十二日前(要)
「バイトに行ってくるよ」
「……ふぅん、行ってらっしゃい」
明らかな嘘に由芽の目も疑いでいっぱいになっている。日曜日の昼間に突然、バイトなんて入るわけがないし、おまけに今日は「思い出作り」の日だ。《そこ》に行くのは間違っている、と心は叫んでいた。
けれど頭の中では、彼女の機嫌を損ねて捨てられてしまうのはごめんだ、という考えが拭いされずにこびりついていた。
大丈夫、少し玲香につき合って、早めに戻ればいい。由芽だって昨日の今日で出かけるのは無理だろう。何しろ外出すること自体、由芽には難しいのだから。
『待ってる。お昼までにはうちに来て』
玲香からのメッセージに気がついたのは十時過ぎだった。昨日はテーマパークから帰ってどちらもシャワーを浴びると、由芽を抱くか、そうするべきではないか、迷うこともなく二人して眠りに落ちた。そうしてこんこんと寝ていたわけだ。
今となっては《行き慣れた》ひとつ先の駅の玲香の部屋に向かう。オレたちの部屋とは違い、広くて、新しい。噂では玲香の父親は社会的に上の人で、つまりやっぱりオレには彼女は分不相応に違いない。「お嬢様」のお戯れの相手なんだ。いつかは捨てられてしまう。いわば使い捨ての存在だ。
それがわかっていて彼女の元に向かう。もう一人の彼女との約束を反故にして。
「要、遅い」
「仕方ないじゃん、突然だったし。ていうか、名前で呼ばないでって頼んだでしょう? 『十七日』過ぎるまでは……」
玄関の壁にもたれていたガウン姿の彼女が、オレが靴を脱ぐのを見計らって唇を盗んでくる。
「わかってる、『森下くん』。まぁ、あと二週間よね。わたし、こんなに放っておかれるのやだな。ひとりは嫌……」
首に腕を回して抱きついてくる。彼女の柔らかい胸がバスローブ越しに当たる。早く素肌を重ねたい気持ちになる。
「ふふ、とりあえずシャワー浴びたら? お昼、美味しいもの、用意してあるから」
シャワーを浴びながらこの後のことを考える。今日はどうやったら彼女を出し抜けるだろう? 彼女がいつも通り、《《奴隷役》》だとしても、狡猾な人だ。オレの足元をかいくぐってすぐにするりと逃げようと目論んでいる。
料理ができない《《オレの彼女》》は、買ってきたオシャレな惣菜たち、例えばスモークサーモンや生ハム、オリーブなんかが入ったものと、高そうなフランスパン、スムージーを用意してあった。さすがにスムージーは手作りで、シャワーから上がったときにジューサーの回る音が聞こえた。
「早く座って」
と、頬杖をついて彼女は楽しそうに食卓でオレを待っていた。
「好き? こういうの」
「美味しそうだね、オリーブ、特に好きなんだよ」
「よかった。種なしのやつよ。……汐見さんが料理が得意だって誰かに聞いたから」
彼女はふと目を逸らした。
残念ながら由芽の食卓にはこういう惣菜はほとんど乗らない。由芽は基本、和食派だし、手作りが基本だから。
でも、できないながらもオレのために努力はしてくれた玲香を「かわいい」と思う。この、プライドの塊みたいな人が、オレのために嫉妬するなんてゾクゾクする。
彼女の手を向かいの席からそっと取って、
「ありがとう、うれしいよ」
と軽く口をつける。白魚のような、という形容にぴったりな長くて細い、白い指がオレの手元にある。他の誰かではなく。
「玲香……」
彼女の背骨のラインの反りに沿ってキスをする。玲香が「あっ……」と声を上げる。その声にまた引き寄せられる。上になり、下になり、転がってもつれ合って、絡み合う。
今日はこれで何度目だろう?
オレが「食われている」のか、玲香を「食っている」のかまるでわからない。ただ、逃したくない一心で捕まえて、離さない。
「要……ベッドの中くらい、いいでしょ?要……」
「玲香……」
これ以上はないくらい深く口づける。唾液と唾液が溶け合って二人が一人になるような錯覚に陥る。
「ねぇ……お願い、聞いてくれる?」
「どんな?」
息も切れ切れになった頃、オレの下にいた彼女はオレ同様に息を切らして甘えてくる。
「帰らないで……」
誰にも見せない表情でおねだりをされることに優越感を感じる。
「でもさ、『十七日目』までは……」
「わかってるから黙って。それで、わたしを抱きしめて。壊れるまで抱かれたいの」
「じゃあ朝までなら」
朝まで? 由芽は朝まで、その長い時間をあの部屋で一人で過ごす。……いや、ここに今日、来てしまったことがすでに「手遅れ」なんだ。由芽のことを気遣うなんてどうかしてる。もう、十分に傷つけているし、これ以上もこれ以下もないだろう。
玲香がシャンパンを持って現れる。クリスマスじゃなくてもシャンパンが出てきた。
「すごく遅くなっちゃったけど……これからのわたしたちに乾杯」
由芽が遠ざかる。
ビールをちびちびやる生活は遠ざかって、とろりとした蜜のようなシャンパンを飲み干す。
「美味しいでしょう?」
「すごく飲みやすい」
「気に入ってくれてよかった」
飲みすぎないうちにね、とオレたちにはとても近づけないような静かな佇まいのイタリアンのお店に行く。
「ここは奢らせて? 今日は無理に誘ってしまったから」
「玲香、そんなこと気にしてたらこれから続かないよ」
「何が?」
「その……」
玲香は意地悪そうにふふっと笑った。
「そうね、たまににしておく。要が気にするならわたしが高そうなところを止めればいいし。……続かないなんて、だから言わないで?」
意地悪なお嬢様は小賢しくオレを縛りつける。彼女から、少しでも離れたくなくなる。こんな風に熱病のように夢中になるなんて、「長続きしない」と心の中でわかってる。彼女は口ではああ言っているけど、オレの、代わりなんてごまんといる。
食事から帰って、また気の抜けたシャンパンを飲む。気が抜けても高いシャンパンはやはり蜜のように喉を滑り、その味わいは玲香を思わせる。
「もう炭酸抜けてるのに、そんなに美味しい?」
「玲香はこれが好きなんじゃないの?」
「うーん、正直なところ、発泡してるのは好きじゃないの。フランスワインの方が好き」
「シャンパンもフランスでしょ?」
玲香はふふっと笑った。
「そう、確かにその通り。でもアルコール度数が全然違うの。酔って、酔って、わけがわからなくなるくらい酔いたいから」
グラスは置いて、とオレの手からグラスを奪って巧妙に仕掛けてくる。彼女は体のラインが見える黒いワンピースを着ていた。その背中のファスナーを器用に下ろして、黒のストッキングを滑るように脱ぐ。
「脱がせて」
と腕を差し出してワンピースを脱がせるように促す。オレは彼女の腕に、指先から辿るようにキスを連ねる。バレリーナのように細くて長い腕が、その度にオレのものになっていく。
悪いことなのか ?
玲香と朝を迎えるこれからの日々を想像する……。並んで歩いて……それから、何をするんだろう? ベッドに入ることしか想像できない自分に困惑する。玲香のために由芽を捨てるのに、玲香のことを何も知らない自分に驚く。
「要? 何を考えてるのか教えて?」
片手だけがワンピースから抜け出した格好のまま、玲香が唇を寄せる。吸い寄せられるように唇を薄く開けてそれを受け入れる。
いけないことなんて、何もない。ただ、彼女を抱いていたいだけだ。その権利を手に入れたんだから。
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