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17日後  作者: 月波結
13/35

五日前(由芽)

「おはよう」

 朝、目が覚めると当たり前のように要がそこにいた。今朝は久しぶりにベッドの中が少し窮屈だ。

「おはよう……」

 昨日、求めあって抱かれたことを思い出して恥ずかしくなる。わたしの赤い顔を見て、彼はやさしく微笑む。顔のわきにかかった髪を、要の長い指がわたしの耳にかけてくれる。そのまま髪を撫でられて、これは夢じゃないかと錯覚する。胸がいっぱいで、あふれた分だけため息が出る。

「本物の要?」

「本物だよ。本物の由芽?」

「もちろん本物だよ」

 真冬の寒い中、布団の中、一糸まとわぬ姿で、わたしたちはしあわせそうな恋人たちのようにキスをした。


 起きてみると、ベッドの隅に畳んで並べたままだったわたしの服は、雪崩のように床に投げ出されていて「エントロピーの増大だね」と彼は言ってわたしを笑わせた。

 彼が昨日の約束通りゴミ出しをしてくれて、わたしはその間、忘れられていた生姜焼きと味噌汁を温めて朝ご飯の用意をした。すべてが別れを切り出される前と変わらず、「平穏」と言える朝だった。

「せっかく作ったのに、食べ忘れるなんておかしいよなぁ。由芽に食べてほしかったのに」

「結局こうしてわたしの中に吸収されてるんだからいいんだよ」

「美味しい? 『生姜焼きの素』」

「美味しい。今まで熱心に生姜をすりおろしていたのがバカに思えるくらい」

「……もう、すりおろさないの?」

「心配しなくても、まだすりおろすと思うよ」

 ふふっと笑った。要が大げさに「よかった」と言った。でもたぶん、この五日間の間にはもう生姜焼きを作ることはないだろうし、次に作るときに要はいないんだろう。そういうことのひとつひとつを、静かに受け入れていく。彼のふんわりした微笑みが、逆にわたしに別れを受け入れさせる。


「わたしが本当はこんなにバカで、だらしない人間だって知って幻滅しなかった? もしもまだ別れ話が出る前に知ってしまっていたら、それでも好きでいてくれた?」

「……由芽はなんでも完璧なんだから、これくらいでちょうどいいんだよ。いつだってオレに見えないところで努力してくれてたんだなぁって、昨日、初めてそう思った。部屋はいつもキレイに片づいていて、毎日美味しいご飯が出てくる……。部屋で一生懸命、レポートに追われてることだって少ないし。それが当たり前だと思って、オレはその上に胡坐をかいてたんだ。だから、由芽はもっと肩の力を抜いて、自分のために時間を使ってよ」

 自分が完璧に何かをこなそうとしているなんて、そんなこと、考えたことがなかった。わたしは美人でもなければ特に優れたところもない、つまらない女だ。だから、要のために家事をこなすことくらいしかできなかった。

 でもこれからは「自分のための時間」が嫌ってほどできるだろう。

「わたしが完璧なんて」

「だってオレに弱いところをほとんど見せないじゃん」

 彼からそんな風に思われていたことに、心の中で驚く。


 テーブルに置かれた指に、要の指が重ねられる。

 ふっと顔を上げて彼を見る。

「もっと甘えていいんだよ。むしろ、もっと甘えて」

 そのままぐいと引っ張られて彼のメトロノームに似た規則正しい、強い鼓動を耳にする。

「あのね」

 聞くのが怖くて、今まで聞けなかった。

「わたしのセックスじゃ、ダメだった?」

「気にしてるの?」

「それは……それがいちばんの理由だったみたいだから」

 要の手はわたしを離さないというようにぎゅっと力を込めてわたしを抱きしめた。

「難しいな……。彼女はそもそもオレたちと考え方が違うんだよ。彼女にとってセックスは楽しい遊びで、毎日の刺激なんだ。でも、オレたちは違うだろ? 由芽は初めてだったから、オレたちはオレたちのセックスを作ったじゃん。それは、根本的に比べようがないから」

 わたしは手近なところにあったクッションをつかむと、要に向かって不器用に何度もたたきつけた。それがもし鈍器だったら、要は死んでしまうくらいの勢いだったのに、彼はほとんど避けなかった。

「『遊び』とか『刺激』とか。そんなんでこんな思いさせられて……。『好き』って気持ちは、どこに行ったらいいの?」

 彼の手はそっとわたしの後頭部を撫でると、自分の腕の中にわたしをそっとしまった。

「由芽、明日の月曜日から十七日目まで、あと五日、学校休んじゃおうか?」

「……どうして?」

「由芽とふたりっきりの時間が欲しいんだ。あと五日、もう一度、ふたりの二年間を見直したい」


 真正面からキスをする。初めてしたキスみたいに、ちょっと緊張して、ちょっと期待して。

 その後、甘くて蕩けそうな恋人たちのキスをする。頭の中がチョコレートになりそうだ。

「一度だけ、本気で抱いてもいい? エントロピーはまた増大するかもしれないけど」

 その冗談に、わたしは笑うに笑えず、ただ彼の顔をじっと見た。要もわたしを心配するように見て、その顔には微笑みひとつ浮かんでいなかった。

「……本当のことを言うと、ずっと由芽を男として本気で抱きたかった。由芽をオレの好きに(・・・)してみたかった。でも、由芽のこと大事にしたかったし、傷つけたくなかったんだよ」

「わたしを……?」

「そう、オレの彼女を」

 すぐに答えられなくて、しばらくの間、ふたりの間には沈黙が横たわった。頭は空回りして、何から考えていいのかわからなかった。

「要がそうしたいならそうしてほしい。もしそうしてもらえたら……うれしい」


「怖がらないで、オレはオレのままだから」

 さっきの蕩けるようなキスの続きから始まって、強く求められるキスに変わる。彼は貪欲にわたしを欲して、いつもならわたしがこの辺で怖気づいてしまうのだけど、今日はそういうわけにはいかなかった。わたしも彼が欲しかった。絡まって、解けて、追って、追われて……キスひとつでわたしはうっとりしてしまった。

「大丈夫?」

 潤んだ視界の向こうに要が見える。

「まだ怖くない? 大丈夫……?」

「要が、欲しいの。もっと続けて……」

 要は5日後には大島さんの許に行ってしまうんだろう。こんなことをして繋ぎとめられるほど、わたしは特別な女じゃない。でも、今は要がくれる全部を受け取りたいと思った。

「怖くなったら、言って」

 すでに息が上がって、満足に返事もできない。そうしたいわけじゃないのに、意味もなく声が漏れる。

「声、出ちゃうのが嫌なら、オレの指、噛んでもいいよ」

 口の中に彼の指が入ってくる。口の中を触られるのは最高に恥ずかしかった。

「でも、オレ、由芽の声好きだけど。いつも我慢してるでしょう?」

 だってそんなの、はしたなくて、嫌われてしまうかもとずっと思っていた。……わたしたちの気持ちは、セックスひとつでもすでにすれ違っていたんだ。


 その後は、求めて、求められて、受け入れて、何もかも隠さずに開いて、追いかけられても逃げ場はなくて捕まえられて抱きしめられた……。彼は無理やり何かを強要したり、絶対しなかった。わたしは要の求めに応じたいと思いながら、その流れのままに身を任せていた。

 吐く息が次第にどんどん苦しくなって、要も苦しそうで、頭がおかしくなりそうなほど、彼のことだけに没頭する。わたしのすべてが要のためにあって、すべてを要に預けた。

「……ごめん、余裕ない」

 2年間でいちばん、彼に近づいたときだった。わたしたちは確かに繋がって、間違いじゃなければ体も心も繋がった。




「体、大丈夫? 痛いところない?」

「うん、あっても大丈夫……」

「それ、大丈夫って言わないだろ」

「だって……」

 わたしの心の中は何度も彼と繋がったことでの充足感でいっぱいだった。知らなかったことをいっぱい知って、それを教えてくれた彼に寄り添う。前に秋穂ちゃんが話してくれたことはこういうことなんだなぁと思う。要が「大丈夫」だと言えば安心だったし、その先に進むこともできた。

 わたしの中は、要でいっぱいだった。

「あのね、要がすき」

「知ってるよ」

「……要は?」

「由芽がオレのものになって、すごくうれしいんだけど……気持ちよかった?」

「すごくよかった、って言ったらはしたない?」

 わたしたちは何も言わずに見つめ合った。要の目は真っ直ぐにわたしに向けられていた。

「男にとって、好きな女の子を満足させられるのはすごく光栄なことなんだよ、うれしい」

 一瞬、ここにはいない人の顔がよぎったけれど、その人のことは今は忘れることにした。とにかくわたしは今、要の腕の中に確かにいる。

「ずっとずっと要のものだったし、いつも繋がれればそれで満足してたよ」

「そういう意味じゃなくて、だよ」

 ぎゅっと鼻をつままれる。要は大きな声で笑った。



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