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竜輝士 ~Legend of Dragoon~  作者: 天川しずく
第1話 竜騎士として、人として
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PART4. ユーイ・アルファナ【2】




 全身が冷ややかな感触に包み込まれた後、私は体をくすぐる無数の気泡が、藍色の世界からの離脱を求めて浮上してゆく様を朦朧と眺めていた。過去に目にした光景のような、未来で目にする光景のような、この漠然として現実と乖離したところにいる感覚……()()だ。


 私は湧き起こる不快さを振り払うように頭を数回横に振り、これは単なる既視感(デジャヴ)なのだと自分に言い聞かせた。


 なんでもない……こんなことはなんでもないことなの。だからしっかりしてよ、ユーイ・アルファナ!


 不意に私の胸元から大きな気泡が水面に向かって浮かんだ。我に返り、胸元に目を移すと少し苦しげな顔を浮かべている男の子の顔があった。どうやら無意識の内に力を入れ過ぎたみたい。


 潜水もおさまり、体に浮力を帯びているのを確認した私は、まだ懸命に瞑目している男の子の頬をゆっくりと二回つついた。男の子は合図に気付いたらしく、恐る恐る目を開けて私の顔を見返した。親指と人差し指で輪を作ってオーケーサインを示すと、意味合いを理解したようで、体の力を抜いてゆっくりと私から離れた。続いて、指を水面に向け浮上の意志を伝える。男の子は頷いて同調した。


 凄く察しの良い子。それに私と一緒だったとはいえ、着水時の衝撃もほとんど影響が無いようだし、やっぱり醒心力(パルス)を使えるみたいね……。まあ、今は色々考えても仕方がない。まずはこの島から無事に脱出することを最優先事項としなきゃ。


 私たちが水面から顔を出すと、すぐにミイが声をかけてきた。


『お姉ちゃん、崖の上を見て』


 先程、私たちが飛んだ場所にはフンバーバが仁王立ちしており、切歯扼腕ながらこちらを眺めているようだった。いま、あの兇悪極まりない双眸の奥でどんな思案(殺し方)をめぐらせているのだろうか。それを想像すると、水温が氷点下にまで下がったような気がした。


『早く岸に上がろう。あいつ、岩や石を投げてくるかもよ』


 確かにその可能性はある。あれだけの巨体から繰り出される投擲は小型ミサイルにも匹敵する威力だろうし、この身動きの悪い状況で雨霰のように岩でも投げられたら、それまた厄介極まりない。男の子の手を取って急いで岸に上がろうとすると、フンバーバは身を翻し、崖の向うへと姿を消した。ひょっとして岩でも拾いにいくつもりかな。とにかく急いで上がらなきゃ。


 崖側の岸に上がった私たちは、崖壁に背を付けてフンバーバの動向を窺った。気配を殺し、息を潜めて聴覚のみに意識を集中させる。不安げな視線を送る男の子に、私は人差し指を口元で立てて静黙のジェスチャーを送った。男の子は両手で口を塞ぎ、しゃがみ込んで視線を頭上へ運ばせた。


 一分間が過ぎたが、聞こえてくるのは野鳥の合唱と葉摺れの調べだけだった。


 もう少し様子を窺うべきだろうか?

 すぐにでも行動に移すべきだろうか?

 私は何度か自問した末、あと一分間様子を見てから行動を起こすことに決めた。


 私が視界左端に映るデジタル時計の表示とにらめっこしていると、ミイが時計表示の横に着信履歴とメールの受信フォルダを開いた。不在着信が二件、未開封のメールが六件も入っていた。電話は二件ともザックから、メールは六件中一件がザックから、残り五件が同僚のシャロンからだった。


『伝えるのが遅くなってごめんね。ほら、フンバーバと悪戦苦闘していた時にメールの着信音でびっくりしたでしょ? だから、急場を凌ぐまで電話機能とメール機能をオフにしてたんだよ。お姉ちゃんの許可をもらっていないのに勝手なことして悪いなって思ったんだけど、緊急時だったからさ……』


「そんなことない、助かったわ。ミイ、メールを全部表示して」


【シャロン】2119/03/26 AM11:14 

 件名:なし

『今日の夕飯なに食うか迷ってるんだよねえ……ユーイなら肉と魚どっち選ぶ?』


【シャロン】2119/03/26 AM11:15

 件名:なし

『ねえ、どっち?』


【ザック】2119/03/26 AM11:15

件名:なし

『そっちの状況は大方理解できた。手が空いたら連絡をくれ。無茶だけはするなよ』


【シャロン】2119/03/26 AM11:16

 件名:なし

『あ、ひょっとして仕事中?』


【シャロン】2119/03/26 AM11:17

 件名:なし

『ザックと一緒にオツェアノ島に行ってるんだっけ?』


【シャロン】2119/03/26 AM11:18

 件名:返信求む‼

『ところで肉と魚どっち? 早くしてよ‼』


 受信時間を見るに、タイミングの悪いメールで私の心胆を寒からしめたのはあ奴か。しかも、このメール内容ときたら……暇なの、この人?


『お姉ちゃん、二人になにか返信しとく?』


「そうね、ザックには『こっちは無事。もう少ししたら電話を入れる』ってメールを送っておいて。シャロンには『どっちも』って送って」


『わかった。でもいいの? シーちゃんにぞんざいな内容のメールを送っておくと、後でネチネチ言われることになりそうだけど?』


「……たしかに一理あるわね。ああ、もう! じゃあミイの方で適当に送っておいて」


 時計をみやると既に六〇秒が過ぎていた。何という緊張感のない一分間だったのだろうか。……まあいいや、とにもかくにもフンバーバが私たちの視界から外れてからこれで二分以上が経っている。おそらく違うルートから私たちを追跡するつもりなのだろう。断定はできないが、そう判断することにしよう。


 さて、これからどうしたものか。無計画に湖に飛び込んだ訳ではないが、フンバーバの動向を十分に考慮した上で、慎重に行動を次に移すべきだろう。まずは逃走ルートを決定し、ザックへ合流地点の変更を連絡しよう。そうだ、頼りになる参謀役の意見も聞いておこう。念には念を入れてね。


「ねえ、どのルートから逃げるべきだと思う?」


 ミイはオツェアノ島の拡大図を視界に映しだすと、逃走ルートとなる箇所に三つの印をつけて意見を述べ始めた。


『現在地からは三つのルートがあるけど……ボクだったら、対岸にある林の中を通って合流地点のD(北北西海岸)に向かうかな。ちょっと道は険しいけれど、フンバーバと遭遇する可能性も低いし、セラフィン号も島に接岸し易い地形だからね。それにお姉ちゃんとザック、互いに時間ロスも少なくて済む』


「崖側右と崖側左の小径(こみち)を行くのはどうかな?」


『対岸のルートよりフンバーバと鉢合わせになる可能性が高いよ。特に左側の小径は木々が少ないし、身を隠せる場所も少ない。おまけに行き着く先は山頂だしね』


「じゃあ、さっきの場所(崖の上)に戻ってアメンボ号をそこに呼ぶのはどう?」


『アメンボ号じゃなくてセラフィン号だよ……まあ、いいや。崖の上にセラフィン号を呼ぶのはあまりオススメできないかな。航空形態のセラフィン号は離発着に時間がかかるし、もしその間にセラフィン号を破壊されたらボクたちは帰る足を失っちゃう。事実、乗り物を優先的に狙う傾向があいつらにはあるからね。人の嫌がることを本能的に理解しているんだよ、あいつらは』


 ミイの見解は私とほぼ一致している。これが現状考えられるベストな選択と思うべきなのだろう。


「オーケー。じゃあ対岸の向うを行こう。ザックに連絡をとってちょうだい。合流地点の変更を伝えなきゃ」


 ミイがザックに連絡を取ると、今回は二秒とかからず電話にでた。モニターの向うには、白色のティーシャツとクリーム色のコンバットパンツに身を包んでいるザックの姿があった。金褐色の髪が風に揺れているところを見ると、どうやら海上を移動中のようだ。


「ごめん、心配かけたね」


『無事ならそれでいい。それでフンバーバはどうした?』


「一度交戦はしたけど討伐は諦めた。今、男の子を連れて逃げている最中よ」


『そうか、まだ気を抜くなよ。奴らは執念深い』


「わかってる。あのね、私が保護した男の子なんだけど──」


 ザックは私の話を遮るように手のひらを向けた。トレードマークのティアドロップ型サングラスの奥から、何時になくシリアスな眼差しを向けているのがわかる。


『おっと、聞きたいことは山ほどあるが、詳しい話はおまえたちが帰ってきてからだ。今は脱出することに専念しろ』


「わかった。それで合流地点なんだけど、ポイントDに変更してもらってもいい? 一二時前には着けると思うから」


『オーライ。もし、また何か変更があったらすぐ連絡をよこすんだ、いいな』


 私はザックとの通話を終え、男の子の方へ視線を向けると、訝しげな目でこちらを見返していた。そうか、この電話(AIフォン)のことを知らない人であれば、独り言を呟いているように思うのも至極当然の話だ。電話のことを説明しようかと思ったが、今この場で余計な質疑応答の時間を取られたくはないのでやめることにした。


「さあ、立って。早くここから立ち去ろう」


 男の子は口を両手で塞ぎながら恐る恐る立ち上がる。私が「もう喋ってもいいよ」と言うと、両手を口から離して大きく息をついた。どうやら手で口を塞いでいる間、ずっと呼吸も止めていたようだ。その様子がなんだか可笑しくて、こんな時に不謹慎だけど少し笑ってしまった。


「あ、あの、助けてくれてありがとうございました」


 私が歩みを止めて後ろを振り向くと、男の子は四五度をはるかに超える最敬礼のお辞儀をしていた。私は少し気恥ずかしくなって、何の捻りもない言葉で男の子の謝辞に返した。


「大丈夫よ、気にしないで。ほら、それより顔を上げて。歩きながら少し話そっか」


「は、はい」


「君、名前は?」


「ぼくの名前は……あの、なんて言ったらいいか……こんなこと信じてもらえないかも知れないんですけど……」


「大丈夫、答えられることだけでいいから」


 男の子はうつむき加減で呟く。


「……わからないんです。自分の名前が」


「そっか。じゃあ、この島には何しに来たの?」


「ごめんなさい。それもわからないんです」


 男の子は両手で頭を抱え、苦悶に満ちた表情でそう答えた。これ以上の質問は止めておこうと思った時、男の左手首に銀色の金属バンクルが嵌められていることに気付いた。


「ねえ、その左手首につけているバンクル、見せてもらってもいいかな?」


 男の子は数瞬バンクルを見つめた後、左手首からバンクルを取り外して私に手渡した。


 銀色のワイドバンクルだ。金属には若干の弾性があり、光を当てると極々僅かだが青い波紋状の模様が浮き出る──微量だがミスリルが含まれているようだ。外側に装飾は一切ないが、内側にはメッセージが彫り込まれている。


‶一五歳の誕生日おめでとう  親愛なる レオ へ〟

                   アルマ  

 

 きっと男の子の家族、または友人か恋人から贈られたものなのだろう。気になるのは、()()()()()()()()()()()()()()ということだ。彫り込みは荒く新しくて、一週間も経過していないことが窺える。私は男の子にバンクルの裏面を見せて質問した。


「これを見て何か思い出せる?」


 男の子は私からバンクルを受け取り、食い入る様に見つめた。無声ながら口元が小さく開閉を繰り返しているところを見ると、バンクルに刻まれている言葉を反芻しているのだろう。


 暫くして、男の子は私の質問に対して答えを出した。


「ごめんなさい。何も……」


 その声は少し震えて濡れている様な響きがあった。……無理もない。自分を忘れること、誰かを忘れること、繋がりを忘れることは、それほどまでに辛く苦しいものなのだから。


 男の子は私から滲み出る憐憫の情を感取したのか、気丈にも笑顔を作り言葉を発した。


「でも、名前だけでもわかってよかったです。 レオとアルマ、どっちがぼくの名前なのかな?それともフルネームがレオ・アルマなのかな?」


 男の子はバンクルの裏面の掘り込みを指で数回なぞったあと、バンクルを左手に嵌めて自らの名前を私に名乗る。


「……ぼくの名前、レオにします」


 彼の表情には諦念から生まれた清々しさがある。しかし、その表情の裏側に不安や寂寥の念を無理矢理包み隠しているのが痛々しいほど強く伝わってきた。


「あのう、お姉さんの名前教えてもらってもいいですか?」


 そうだ、まだ私の名前を伝えてなかった……。やれやれ、この子の方が私よりよっぽどしっかりしているようだ。


「私の名前はユーイ・アルファナ。よろしくね、レオ。君には色々と聞きたいことがたくさんあるし、私に聞きたいことが山ほどあると思う。でも、それはこの島を出てからにしよう」


「そうですね、わかりました」


 私たちが再び林の向うへと歩き出してすぐのことだった。辺り一帯の空気が重くなったとでも表現すべきか、酸素濃度が低下したとでも表現すべきか、ともかく形容し難い圧迫感が私を襲う。私の身体は本能的にその圧迫感を強く感じる右側背を向いた。私の視線が湖から岸、そして崖壁へと移りかけた時、ミイが声を荒げた。


『お姉ちゃん、上‼』


 言われるがまま視線を上空へと滑らすと、現実味離れした光景がそこにあった。逆光のせいでそれを視認するまでコンマ数秒を要したが、それが判明した瞬間、時が停止したかのように感じた。驚愕のあまり、一時的に前頭葉と声帯が役割を放棄し、私は呆然と立ち尽くしてその場景を見やった。


 フンバーバが飛んだ。無論、フンバーバには羽も翼もなく、自由に飛行する能力など有していない。私が先程おこなったことをそのまま実行してみせたのだ──ただ単に、跳躍して自由落下に身を任せる行為を。一〇〇トン近くの巨躯で一二〇メートルの高さから跳ぶなんて、さすがに思いもよらないことだった。


 フンバーバは私たちのいる場所から四〇メートル前方に着水した。巨大な投下爆弾と化したフンバーバは、湖面上に極大の花を造り上げた。水で造られた花が一瞬の生命を散らすと、替わりに水柱が天高く立ち上がり、水柱は豪雨へと姿を変え四辺に降り注ぐ。遅れてやってきた小規模の津波が私の足を洗い、水の冷たさを実感させてくれたところで、やっと私の思考能力は正常な状態を取り戻した。


 水飛沫の向う側でフンバーバの双眸が不気味な瑠璃色の光を放っている。


 私はレオの手を取り、崖右側の小径へ向かって駆けだした。林のルートはもうだめだ。フンバーバの上を飛び越すのも、脇をすり抜けるのも生半なことではないし、大体、あんな無茶苦茶な追跡が可能ならば、林の中の木々や岩などの障害物も意に介さないだろう。あいつら()は、私たち人間の姿が目に映る限りどこまでも追ってくる。今は一刻も早く、フンバーバの視界から私たちの姿を隠すことが先決だ。


「ミイ、ザックに連絡して! 『フンバーバと再遭遇。合流地点はAかBに変更。尚、確定事項ではないから中間地点での待機を希望。到着時刻は不明』そう伝えて!」


『りょ、了解‼』


 後目(しりめ)でフンバーバの動向を確認すると、湖の水を掻き分けてよろめきながらゆっくりとこちらに向かってきているところだった。フンバーバの動きが緩慢なのは、おそらく着水時に負傷したからなのだろう──当たり前だ。いかに強靭極まりない竜の肉体であろうとも、あの巨体が一二〇メートルの高さから落ちて無傷でいられるわけがない。湖に浸かっている下半身は、おそらくズタズタになっているはずだ。しかし、安心してはいられない。すぐに再生が始まり、また元気一杯の姿で鬼ごっこを開始するつもりのはずだから。


 私たちは崖右側の長い小径を抜けて主山道にぶつかった。左側は登頂ルート、右側は合流地点A、Bへ繋がるルート、ここはもちろん右側のルートを選択する。なだらかな山道を二〇〇メートル程下ったところで、突然レオの手が私の手を離れた。悪路に足をとられて転倒してしまったのだ。


「ご、ごめん、スピード出しすぎちゃったよね。大丈夫?」


「平気です。……す、すぐに立ちますから」


 レオは衣類についた土を払いながらすぐに立ち上がる。怪我はないようだが、肩が大きく上下していたので、私は再度彼の手を取って、傍にあったシダの繁みの中に身を隠した。繁みの奥に入っていく途中で、ミイが『ザックから着信がありました』と書かれたカンニングペーパーを持って視界右端に現れた。ミイの口元にバツ印のテープが張られているところを見ると、通話機能をオフモードからサイレントモードに切り替えてくれていたのだろう。小声でミイに指示を出してもよかったが、沈黙を強調するミイの格好につられて、マニュアル操作でザックに返信した。‶仮想キーボード(AIボード)〟を起動し、『ごめん、また連絡する』とメッセージを打って送信する。


「ここで少し休もう」


「は、はい。すみません」


 私が水の入った水筒をポーチの中から取り出そうとした瞬間、辺りの木々に留まっていた野鳥たちが一斉に空へ向かって飛び立った。鳥たちの鳴き声と木々のざわめきが不安を煽る。


「ユ、ユーイさん。何か……何か感じませんか?」


 レオは虚空を見つめながら口を開く。私はレオに数瞬遅れて()()()()に気付いた。大気と地面を伝い、一定の律動で微細な振動が私たちの身体を叩いている。


 ……フンバーバだ、しつこいにも程がある。野生の感が働いたのか、竜の執念が為せる業なのかは知らないが、主山道からの二択をクリアしてこちらに向かってきている。しかも、約二秒間隔で伝わってくる振動から察するに、負傷した部分の再生は既に終えているようだ。フンバーバの心境からしたら、楽しい楽しい人間狩り(マンハント)の再開に心躍らせているところだろう。だが、私たちの姿は一度フンバーバの視界から完全に外れているし、竜の五感は人間のソレに毛が生えた程度のものでしかない。私たちを見つけるのは相当困難なはずだ。


「大丈夫よ、見つけられるはずがないわ」


 私は怯えるレオに向かって小声で囁く。内実、それは自分を安心させる為でもあった。いま私は、改めて竜の恐ろしさを痛感している。それは尋常ならざる暴力の脅威にではなく、人間に対する異常なまでの執着と殺意にだ。


 ……怖い……私知らなかった。意思疎通のとれない相手から執拗に命を狙われることが、こんなにも怖いことだったなんて全然知らなかった。


 大地を踏みしだく超重量級の足音は、歩を進めるごとに大きくなってくる。私たちを包み込むシダの葉擦れがそれを如実に物語っていた。ここからフンバーバの姿を確認することはできないが、既に至近の距離まで来ているのは間違いない。私はここから早く逃げ出したいという気持ちを押し殺して、フンバーバが遠ざかっていくのを祈った。


 一定の律動を刻んでいたフンバーバの足音に変化が生まれた。約二秒間隔だった足音は四秒、五秒と、より間隔を空けて聞こえてくるようになり、程なくしてその足音は完全に止まった。


 ……まずい。ひょっとしたら、この周辺に()()()を付けたのかも知れない。


 静寂を司る支配者が、フンバーバの足音に合わせて指揮棒(タクト)を止める。風も、木々も、生物も演奏を止め、自然が創り上げるオーケストラは一時休演を余儀なくされた。未だかつてない緊張と不安と恐怖に、静寂が新たにブレンドされたことによって、私の精神状態はやや危険な色合いを孕みつつあった。


 静寂を司る支配者が万物の沈黙を堪能し終え、勢い良く指揮棒を振るったのは一〇秒以上経過してからだった。


 フンバーバが凄まじい咆哮を上げる。それは獅子や虎などの猛獣と近似していたが、獰猛さや声量は比較にもならず、なにより……呪術でも込められているかのようにおぞましいものに聞こえた。


 無制限に増殖し続ける負の感情が、呪縛の鉄鎖に変幻して私の身体を縛り付け始めた。鎖は徐々に重みを増して身体の自由を奪っていく。しかし、私の右手を握る小さい手がその鎖を断ち切った。瞑目し震えながらも、私の右手を握る彼の手は暖かく生気に溢れていた。


 そうだ、負けちゃだめだ。私がしっかりしないと──だよね。


 私は内腿をおもいっきり強く抓った。腿を抓ったのは‶気付け〟の為であって、痛みによる精神の安定化などを企図したものではなかったが、私にとっては思いのほか効果があったようだ。薄らと赤くなった箇所を擦りながら、フンバーバの動向を窺う。


 数秒後、突然大地が波打った。それの意味するところを推量するより先に、私の身体は反射的に行動を起こしていた。レオを横抱きに抱え上げて、脱兎の如くその場から離れた。私は遁走しながら、考えもなしにこんな軽率な行動を取ったのかを自問する──決まっている、死を予感したからだ。


 私たちの後方で、木々を薙ぎ倒す音、草花を揺らす音、大地を叩く音、大気を震わせる音が破壊の四重奏を奏でた。バックモニターを確認すると、巻き上がる砂埃と乱舞する葉が不吉のヴェールを形成し、私たちが数秒前までいた場所を覆っている。フンバーバは自身を砲弾に化して、私たちが隠れていたシダの繁みに、本日二回目となる爆撃(フットスタンプ)を敢行したのだ。


 九死に一生を得たことにより生まれた安堵の念は、私の(うち)に居場所を求めたが、次の瞬間には疑念の泥濘に飲み込まれ消滅していた。


 どうして私たちの居る場所がわかった?


 理由はわからないが、フンバーバは何かしらの方法で私たちの居場所を特定しているのは間違いない。私は頭の中に浮かんだ疑念を片っ端からミイに質問していった。


「ミイ、赤外線感知器官(ピット器官)が備わっていた竜の実例はあるの?」


『まったくない』


「じゃあ、反響定位(エコロケーション)を使用した竜の実例は?」


『確かにあの咆哮はボクも不自然だなって思った。でも、過去の実例にはないよ。あれは単なる威嚇か、それとも威嚇によってお姉ちゃんたちを燻り出すことが目的だったんじゃないかな? でも……』


「でも、何?」


『あのフンバーバが特別な個体種だという可能性はあるかも知れない』


 それを言われたらこの論議は終わりだ。竜の生態については、未だ解明されていないことの方が大半で、新種が発見されたとしても何ら不思議ではないのだから。


『なにせ、過去にはゴブリンが竜言語魔法(ブレス)を使用した例が…………あ!』


 ミイの上げた声の意味を私は瞬時に理解した。初めて経験するとはいえ、どうしてこんな簡単なことを失念していたのか。


『お姉ちゃん、その子の体を調べて!』


「わかってる!」


 辺りを見回すと、高さ一〇メートル程の巨岩が目に映った。私はレオを抱えたまま、その巨岩の上へ跳び上がり、猟奇的過ぎる追跡者を確認する。フンバーバは破損した木々を支えにしてゆっくりと立ち上がっていた。私たちとは六〇〇メートル以上も離れているが、それは決して距離的余裕がある訳ではない。うかうかしていれば、すぐにでも追いつかれてしまうだろう。しかし、この場でどうしても確認しなければならないことがある。


「服、脱がすよ! いいね?」


 当たり前のことだが、レオは状況を読み込めず、当惑しきった表情で私を見つめ返した。返答を貰うまで、いささか時間を要するであろうと判断した私は強硬手段にでる。


「はい、万歳して! 万歳!」


 私はレオのティーシャツと、半袖ブルゾンの裾を同時に掴んで一気に捲し上げた。レオの上半身が露出すると、私は視線を腹部から胸部、胸部から喉元へと滑らせる。続いて、背中側を確認しようと背後に回ろうとした際、左肩甲上部に直径一〇センチ程の青白い光を放つ紋様が目に映った。


 ミイが慄然とした面持ちで呟く。


『……やっぱりあった、竜印(マーキング)だ』

 竜言語魔法の一種である‶竜印〟は、動物が目印をつける為に行うマーキングと似ている。異なっている点は、通常の動物が糞尿や体臭、爪跡などで縄張りを示すのに対して、竜は醒心力(パルス)で獲物に目印を付けることだ。有効範囲は竜種によってまちまちだが、過去の実例を鑑みるに、最低でも三〇kmは下らないだろう。つまり、このオツェアノ島内にいる限り、フンバーバの追跡から逃れることができないということだ。


 しかし、どこで竜印(マーキング)されたのだろう?

 フンバーバと対峙する前?

 右側頭部を攻撃した後?

 水面から顔を出した際?


 ……いや、今更そんなことを考えても仕方がない。あのストーカー相手にかくれんぼが通用しないことがわかったいま、すべきことは追いつかれないようにひたすら逃げるだけだ。


 レオは前を見据えたまま、私の不可解な行動に対して是非を問う。


「ユーイさん、ぼくの背中に何か付いてるんですか? ひょっとして、何かまずいことになってたりしますか?」


 私は握り締めていたレオの上着を彼の手に返して答えた。


「ああ……ええと、さっき高い場所から飛び降りたでしょ? 怪我してないかなって心配になっちゃってね。大丈夫、何ともないみたい。ごめんね、急に服脱がせちゃって」


 さしてうまくもない嘘をついたと自分でも思う。でも、これ以上不安を煽るようなことはしたくない。きっと、この子は私以上に不安な気持ちでいっぱいのはずだから。


 私は後方を振り向き、フンバーバの位置を再確認する。フンバーバは身体に付着した土や木端を、決して上手とは言えない身震いによって振り払っていた。竜には甚だ無用と思われる身だしなみを終えたフンバーバは、再び咆哮を島中に轟かせた。


 驚いた島中の鳥たちが、木々の中から一斉に中空へと飛び立つ。私たちもぐずぐずしていられない、早く逃げないと。


 私が再びレオを抱え上げようとすると、ミイがそれを制止した。


『お姉ちゃん待って、さっきから気になって仕方がないことがあるんだ。聞いてくれる?』


「なに? 言ってみて」


『先に断わっておくけど、いまからボクが話すことは推測に過ぎない。それを踏まえて聞いてちょうだい』


「勿体ぶった言い方してないで早く話してよ」


『どうしてフンバーバは、お姉ちゃんたちが身を隠している時に咆哮を上げたのかな? 竜印(マーキング)でレオの居場所がわかっていたのに、どうして攻撃をする前に、わざわざ大声を上げて成功率を下げるような真似をしたのかな? もちろん、単なる威嚇行為なのかも知れない。それとも、獲物を追い込んだことによって、迂闊にも狂喜の感情を爆発させてしまっただけなのかも知れない。でも、こういった考え方は危険なんだって、ボクは今日改めて痛感したよ。竜を人間以外の動物と同列にして捉えていると痛い目に遭う。少なくとも殺傷する行為に関しての智謀は人間並み、いや、人間以上と見なすべきなんだよ』


 何時になく迂遠な言い回しをするミイだった。未だミイの真意を掴みきれないでいる私は焦燥に駆られて答えを要求する。


「ミイ、はっきり言って! フンバーバが咆哮を上げたのは何の為だと思うの?」


『咆哮を上げたのは、()()()()()()()()()って考えられない?』


 突如、南方からの颶風が私たちの体を強く叩いた。その颶風を呼び寄せたのは、気まぐれな風の精霊たちだったのか、それともミイの懸念だったのか、それは私にはわからない。ただ私は、その荒々しい南風に凶兆が孕まれているのを、たしかに感じ取っていた。


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