PART1. ミハイル・ザックバーランド【1】
あなたが思い浮かぶ御伽話と言えば?
そう問われたら、アークスに生きる大抵の人たちが〝竜輝士伝説〟と答えるだろう。
勧善懲悪の物語としては極めて典型的なものであり、個人的には設定が懲り過ぎで、子供向けだか大人向けだかよくわからない最近のヒーロー番組のストーリーなんかよりは、余程わかり易くて良くできた話だと思っている。
だが、それはあくまでもフィクションであればこその話だ。
もし、これがノンフィクション……つまり史実だった場合、あなたはどう思う?
俺ならこう思う──冗談はやめてくれ、と。
まあ、そんなことを口にしたところで過去の事象が変わるわけでもなく、俺のような無学者は歴史研究家の一言で右往左往することしかできないのだが……。
竜輝士伝説の真偽に関しては、現在進行形で様々な分野の有識者たちが目下血眼で解明中である。しかし、どうしてそんな権威ある方々が、御伽話なんかの解明に勤しんでいるのかといえばだが、人類の未来が懸かっているのだから当然といえば当然である。
一応補足しておくが、人類の未来が懸かっているといっても、決して進化や発展に繋がるような希望に満ち溢れた意味合いではない。この先、俺達人類がこの惑星上で存在し続けていけるかどうか──つまり端的に言うと、近い将来、俺達人類は滅亡の危機に晒されるかも知れないということだ。
竜輝士伝説を知らない人は当然『御伽話一つでどうしてそんな話になるんだ? 仮に竜輝士伝説が史実だったとしよう。でも、だから何? 例え史実であろうが、それは過去に起こってしまったことであって、我々の未来には全く関係ないだろう?』と疑問に思うことだろう。だが、それは竜輝士伝説しか知らない人が思う疑問でもあるのだ。
これがどういうことかといえばだが、竜輝士伝説の話には続きが……いや、続きという表現は適切ではない──竜輝士伝説には原作があるのだ。
その原作は〝竜現書〟と呼ばれる一三章構成の書物(実物は碑石らしい)であり、これを要約、簡略化して、大衆にも読みやすくされたものが竜輝士伝説なのだ。ただし、一章から一ニ章までの良いとこ取りでだが。
良いとこ取りなんて皮肉めいた言葉を使ってしまったが、これに関して、俺は竜輝士伝説の著者に特段文句がある訳ではない。寧ろ、感謝しなければなるまい。テレビドラマにハマり、その物語の細部まで知りたくなって、原作の小説だとか漫画だとかに手を出す様に(俺なんかが正にそれだが)、竜輝士伝説のおかげで竜現書に興味を抱いた者も多いはずで、その点、竜輝士伝説の著者は竜現書の認知に多大な貢献をもたらしたことになるからだ。それに物語として完全なハッピーエンドで締め括るには、一二章までが区切りが良いと言えたのは確かだった。
では、人類の命運を左右すると言われる第一三章にはどんな内容が記されているかだが、これは予言というよりは後世の人間に対してのアドバイスのようなもので、現代文に直訳するとこうなるらしい。
≪神と人とが交わした誓約は未だ果たされていない。しかし、大いなる我らが主は必ず誓約を守られるであろう。誓約を果たすためには王が必要であり、戦士が必要であり、賢者が必要であり、人の敵が必要である。その全てが揃いし世界で、光の騎士は再びその姿を現すことになるだろう。悠久の時を経ても、人の願いが不変なものであれば……≫
竜現書を読んだことがない人間にとっては、何のことか皆目見当も付かないであろうが、専門家曰く、これは〝竜戦争〟の再発、そして竜輝士の再来を示唆しているとのことだ。
まったく……竜現書の著者だけでなく、こういった古書全般を書き記した先人達にも言えることだが、どうして謎めいた言葉や過大誇張を多用し、肝心の答えを読み手任せにさせることを好むのだろうか。非凡な才能を持つ方々の深遠なるお心を理解することなど、俺のような凡人には到底適わぬことだが、それを重々承知した上で一つだけ物申しておきたいことがある。
種の存亡が懸かっているのに、なぞなぞはねーだろ‼
……とまぁ、ここまでの話、竜輝士伝説及び竜現書に記されていることが、何をもって史実であり信憑性の高い予測かと言い切れるかだが、その理由は数多くあれど、最大の理由を挙げるとすれば、この物語の核となる〝竜輝士〟の存在にある。
──竜輝士伝説における人類の救世主。
──神に選ばれし聖なる存在。
──光り輝く神器を身に纏い竜を打倒する者。
竜現書が完全なる史実に基づいて伝えられており、これから起こり得る未来の出来事をも予言しているのならば、人類滅亡のカウントダウンは既に始まっているのかも知れない。
なぜなら二年前、俺は……いや、俺だけじゃない。世界中の人間が目にしているからだ。
竜輝士の存在を。
その伝説に違わぬ姿と力を。
……そして、その最期を。
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「ザック!」
不意に自分の名前を呼ばれ、俺の意識は妄想世界から無事に帰還を果たした。
気が付けば、辺りには僅かに磯の香りが広がっており、熱を帯びた潮風が俺の身を包んでいた。ここはオツェアノ島から少しばかり離れた海上である。
オツェアノ島はアークス地図ポイントS1031E0456に位置し、俺が仕事をするにあたり、拠点としているエクステリア領ブルーベル島から南西に一二〇〇km程離れたところに存在する。
常夏の気候、手付かずの自然、多様な珍しい生物、美しい海で囲まれた現代の秘境とも言える島なのだが、観光目的で訪れる酔狂な者はいない──というのも、オツェアノ島周辺は一般人立ち入り禁止の危険区域として指定されているからだ。
そんな危険区域に指定されている場所にも関わらず、俺は今、愛機”〝アメンボ号〟の甲板に日除けパラソルを立て、リクライニング付の椅子に寝そべり、椅子の隣には瓶ビールと各種カクテル缶をこれでもかと詰め込んだクーラーボックスを設置して、どこまでも続く紺碧色の海に向かって釣り糸を垂らしつつ読書をしている。
傍から見れば、命知らずの阿呆がバカンスにでも来ているようにしか見えないだろうが、ここに来た本来の目的は仕事の為である。ただし、実務に励んでいるのは俺と同行した頼れる仲間ではあるが……。きっと今頃、オツェアノ島にて美しい労働の汗を掻いていることだろうな。
言い訳にしか聞こえないかも知れないが、本日の仕事内容程度では大人数を割く必要もない。俺の頼れる仲間であれば一人で十分、寧ろ高額なお釣りがくるくらいであり、今日の俺にやれることといえば、せいぜい、その頼れる仲間が万が一の事態に陥った時の為の補助要員くらいのものだった。まぁ、そんなことは起こりようもないことだろうが。
だからという訳ではないが、その仲間が帰還してくるまでの時間をただ手持無沙汰に待っているだけというのはさすがに勿体ない。結果、この待ち時間を有効活用して、俺の数少ない趣味の一つである釣りに興じていた。しかし、現在までの釣果はゼロ。正直暇だ。
真の釣り好きは待っている時間も楽しいとよく言うものだが、それも結局、釣れてなんぼのものではなかろうか。いくら真の釣り好きといえども、アタリもなくボウズのままで終わって、心から『今日は楽しかったなぁ』とは言えまい。言えたら、そいつは真性のマ……もとい、真正の我慢家さんだろう。
そんなこんなで間抜けな話だが、手持無沙汰な時間を費やした時間はやっぱり手持無沙汰だったので、その手持無沙汰な時間を使い、たまたま持ってきていた竜輝士伝説の絵本を読んでいた訳だ。
「ザック? ねぇってば!」
声の主は、先程返事を返さなかった俺に少し腹を立て気味のようで、少し強めの口調で再度声をかけてきた。
「ああ、すまない。どうした?」
声のする方向へ身を捩ると、やっと気付いたかと言わんばかりの呆れ顔で俺を迎えるマイの姿があった。
全長は一メートル足らず、二頭身あるかないかのずんぐりむっくりの体には余りにも短い手足が申し訳程度に付いており、頭の上には兎のような長い耳が立っている。顔はネコとブタを足して二で割ったような造りで、短い眉と糸のように細くて長い目、真一文字に大きく開いた口元には少し長めの八重歯が左右に二つ。そして、なぜか鼻はない。服装はワイシャツ、ベスト、蝶ネクタイ、スラックスというコーディネート。
一見、大きめのぬいぐるみにしか見えないこの不可思議な生き物の正体は、第八世代型情報支援……何だっけ? まぁ、平たく言うと、もの凄いロボットである。
超高性能AI〝アルファAI〟を搭載し、様々な情報のトータルサポートをおこなってくれている。そのスペックは言わずもがな、こと電子関連における仕事では、不可能はないと思わせる程優秀であり、マイもまた、俺の頼れる仲間の一人……ではなく、一機である。
そんな電子関連のサポートスペシャリスト様は、畑違いのサポートも怠ることはなかった。釣り糸を垂らしてから早四時間、一向に無反応だった釣竿を指差しながら、俺に朗報を伝えてくれた。
「引いてるよ、それ」
釣竿の方へ目を向けると、輪ができそうなくらい大きなカーブを描いていた。俺は椅子から飛び跳ね、一目散にマイロッドの下へ向かう。飛び跳ねた際、横に置いておいた瓶ビールが甲板に転がり落ち、中身のほとんどが泡を立てて零れてしまっていたが、今はそんなことどうでもいい。今すべきことは決まっている。釣竿を手にし、待ち焦がれた相手との甘美な一時に一喜一憂することだけだ。これから海上と海中を挟んで行われんとする、情熱的かつ合理的な駆け引きと押し引きを考えると、俺の脳内で必要以上のアドレナリンが分泌した。
しかし、この猛る程の熱き想いは意中の相手に伝わることはなかった。それは釣竿に手をかけ、軽く引いた瞬間に理解した。
まさか、俺が釣られる側になるとは……こんなタイミングでバレるか、普通。
一瞬で最高潮にまで達した期待感と高揚感から一転、俺は凄まじい喪失感に襲われた。おぼつかない足取りでリクライニングシートに向い、半ば倒れ込むように腰を下ろす。先程落としたビール瓶を拾う気もとうに失せていたので、クーラーボックスから新しい瓶ビールを取り出し、一気にそれを飲み乾すがどうも味気ない。これが釣り上げた際の祝杯であれば、どんなに口福なものだっただろうか。いまさら、たらればの話をしても栓ないことだが、自然と溜息が出てしまう。
「ねぇ、ザック。それは?」
俺の無念を察する素振りも見せることなく、マイは質問を投げかけてきた。まあ、それも無理からぬことか。釣り師の心は釣り師にしかわからないものなのだから。
俺はサイドテーブルに置いてあった本を手に取り、知識欲旺盛なロボットくんに説明してやった。
「んん? ああ、これか? これは竜輝士伝説の絵本だよ」
「ああ、うん。絵本ね……絵本かぁ。やっぱいいよね、絵本って」
……このやろう。
言葉のニュアンスと表情から察するに、おそらく侮蔑に近い感情が込められているのがすぐにわかった。しかし、そう思われても仕方のないことかも知れない。普段読むものといったら、新聞と釣り雑誌くらいしかない四十に差し掛かった中年のおっさんが、子供向けの本を神妙な面持ちで読んでいたのだから。でもだからといって、露骨にそんな態度を取られると傷つくというものだ。
「おいおい、偏見が過ぎるんじゃないか? 大人が絵本を読んじゃダメだってどこのどいつが決めたんだよ? 今のご時世、大人が絵本を読むこともあれば、子供が辞典を読むこともあるだろうよ。退嬰的な考え方はおまえさんらしくもないぜ。それに、これはアーシャから贈られたものなの。読まないわけにはいかないだろう?」
「アーシャちゃんが作ったの、これ? 凄いじゃん! なになに? 将来は絵本書きとか目指してるの?」
「そうらしいな」
感情を億尾にも出さないように答えたが、俺は内心悦に入っていた。親バカと思われてしまうかも知れないが、自分の娘が褒められるのはやっぱり嬉しいものだし、マイが言った通り、一三歳の女の子がこのクオリティで作れるというのは驚嘆に値することだと思う。何より小さい頃から変わらず、自身の夢の為に邁進している姿は愛らしくも誇らしい。はっきり言って自慢の娘だ。はっきり言って最高の娘だ。
もっとその話題を振ってくれ、と心の中で思った瞬間──。
『ザック、お姉ちゃんから電話だよ。繋ぐ?』
目の前に手の平サイズのマイが何処からともなく現れ、電話の着信を告げた。
一応断わっておくが、俺は別に酔ってもいなければ、危ない薬でラリっている訳でもない。目の前に現れたミニチュアサイズのマイは幻覚でもないし妖精の類でもない。俺は正常だし健常であることを明言しておこう。
俺たち第五五支所のメンバーが使用している携帯電話は、今までの概念を覆したまったく新しい代物で、本体となる特殊ラバー材質のブレスレッドと、イヤホン、スピーカー、マイク等を兼任する役目を持つピアス、そしてディスプレイ装置となるコンタクトレンズの三つから成っている。
基本操作はマイと同性能のAIによるオールナビゲーションシステムを採用しており、完全ハンズフリーの携帯電話だ。
今し方、俺の目の前に現れた小さなマイは前述した携帯電話のナビゲーションAIである。名前は‶ミイ〟と言い、マイとほぼ同じ容姿、性能を有している。相違点を挙げるとすれば、マイが現実世界と仮想世界で行動できる存在で、ミイは仮想世界でのみ行動できる存在といったところくらいか。
一昔前から『携帯電話さえあれば何でもできる』と言われ続けてきたものだが、この携帯電話を前にしては同じことを口にはできないだろう。
そんな超高性能の携帯電話‶AIフォン〟を介して連絡してきた相手は、オツェアノ島で仕事に励んでいた頼れる仲間からだった。おそらくは任務完了の報告だろうが、予想より一時間以上は早い。今日に限ってはもう少し遅くても良かったのだが。
「ユーイか、さすがに早いな。繋いでくれ」
『了解!』
ミイは軍隊式の敬礼ポーズをとると、俺の目の前に通信相手が映ったモニターを表示した。
先月一九歳を迎えたばかりのユーイ・アルファナは、一言で喩えると‶才媛中の才媛〟だった。仮に彼女の成績表というものが存在するのであれば、おそらく経験以外の項目全てにA判定が付けられるのは間違いないだろう。当然ながら、その成績表には容姿、性格、家柄なども含まれている。惜しむらくは、備考欄に「良い意味でも、悪い意味でも、たまに頭のネジが外れかけるのが瑕」と記載しなければならないところか……。
俺はそんな彼女をモニター越しに見つめた。
澄明な空色を限りなく薄めた色合いの髪は動きやすいように短くしており、アメシストの輝きを放つ大きな瞳は、彼女の美貌や髪色と相まって、あたかも妖精のような美しさを思わせた。服装は今朝出発した時と同じ、真っ白なパーカーシャツとクリーム色のホットパンツ、その上にフード付きのポンチョコートを着込んでいる。
ユーイは俺の顔を見るなり、柔らかな笑みを浮かべて口を開いた。だがしかし──。
『任務完了の──わっ‼ ちょ、ちょっと!』
ユーイは慌てた様子でフードを深く被り俯いた。
「おい、どうした? 大丈夫か? 何かあったのか⁉」
『何で! 何で裸なのよ⁉』
ああ、なるほど。テレビ電話のモニターには互いの上半身しか映っていないので、どうやらユーイには俺が裸で居るように見えているらしい。身に着けているのはサングラスと右手のグローブのみ、そんな中年のおっさんが南国の海上で釣りと絵本の読書に興じ、年頃の女の子に裸体を披露している……か。どんな変態だ、俺は。
「おいおい、ちゃんと下は履いているぞ」
そう、しっかりハーフパンツを履いている。大体、海に来ているんだ。男ならハーフパンツ一丁くらい当たり前だろうが。しかし、ユーイは目線を外したまま先程言いかけた内容を報告してきた。しかも、あてつけのようにスポーツサングラスまでかけやがって……絶対信用してねぇな、こいつ。
『……任務完了の報告です。討伐対象三体の殲滅及び竜命石の回収を完了。これから帰還致します』
「おう、お疲れさん。いま何処らへんにいるんだ?」
『島の中央部にある山の五合目付近だよ。あと三〇分くらいで帰れると思う』
「三〇分……ね」
『何? どうしたの?』
「いや、何でもない。ゆっくりでいいから気をつけて帰って来いよ」
『了解です。……ちゃんと着ててよ?』
服を着ているのに、服を着ていろとは何という言い草であろうか。
くそっ、おぼこぶる年頃でもねえだろうが。なんだか悔しいからブーメランパンツにでも履き替えて、大股開きで帰りを迎えてやるかな。そうだ、サンオイルもたっぷり塗ってテラテラにしておくとしよう。
『ねえ、聞こえてる?』
俺は聞こえなかった体を装ったが、そんな愚かで浅はかな考えは御見通しとばかりに、ユーイは大きな声で優しくゆっくりと復唱した。
『服・き・て・て・ね』
……おふざけはここまでにしておいた方が良さそうだな。五五支所の女傑どもを怒らすと後が怖い。俺も子を持つ身として、社会的立場に影響が出るような行動は極力慎まねば。
「オーケイ、わかったよ」
『じゃあ、三〇分後にね』
通話が切れると、俺はすぐに釣り竿の仕掛けを新しいものに替える準備を始めた。そんな俺の動向を暫く静観していたマイは、無表情で既にわかりきっていることを訪ねてきた。
「まだやるんだ?」
「片付けや迎えに行く時間を差し引いてもあと二〇分はあるだろ。やるさ」
「うんうん! 人間はやっぱりそうでなくっちゃね」
マイはさっきとは打って変わって朗らかな顔をつくり、達観した口調で宣う。
「そうって何がだよ?」
「人間は簡単に諦めたりはしない、人間は簡単に挫けたりはしない、人間は簡単に投げ出したりはしない──そういうこと。ザック、知ってた? ボクは人間のそんなところを凄く尊敬しているんだよ」
「お世辞の質が向上したな。処世術のアップグレードでも施されたのか?」
「もう! そんなんじゃないよ!」
「冗談だって、悪かったよ。だけど意外だな。そんな非効率で非生産的な行為は、おまえたちからして見れば、対極に位置することだろう? 普通だったら、人間のそういうところは愚かしげに見えたりするんじゃないのか?」
「だからさ! 愚かだと思うけれど、それ以上に素晴らしいと思っているんだ。だって、ボクたちが無理だ、無駄だって思うことが、極稀にだけど人間にはできちゃったりするんだから。それにさ、有史以来、人間が他の生物の追随を許さないスピードで進化してこられたのは、諦めない意思の強さ、立ち向かう意思の強さがあったからだとボクは信じているの。それが産み出してきた奇跡が積み重なって、今のボクが在るのかなって思うと……」
長い両耳を左右交互にゆっくりと揺らしながらマイは少考した後、言葉を繋いだ。
「誇らしいっていうか、羨ましいっていうか、確率や期待値だけで物事を判断しているボクたちには及びもつかない世界だし、眩しすぎる世界だよ。……変だな、上手く表現できないや。ねぇ、ボクの言いたいことザックにはわかる?」
「ははっ、言いたいことはわかるが、少し人間という生き物を美化し過ぎじゃないのか? まあ、確かにそういう立派な人間が実在するのは間違いないが、そいつはミスリル以上に希少だと思うぜ」
「もちろん万人に当て嵌まることじゃあないよ。でもボクはそういう人ちゃんと知っているもん」
「伝説の竜輝士様か?」
「彼もそうだね」
「おまえさんのマスターも?」
「まあね、それと目の前にいる人間もそうだと思っているよ」
「ふん、やっぱりアップグレードが施されているじゃないか。オーケイ、今度おまえさんのマスターに言っといてくれ。皮肉のつき方なんぞにバリエーションをつけるより魚群探知機でも搭載してくれってな」
俺が皮肉を返すとマイは大きく破顔した。両耳をリズミカルに振りながら俺の傍まで歩み寄ると隣に腰を下ろした。
いつの間にか、船体を優しく叩く波の音と海鳥たちの鳴き声が美しい自然の調律を奏でていたことに気付く。太陽は世界の裏側まで照らしているかのように明るく、目に映る光景全てを澄明で神秘的なものにしていた。その穏やかで緩やかな時間の中、暫しの間、俺たちは言葉を交わすこともなく、ただ目の前に広がる海を眺めていた。
いつになくセンチメンタルな気分に浸っていることに気付き、俺は自嘲気味の微笑をこぼしながら独語した。
「ったく、なにを感化されてやがるんだ」
俺はサイドテーブルの上に置いてあった煙草ケースから一本取り出し、口に咥えてジッポーで火を点けた。吐き出した紫煙の向う側に、一瞬懐かしい顔が浮かんだ気がした。胸の奥で、自身にも分類できぬ感情(痛み)が沸き起こるのを感じた俺は、それを振り払うかのように、仕掛けを付け直した竿をポイントも定めず思い切り振った。空を切る音をたて、勢いよく放たれた本日最後の希望は、紺碧色の海に吸い込まれていくように遠くに落ちていった。