が包み込んだ後には、少量の塩と灰だけが残り、そして、その中には空色に輝く竜命石が埋もれていた。お姉ちゃんはそれに一瞥もくれず、合流地点へと向かって走り続けるレオの後姿を見届けた後、ザックに連絡を取った。
「ザック、聞こえてる? さっき保護した男の子を先に向かわせたわ。五分くらいでそっちに着くと思うから保護をお願いね。私も頃合いを見てそっちに向かう」
『ああ、聞こえてるぜ。こっちもあと五分とかからずに到着する。三〇〇秒、たった三〇〇秒耐え凌げば、このクソッタレな島ともおさらばできる。だから……』
ザックは一度言葉を切って、数瞬おいてから言葉を繋いだ。
『もう少し頑張るんだぞ。大丈夫だ、おまえは必ず助かる』
ザックにしてはらしくない言葉だった。
きっとザックは責任を感じているのだ。安易にお姉ちゃんをこの島へ一人で行かせてしまったことに。そして、以前から誤報の兆候があったにも関わらず、調査隊の報告を鵜呑みにしてしまったことに忸怩たる思いを抱いている。そんな想いが、彼の脳内にある皮肉の単語帳を一時的に消失させた。それ故、お姉ちゃんの身を案じる気持ちがそのまま口に出てしまったのだろう。
そんなザックを見てお姉ちゃんは微笑んだ。
「柄じゃないよ、ザック。いつものザックならこう言うでしょ? 『あんな奴ら屁でもねえ、ぶちのめしてやれ!』ってね」
モニターに拳を突き出しながら、ザック語録を剽窃するお姉ちゃんを見てザックも笑みを溢しながら拳を突き出す。モニター越しに二人の拳が合わさった。
『そうだな、スーパーガール。あんな奴ら屁でもねえ、ぶちのめしてやれ!』
「オーケー、任せといて」
お姉ちゃんはフィンガーグローブをきつく縛り直し、来た道を振り返ると、遠方を見ることなく見据えた。……現実感のない光景だった。タツノミヤ島は魔島とよく表現されるが、今日のオツェアノ島はまさに地獄そのものと言えよう。事実、敵意と殺意を振りまいて迫り来る鬼たちの姿がボクらの視界に映っているのだから。
セラフィン号が合流地点に到着するまで残り二七〇秒、敵の第一陣がお姉ちゃんに襲いかかる。
二時の方向、木々の枝を足場に移動してきた一体のゴブリンが、上方よりお姉ちゃんに跳び掛かった。ゴブリンの振りかざす右腕の先端で、兇悪な五爪が妖しい光を放つ。しかし、その鉤爪が振り下ろされる前に、お姉ちゃんは後方に飛び退いた。それは眼前の敵に慄いたからではない。目の前の敵を瞬時に始末することが難しいと判断したお姉ちゃんは、別の敵を片付けることに決めたのだった。現状、最も危惧すべき事態は、敵に包囲されること──ザックから忠告を受けたように、多対一の状況を避けることだ。故に、八時の方向、繁みの中から忍び寄る刺客の下へ転身した。
不意打ちを画策していた不逞な輩は、繁みから姿を現した瞬間、お姉ちゃんの右足先蹴りによって頭部を粉砕された。ゴブリンの全身から、生命活動の停止を告げる青白い光が放たれると同時に、お姉ちゃんは身を屈めながら後方を振り返った。
お姉ちゃんの頭上をゴブリンの怪腕が唸りを上げて通過する。先程、一番槍を担ったゴブリンの急襲だった。二度に渡る攻撃が無為に終わり、憤激した凶獣は涎を撒き散らしながら、返す刀で左腕を斜めに振り下ろす。その攻撃に対して、お姉ちゃんは左上段回し蹴りで迎え撃った。互いに致命傷になりかねない渾身の一撃が交差する。どちらの攻撃が当たったのか、一瞬判断に迷う程の際どさだったが、耳を劈く打撃音がお姉ちゃんの勝利を報せてくれた。
ゴブリンの身体が風車の如く高速で回転する。その回転が三回目に突入した瞬間、全身から青白い光を放ち、少量の塩と灰を四辺に飛散させた。
お姉ちゃんは降りかかる灰白色の粉塵に顔を背けながら独語した。
「やっちゃったなぁ……」
お姉ちゃんの言葉の意味するところがボクにはわからなかった。一体何をやってしまったと言うのだろう。楽勝とは言い難いが、卒なくゴブリンどもを葬り去っているじゃないか。何も問題は無い様に思えるのだけれど……。
突として、地面に水滴が落ちた。地面に落ちた水滴の色を確認した時、疑問が一気に氷解した。そして、ボクの思考回路に例えようもない不快な電流が走る。水滴の出どころは、お姉ちゃんの左肩だった。真っ白なパーカーシャツの左肩付近が赤く染まり、左肩を強く押さえる右手の下から赤い液体が滴り落ちている。
……お姉ちゃん……それはさっきの……ゴブリンの攻撃を喰らっていたの?
『ザック! お姉ちゃんが怪我をした!』
ボクは我を忘れてザックに現況を伝えたが、お姉ちゃんが冷静な声でそれを制止した。
「大丈夫よ。落ち着いて、ミイ。少し肩の肉を抉られただけだから。左肩は動く、問題ないわ」
『少し抉られただけって……凄く血が出てるじゃないか! 凄く痛そうな顔をしているじゃないか! 問題あるでしょ! お姉ちゃん、早く手当をして!』
ボクの懇願はお姉ちゃんに届かなかった。お姉ちゃんは迫り来る脅威に視線を向けて口惜しそうに呟いた。
「そうしたいのは山々だけど、あいつらはその時間を与えてくれそうにもないわね」
『じゃあ、逃げてよ! 今すぐ逃げて!』
「だめ」
『お姉ちゃん!』
「だめ」
ボクとお姉ちゃんの会話を聞いていたザックが、我慢しきれなくなって遂に口を開く。
『ユーイ、もういい。そこから退け』
「だめよ! いま私がここで退いたら、マーキングされたレオが標的にされる! ……あと六〇秒、いやせめて九〇秒は時間を稼がなきゃ」
命を懸けて誰かが誰かを助けること──無償の愛、自己犠牲の精神。それは人間が人間として、最も美しく見える瞬間なのかも知れない。でも、お姉ちゃんだけにはどんな卑劣なことをしても、どんな恥ずべきことをしても、誰かに後ろ指をさされても、生きていて欲しいとボクは思う。だからボクの本音を言えば、レオを見捨てても逃げて欲しかった。それを口にしなかったのは、お姉ちゃんからの叱責を恐れた訳ではなく、ユーイ・アルファナの生き方を侮辱してしまうのではないかと思ったからだった。
数十秒後の未来、または数分後の未来には、果たしてどんな結果が待ち受けているのだろう。現時点、想像力の乏しいボクの思考回路では、洋々たる未来予想図を思い描くことができず、不穏な、あるいは不謹慎な予測ばかりが思い浮かぶばかりだった。
セラフィン号が合流地点に到着するまで残り二三〇秒、フンバーバの咆哮が島中にこだました。それを合図にするかの如く、敵の第二陣がお姉ちゃんに襲いかかる。
真正面から、木々の上から、繁みの中から躍動的かつ狂騒的に敵が迫り来る。まるで、捧げられた供物を前にして狂喜する地獄の悪鬼どもの様に。
お姉ちゃんに撤退という選択肢がない以上、最早、多対一の状況を避けることは困難と言えた。いや、不可能だった。かと言って、その場に留まって全ての竜を迎え撃つ愚策を取るはずもなく、お姉ちゃんは背後だけは取られまいと、僅かながらに後退しつつ応戦する覚悟を決めた。
一一時の方向から一体、一二時の方向から二体、二時の方向から一体、計四体のゴブリンが一斉にお姉ちゃんへ襲い掛かった。ゴブリンの怪腕が、ゴブリンの鉤爪が、ゴブリンの尾が、ゴブリンの牙が、唸りを上げて乱雑として煩雑な空間の中を飛び交う──猛攻だった。お姉ちゃんは矢継ぎ早に繰り出されるゴブリンの攻撃を驚異的な体捌きで躱しながら、僅かな間隙を縫って反撃を続けた。
セラフィン号が合流地点に到着するまで残り二一〇秒、更に二体のゴブリンが参戦し、戦況は六対一。その猛攻は苛烈を極めた。
疲労と出血により、動きに精彩を欠き始めたお姉ちゃんには、最早ゴブリンたちの攻撃を全て躱し続けることができなくなっていた。そして遂に、ゴブリンの攻撃がお姉ちゃんの体を捉えた。丸太の様に太い尾が鋼鉄の鞭と化し、お姉ちゃんの胴を横薙ぎにした。炸裂音とともに、お姉ちゃんの体が弾けた様に宙を飛ぶ。一〇メートル程吹き飛ばされたお姉ちゃんは、後方の樹木に叩きつけられてようやく止まった。頭上から落ちる多量の葉が叩きつけられた衝撃の強さを物語る。
『ユーイ!』
戦闘の邪魔にならないように極力声をかけるのを控えていたザックが、居ても立っても居られなくなって叫んだ。
お姉ちゃんは一言、「大丈夫」とだけ応えてすぐにその場を移動し、追撃を加えんと突進してきたゴブリンを下方からの抉る様な右回し突きで迎撃した。頭部を粉砕されたゴブリンは膝から崩れ落ち、完全に地面に伏したと同時に、その姿を体積の二〇分の一にも満たない灰白色の粉末に変えた。
お姉ちゃんが右回し突きを放った際、右前腕部から鮮血が飛散していた。おそらく脇腹に一撃を被った時、咄嗟に右腕で防御したからだろう。痛手を負ったが、深手は負わずに済んだのだから、さすがはお姉ちゃんと言うべきところだ。しかし、そんなお姉ちゃんにも限界が近づいている。もうこれ以上は耐えられそうにもない。
セラフィン号が合流地点に到着するまで残り一八〇秒、遂に敵の最終攻撃が始まる。
再生を終えたフンバーバは、ゆっくりと立ち上がって視線だけをこちらに向けた。瑠璃色の有鱗目に不気味な光彩が煌めくと、フンバーバは両足の位置を肩幅より少し広げ、左半身をこちらに向けて身体を大きく開いた。
「……ちょっと、うそでしょ⁉」
お姉ちゃんは慄然として口を開く。ボクにもフンバーバが何をしてくるのかがわかった。それは投擲──右のオーバースローだ。
右手に握られた土砂がほぼ完璧と思えるほどの投球フォームから射出された。お姉ちゃんはゴブリンたちから慌てて距離を取り、遮蔽物になり得る樹木の陰に避難した。
フンバーバの右腕から放たれた土と、石と、岩の散弾は、辺り一面全てのものを削りに削った。地面を、草木を、そして同胞までもがその対象だった。
予想外の攻撃方法、擦過音の余韻、そして、一命を取り止めた安堵感が、お姉ちゃんの思考能力を一時的に失調させた──樹木の陰に呆然と座り込み、虚空を見るともなく見つめている。。
ゴブリンはその隙を見逃さなかった。心無い仲間の無差別攻撃によって、全身を蜂の巣にされた一体のゴブリンが、長大な両腕をいっぱいいっぱい使って、後方から樹木ごとお姉ちゃんに抱きついた。ゴブリンの執念によって形成された死の円環が、ゆっくりとお姉ちゃんの体を締め付けてゆく。肉と骨が軋む音、木の裂ける音が、聴くに耐え難い不快な旋律を奏でた。
お姉ちゃんはゴブリンの両腕を振りほどこうと必死に身体を捩じるがビクともしない。両脚と頭部の半分を欠損しても尚、ゴブリンの怪力は健在だった。さすがのお姉ちゃんでも単純な腕力勝負では分が悪い。何より体勢が悪かった。座り込んでいる状態で、両腕ごと胴回りを拘束されたのだから。そして、身動きの取れなくなったお姉ちゃんの視界に絶望の光景が映り込む。
フンバーバの投擲によって体を穴だらけにされたゴブリンたちが、足を引きずりながら、身を這わせながら、お姉ちゃんに迫り来る。傷を癒すつもりは毛ほども無いようで、再生行為など二の次、人間を排除することこそが至上の命題、とでも言わんばかりの狂気に溢れた行動だった。そして、一体のゴブリンがお姉ちゃんの眼前まで辿り着き、右腕を高く振りかざした。
絶体絶命。風前之灯。万事休す。打つ手なし。八方塞がり……不吉で、不穏で、不謹慎な言葉がボクの頭の中を埋め尽くしてゆく。
『ザック、早く来て! お姉ちゃんが死んじゃう! お願いだよ、早く来てよ!』
ボクはザックに助けを求めたが、それは彼を困らせ苦しませるだけだった。モニターの向う側で、ザックは操縦室の壁面を右拳で殴りつけた。固く握りしめた拳の内側からは血が滴り落ちている。
この時ボクは悟った。自分の無力を、そして、その無力な存在が絶望の果てに行き着く行動は、祈ることだけだということを。だからボクは神に祈った。天使に、悪魔に、思い浮かぶ全ての超常的な存在にボクはすがった。ボクの願いを叶えてくれるのであれば、ボクの全てを捧げても構わない。救済に対価が必要と言うなら何だって用意する。
……だから、どうかお姉ちゃんを助けてください。
──結果、神様も、天使も、悪魔もボクの願いを聞き届けてはくれなかった。仮にそのような者たちが実在するとしても、都合の良い時にだけ、信仰を向ける身勝手で厚かましい輩の願いごとなど、叶えてはくれないだろうが。とにかく、超常的な存在の内に、お姉ちゃんを助けてくれる者は存在しなかった。
……お姉ちゃんを助けてくれたのは別の存在だった。
セラフィン号が合流地点に到着するまで残り一五〇秒、突如、お姉ちゃんに右腕を振り下ろさんとしていたゴブリンの脳天から股間にかけて一本の閃光が走る。閃光が消えると、ゴブリンの体は薪が割れるように左右別々の方向へと倒れていった。
ボクとお姉ちゃんは、ゴブリンを両断した者の顔を見て同時に声を上げた。
「「レオ!」」
そこには震える手で青白色に輝く大剣を握るレオの姿があった。レオは泣きじゃくりながらお姉ちゃんに向かって叫ぶ。
「ごめんなさい! 約束破ってごめんなさい! ……で、でも、ぼく一人で逃げることなんてできないですよ!」
レオは左手で涙を拭うと、手にした大剣を背負う様に担ぎ上げ、お姉ちゃんを拘束しているゴブリンの胴体に目掛けて振り下ろした。身体ごと叩きつけるようなレオの力任せで荒々しい斬撃がゴブリンの胴体ごと大地を両断したが、その命を完全に絶つには至らなかった。そう、竜は竜核を破壊されない限り死なない。どんなに細切れにされようが死なないのだ。
「レオ、頭を狙って!」
レオは大剣を地面から引き抜くと、お姉ちゃんに言われた通り、竜核が剥き出しになったゴブリンの頭にそれを突き刺した。ゴブリンは塩と灰に変わり、やっとのことで死の抱擁から解放されたお姉ちゃんは、腿の上に落ちた灰白色の粉を手で払って立ち上がった。
レオはお姉ちゃんと視線を合わせなかった。親に叱られるのを予期した子供のように悄然と俯いている。ボクは見るに見兼ねてレオを擁護した。全く以って呆れた話だ。遂さっきまで、レオの陰口を叩いていたというのに、今は手の平を返したようにレオの味方をしているのだから。……お調子者にも程があるな、ボクは。
「お姉ちゃん、お願いだからレオを怒らないであげてよ」
「そんなことしないって」
お姉ちゃんは苦笑してボクに答えると、レオの頭を優しく撫でて言った。
「ありがとね、レオ。助かったわ」
悪しき竜を打倒し、囚われのお姫様を救ったのは、白馬の王子様ならぬ白髪の王子様、か。昔から使い古されたストーリー構成だが、こうして見ると中々にドラマティックな光景だ。この流れからいけば、物語は既に終盤、そして拍手喝采のハッピーエンドになるのは間違いない……はずだ。