九日前(由芽)
抱きしめられて寝た翌朝、気がつくと彼は先に学校に行ってしまっていた。
いよいよカーディガンでは寒さがしのげなくなって、軽めのコートを着る。このところ毎日一人で通学しているので、それにも慣れてしまった。つなげる手がなくても、ポケットに両手を入れてしまえばいいだけの話だった。
「なんかさぁ、今日はちょっといい顔してない?」
「そんなことないよ」
学食の変わり映えのしないランチを食べながら、秋穂ちゃんはにやにやした。
「何があったの?」
「何って……いろいろあって、要もまだわたしを好きだって言ってくれて、十七日目まではまだ恋人でいようって約束を……」
「全然、良くないじゃん!」
隣に座った人がびくっとなったのを気にして、ちらっと見たら原田くんだった。
「あ、邪魔してごめん。向こうから由芽ちゃんが見えたから。ほら、オレも要と一緒に昼飯食べなくなったし……声を今かけようかと思って」
三人とも黙ってしまう。原田くんは間が悪い人の見本のようだった。
「初めまして、由芽の友だちの沢口秋穂です」
秋穂ちゃんは営業スマイルで、自分で作ったマイナスポイントをプラスに変えようとしていた。
「えっと、由芽から原田くんのことはよく聞いてます。お邪魔のようだから、わたし、先に教室に行ってるね」
「沢口さん、僕が移動するから」
「いいんです。その子に、自分がいかにバカなことをしてるか教えてやってください」
トレイを手に持って、さっさと秋穂ちゃんは行ってしまった。元々、秋穂ちゃんは先に教室に行っても話せる友だちが多い。いつも人見知りなわたしの相手をしてくれているだけだ。
「どうかしたの?」
「……原田くんには恥ずかしくて言えない」
彼は大きくため息をついた。
「僕は信用がないんだね……」
「信用とかじゃなくて! ……恥ずかしいことだから」
「要とは上手く行ったの?」
斜めの角度からわたしを見る原田くんの目は、やさしい色をしていた。
「なんでそう思うの?」
「今日は元気だよ? 自分で気がつかなかった?」
「……昨日、要がまだ好きだって言ってくれたから」
「そっかー」
原田くんは自分のトレイから、ヨーグルトとスプーンをわたしのトレイに載せた。
「あ! わたしが奢る番なのに」
「お祝い。……由芽ちゃんにつけ込む隙がなくなっちゃったかな? 由芽ちゃん、急いで食べないと次の講義始まるよ?」
教室に向かって原田くんと歩いていると、赤いネイルがわたしに向かってひらひらと手を振った。大島さんと要だった。
ふたりは腕を組んで歩いていた。要の手はジーンズのポケットに入り、彼の肘に大島さんのすらりと伸びた腕が巻きついていた。
ふたりの距離は限りなく近くて、見ていて辛くなる。要は大島さんの視線をたどって、やっとわたしを見つけた。
「汐見さん、お久しぶり。元気?」
「お陰様で。大島さんほどじゃないですけど……」
「そう? 相変わらずみたいね? わたし、先に行くね?」
彼女は颯爽と友人たちが手を振る方へ歩いて行った。欅の落ち葉が風に踊って、足元を通り過ぎる。
「要さ、今は大島さんとつき合ってるの? それともその約束の日までは由芽ちゃんが彼女なの? 聞いた感じだと由芽ちゃんが彼女だって話だよね?」
「……原田には関係ない」
「関係あるよ。由芽ちゃんがまだ要の彼女なら遠慮するけど、そうじゃないなら遠慮いらないよな?」
「原田くん、いいよ、わたしのことで言い争ったりしないで」
要はそっとわたしを見た。少しだけ悲しそうな、小さい男の子のような目で。
「由芽はいい子だと思うよ。約束を決めたのはオレだし、確かに約束の日までオレは由芽と一緒にいるべきなんだろうけど……。ごめん、いろいろ上手く行かない」
そっと手を出して抱きしめてあげたかった。それは要がいちばん傷ついているように見えたから。でもたぶん、要はわたしの手を受け入れないだろう。だからわたしは彼に触れられない。
「ごめん、わたし、もう講義、行くね」
原田くんの声を振り切るように駆け出した。胸がきしりと痛む。わたしは、今はまだダメだ。原田くんがどんなにやさしくても彼に心を傾ける訳には行かない。要がわたしの心を占めていて、他の人のことはとても考えることができない。
「由芽は原田がすきなの?」
ご飯の支度をしていると、要がぽつりとそうこぼした。
「なんでそう思うの? わたしは要しか好きじゃないよ……今となっては要には迷惑かもしれないけど」
「そっか」
スマホをいじっていた要は立ち上がると、キッチンにいたわたしのところに歩いて来た。唇が重なる。
求められて要からキスしてくれるのは久しぶりだった。まだ欲しがってもらえることに胸が震える。肉じゃがの煮え具合が気になった時、要はコンロのスイッチを消してしまった。
「由芽……オレがそんなに好き?」
「うん、ダメなんだよね?」
「最初はオレの方から由芽を口説いたのに……」
もう一度、胸のボタンを外されながら口づけされる。抵抗をする必要はない。耳元から首筋を通って、胸元まで要の唇が触れていく。どうにでもしてほしい、という気持ちになる。
「要……一度でいいから、大島さんと同じように抱いてくれる? どんなんでも怖がらないから」
涙がぽろりとこぼれ落ちた。ああ、もう涙は隠せないな、と思った。
「玲香を抱くのは由芽を抱くのとは全然違うよ? オレはあんまりやさしくないし、玲香は見ての通り、何事にも貪欲だし」
わかってたことだけど、はっきり口にされてふたりがそういう仲だという事実に打ち砕かれる。
「わたしには教えてくれないの? わたしの知らないセックスの仕方」
要の顔色が変わる。わたしはたぶん、真顔だった。覚悟を決めていた。彼は逆に迷っているようだった。
「オレは、由芽のこと、傷つけたくないよ。勝手だけど今のままでいてほしい」
「大島さんとはするんでしょ?」
「……するよ」
「気持ちいいんでしょ?」
「……いいよ。でも、それは由芽を抱くときとは本当に違うんだ。オレは由芽にそういうことをしたくない。今のまま変わらないでほしいから」
「わかんないよ……」
彼の言っていることがわからなくて、誰かに通訳を頼みたい気がしてくる。大島さんとするのと、わたしとするのではそんなに違うのか……。体が違うだけで、そんなに違うものなのか。
「オレ、最低なんだよ。由芽と手を繋ぐ資格もないよ」
「そんなのわたしが決めることじゃん!」
強気に出る。珍しく大きな声を出したわたしに、要は一瞬大きく目を見開いて、それから目を伏せた。
「……原田はいいやつだよ。あいつ、ずっと由芽のこと好きだったみたいだし、やさしいよ」
「そんなの、わたしが決めることじゃん……」
その晩、夕飯も食べずにわたしは要に抱かれた。要のキスは今までと全然違っていて、わたしの何もかもを口の中でかき混ぜて狂わせてしまいそうだった。ついていくことに必死で、彼の舌を追いかけた。追いかけて、捕まって、放してもらえなくて、涙が違う意味でこぼれていく。吐息と一緒に、言葉にならない声が漏れる。……やっと解放されて、息が荒くなったわたしの涙を要が拭う。
「怖い?」
怖くない、と言ったら嘘になる。でも、体が例えボロボロになっても、抱かれたいと思った。だからわたしは一言、
「続けて……」
とだけ言った。
要は頬に口づけて、わたしの鎖骨の辺りを強く吸った。痛みを伴って彼のものだという《《しるし》》をつけられることがひどくうれしくて、恐々《こわごわ》とまたキスを求める。深く深くキスをして、その後、要はわたしにやさしく触れて、何一ついつもと変わらず、いつもより丁寧に抱かれた。
いつもより怖いことなんてもう何もないのに、
「怖くない?」
と何度も何度も聞いてくれる。その度にわたしの前髪はかきあげられ、あまり広くないおでこに小さくキスをくれる。
……どうなってもよかったのに。
事が終わると彼はわたしの頭を抱えて眠った。やさしい顔をしていた。