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17日後  作者: 月波結
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十四日前(由芽)

 目が覚めると、床の上で要が何も掛けずに寝ていた。わたしは本当にベッドの上で大の字で寝ていたらしく、要はベッドに入れなかったらしい。

「要、要……」

「んん……」

 その寝顔を見ていると無防備な姿に胸が温かくなって、ああ、わたしはこの人のことが本当に好きだなぁと心からしみじみと思う。

 冷たい頬に恐る恐る小さくキスをする。彼からは知らないシャンプーの香りがした。その香りは記憶に残りそうなフルーティーな強い香りで、心の中まで入り込んできそうだった。

 わたしとまだ別れてないのに、わたしとも、彼女ともするのはアリなんだ……。ずいぶん、要に甘いルールだなと思う。

 秋の終わりでずいぶん冷え込むようになっていたので、暖房をつけて彼に毛布をかける。それから、寒い中帰って来て、冷たい床の上で寝ていた彼のために温かい食事を用意する。豆腐とわかめの味噌汁、塩鮭の切り身、甘い玉子焼き。

「要、朝ご飯だよ」

「んー、由芽、こっちに来て毛布に入ってよ。寒い」

 要はまだ寝ぼけていた。別れ話の事なんてまるでなかったかのように甘えてくる。

 以前はふたりで毛布の中で丸まって、暖をとったものだ。そうすると、要とわたしの温もりが合わさって、毛布は小さなかまくらのようになるんだ。

「ダメ、ご飯冷めちゃうよ? ほら、暖房も効いてきたから」

「なんだよぉ、ケチだなぁ。ちょっとくらい……。ごめん、寝ぼけてたみたいだ」

「うん、そういうのは新しい彼女にしてもらって。ごめんね、わたしにはもう無理」

 彼の目もようやく覚めたようで、ちょっとかわいそうになって頬にもう一度キスをする。「わたしから嫌いになったわけじゃないの」と心の中で思いながら。


 ようやく彼がテーブルに着く頃には食事は半ば冷めていた。要が変に改まって「いただきます」をするのはやましいことがあるからかなぁとか思って、そんなことを考える自分に嫌気がさす。

でも要はいつも通り、甘い玉子焼きがあることを喜んだので、自分が考えすぎだったと思う。……彼はまだ、わたしを少しは必要としてくれている。

 要は甘い玉子焼きが大好きで、コレステロールと糖分を気にしながらわたしは何度も作った。

 ある日ぽろっと、「甘い玉子焼きが好きなんだ」と彼がこぼしたからだ。それから砂糖の分量を変えて、尖った甘みの上白糖から三温糖を使うことにした。もう何度作ったかわからない。

 ひとりで暮らしていた時にはフライパンで作ってしまっていたけれど、とうとう専用の四角いフライパンを買った。今となってはこれも、ふたりの思い出の品なのかもしれない。

「朝から玉子焼き焼くの、大変じゃない?」

と聞いてきたので、それほど難しくないことと、要にも作れるよ、と答えた。要は一通り話を聞いていたけれども、

「いや、よしておく。できる気がしないよ」

と言った。

 大島さんは料理はしないそうなので、わたしと別れたら要に玉子焼きを焼いてくれる人がいなくなってしまう。……残りの十四日間に、できるだけ焼いてあげたいと思った。




 もう、要のお弁当は作らなくなった。


秋穂ちゃんとランチに迷っていると急に雨がぽつぽつと降り出し、学食に逃げ込んだ。

 今日も要とわたしはお昼を別々に取った。

 食べ終わった秋穂ちゃんが次の講義に向かうとき、入れ違いに、要の友だちの原田くんに会った。原田くんは要と同じゼミで、ふたりは親友だ。人見知りなわたしでも気を許せるくらい、屈託のないひとだ。

「由芽ちゃん、奇遇だね」

と原田くんは人懐こく話しかけてきたのでわたしも気が緩んで、

「うん、原田くんも元気だった? 久しぶりだよね」

と言った。


 いつもお互い一緒の、要も秋穂ちゃんもいないので、自然、その場にはわたしと原田くんのふたりきりだった。原田くんが学食の、紙の容器に入ったヨーグルトを奢ってくれて、それを食べながら話した。

「あのさ、直接的で悪いとは思うんだけど」

「うん?」

「要とは別れたの?」

 わたしは秋穂ちゃんにしかそのことを話していなかったので、原田くんがどうして知っているのかと大きく動揺した。同時に情けない気持ちでいっぱいになってうつむかずにいられなかった。

「要と同じゼミだもんね。……要に聞いたの?」

「いや、そういう噂を聞いたから本人に聞いたんだけど、否定しないから」

「そっか……」

 わたしはあのややこしい「十七日」の話をした。心の整理をつけるための十七日。わたしが死刑台に立たされるまでの十七日のことを。

「そんなことになってるんだ」

「そうなの、笑っちゃうでしょ? 要も大島さんみたいな美人とつき合うなら、わたしみたいなのはビシッと切ればいいのにね?」

 原田くんの顔には、同情の色が濃かった。

「由芽ちゃん、他人ひとのことはあまり悪く言いたくないんだけれど。大島さんがいい人だって噂は聞かないよね? むしろ同じゼミにいると噂通りだな、と思うことが多いよ。要もバカじゃないんだから、何が大切なのかちゃんと気がつくんじゃないかなぁ? 僕は要が間違ってると思うよ」

 わたしはまたうつむいて、さっきよりもっと小さくなった。たぶん、肩が震えてしまったんじゃないかと思う。

「そんな風に言ってくれて、ありがとう」

 でもたぶん、人を好きになるのに正しい(・・・)とか間違い(・・・)とかは関係ない。例え間違いであったとしても、要の心はわたしにはない。

「要にふられたら……その、僕でよかったらいくらでも話も聞くし。待ってるから考えてみて?」

 そこまで言うと、わたしが「ごちそうさま」を言うより早くわたしの分もヨーグルトの空の容器を捨てて、行ってしまった。


「ふぅん、原田くんかぁ。お昼に会った人だよねぇ? 顔、よく見なかったなぁ」

 講義を終えた秋穂ちゃんと図書館で待ち合わせしていた。

「顔? なんで?」

「えー? 気がつかないかなぁ? 森下にふられたら、つき合ってほしいって遠回しに言われたんだよ?」

「そんなことないって。原田くんは本当に善意で、わたしのこと励ましてくれて」

 秋穂ちゃんは英語のテキストの予習をしながら溜息をひとつついた。

「原田くんのほうがずっといい男だと思うな。森下、さ、由芽のこと泣かせてばっかだし。こんなことになって、由芽がどんな気持ちでいるのか考えないのかなぁ? それとも美人といるとわからなくなるのか?」

「ごめん、笑えない……」

 彼女は申し訳なさそうな顔をした。

「だよね、こっちこそごめん。ただ、由芽が泣いてるのを見るとこっちまで胸が詰まるって言うかさ……」

「迷惑ばっか、かけてごめんね」

「わたしにはどれだけ迷惑かけてもいいんだよ?」

 秋穂ちゃんはわたしにとってもったいないくらいの親友だ。彼女が心配しないで済むような、わたしでありたい。




今夜は要が出かけないと聞いたので、アジフライとポテトサラダを作る。アジを下ろして小骨を取るまでが大変で、ポテトサラダはジャガイモさえうまく茹でられれば難なくできる。

「要、ジャガイモ潰してくれる?」

「いいよ」

まだほくほくのジャガイモのいい匂いが広がる。ガラスのボウルがたまに、マッシュしてるスプーンに当たって音を立てる。わたしはその中でアジフライを揚げている。

 これが、わたしのしあわせの形だ。今となっては幻のようなものかもしれない。それでもわたしが要にしてあげられるのは料理くらいで、大島さんみたいにセクシーではないから一緒にいてドキドキさせてあげることはできない。でも、一緒に暮らす(・・・)ことはできる。できる、のに。

アジフライにはわたしはお醤油、要はソースをかけた。いつものことなのに、何だかその小さな違いが悲しくなる。

「どうしたの?」

「ううん。美味しくできたかなーって気になったの」

 要はぐるっと食卓を見回して、

「どれも美味しいよ。由芽は絶対、いいお嫁さんになるよ」

と言われて、リアクションに困る。要も気まずい顔をして、沈黙が二人の間に見えない壁を作る。

「……昨日は、外泊してごめん」

「また学校に泊まったんでしょう? もう寒いから風邪ひくよ」

と白々しい会話をする。

「眠いから」と言って、要はすぐに寝てしまった。

 自分に言い訳はいくらでもできた。自分を誤魔化すのは簡単だ。要はきっと飲みに行って、泊まりになるのがわかっていたから学校近くのあの銭湯に行ったんだ。そこで知らない香りのシャンプーを使い、学校か、あるいは誰か友だちの部屋に泊まったに違いない。

――そうに決まってる。まだ十四日、十四日もあるんだもん。二週間は、きっと長い。

 わたしは布団に入っても、要が大島さんと寝てきたのかと思うと、知らない人と布団に入っているようで落ち着かない気持ちになった。そっと寄り添って、今日はいつも通りの香りであることを確かめて眠りについた。


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