受付嬢の休息
受付嬢の仕事は、いつまでたっても慣れない。
仕事からの帰り道、ルーナは人気のない商店街を歩きながらそんなことを思う。
営業スマイルによる精神面はもちろんのこと、起きた問題に対し即座に対応していく体力面、ともに疲弊が激しい仕事だ。
特に、今の職場である冒険者ギルドに勤めてから、ルーナはもう五年ほどの時が経ってしまった。
後輩という存在が増え、先輩としての責務は年々重みを増していく。
ルーナは重たい足で歩きながら、無意識に出てくるため息を何度も何度もこぼしていた。
それにしても。
「あんのチョビ髭貴族ぅう! な~にが『たかだか冒険者に払う金はない。雇われるだけありがたいと思え』よ! ギルドだけじゃなく、冒険者を何だと思ってんのかしら!?」
机があれば叩き割りそうな、怒りのこもった声でルーナは叫んだ。いつもは穏やかな黄色い瞳は、憤怒の色で燃えている。
(いけない、思ったより大きな声出ちゃった……)
流石に人気がないとはいえ、夜道に怒声が響いては何事かと思われかねない。
ルーナは我に返って、速足で通りを進んでいった。
――そんな、ストレス真っただ中のルーナではあるが。ルーナには一つ、ある楽しみがあった。
赤い屋根が目印の、商店街にある店。
冒険者からの噂を聞きつけ、通うようになってから早二週間。
その店を訪れることこそが、ルーナにとっての楽しみの瞬間である。
「エルキアちゃ~ん、こんばんは~」
カランカランと扉が鳴って、入店とともにルーナが言う。
その音に反応した人物は、エルキアと呼ばれたウエイトレスの少女と、普段は表に出てこない、店主の二人だった。
「ルーナさん、いらっしゃい。来てくれたんだ!」
「いらっしゃいませ」
「あれ、店長もいらしたのね。夜遅くにごめんなさい。お店、まだ平気?」
「ええ、もちろん」
「メニューとお水、すぐお持ちしますね!」
入店早々、テキパキと動き出すエルキアに対し、ルーナは「ありがとう」とだけ告げると、誰もいない店内の一番奥の席。角席へと腰を下ろした。
店全体が見渡せて、隣には壁。どの席よりも落ち着くこの場所が、ルーナのお気に入りの席だった。
「はい、こちらメニューと、お水になります」
「ありがとう。……と言っても、今日はちょっと遅くなっちゃったし、軽く食べるだけにしておこうかな」
「そういえばそうだね。お仕事、終わるの遅かった?」
「うん、まぁ」
ルーナはメニューをめくりながら、今日あった出来事をポツポツと語る。
自分勝手な貴族が来て、若い茶髪の癖毛が目立つ冒険者がルーナのことを庇ったところ、大喧嘩にまで発展したこと。
それらを事細かに話している間、エルキアと一緒になって話を聞いていた店主は、終始哀れみの色を宿した目でルーナを見ていた。
「で、結局、怒った貴族は帰って行ったけど。こっちは今後同じことが起きないよう、夜遅くまで対策会議って感じ」
「それは大変でしたね」
「その、チョビ髭貴族さんと若い冒険者さん、よく喧嘩だけで済みましたね。ルーナさん、言い合いに巻き込まれたりしてない?」
「ええ。本当は貴族側が騎士団に突き出してやるって騒いでたんだけど、熟練の冒険者さんがそれをなだめてくれてね。何とか大事にはならなくてすんだわ」
はぁ、とため息をつきながら、思わず机に伸びてしまいたくなる。
ルーナはぐっとそれをこらえて、改めてメニューに目を通した。
すると、必然的に鳴り響くのは、空腹による音色だ。
「うぅ……。お腹いっぱい食べたい……。でも、最近仕事場の制服きついから、ちょっと我慢しなくちゃ……」
「ここのデザート、美味しいからね。つい食べすぎちゃうのはわかります」
エルキアの同意する声を聞きながら、ルーナはどうしたものかと頭を悩ませる。
甘くて、でも甘さ控えめで。身体にも気を使ってるような、健康的なデザートはないか。
……いや、デザートを食べるにあたって、これらを要望するのは傲慢と言えるか。
「もしよろしければ、今からなにか、特別にお作りしましょうか?」
「え、い、いいの?」
ふいにかけられた店主の言葉に、ルーナはパッと顔を上げた。
微笑みを浮かべる店主は「もちろん」と頼もしく頷いて見せる。
「えっと……じゃあ、その。甘さ控えめで、身体にも気を使った、健康的なデザート、とか」
「甘さ控えめで、体に気を使った健康的なデザート……」
「うーん。なにかありますかね」
復唱し、考えるように腕を組む店主にならって、エルキアも腕を組んで考え込む。
やはり無茶を言ってしまったか、と慌てて取り消そうと口を開いたルーナだが、それよりも早く、ひらめいたような店主が「あっ」と小さく声を上げた。
「今、ちょうど豆腐があるので、それを使ってちょっと作ってみます」
「と、とうふ? というか、え、作れるの?」
「はい。焼く時間があるので、少し時間はかかりますが、よろしいですか?」
「も、もちろんよ!」
とうふ、と言った食べ物は聞いたことがなかったが、まさか要望が通るとは思っていなかったルーナは笑顔のままに頷いた。
店主は速足にホールを去って、店の奥へと消えていく。
取り残されたエルキアは、未だ頭を悩ませているようだった。
「店長、なにを作るつもりなんでしょうね?」
「さぁ……」
もう思いつかないと諦めたのか、エルキアは組んでいた腕を解いて、暇を持て余したように台拭きで他の机を拭いていく。
手持ち無沙汰となったルーナも、ゆったりとしたこの時間を満喫することにした。
しばらくして、普段から甘い店内が、さらに香りを増し始めた。
おそらく、店主が菓子を焼き始めたのだろう。
ルーナは落ち着かない気持ちをなだめながら、完成の時を待った。
「大変お待たせいたしました。こちら、焼きドーナツになります」
「焼き、ドーナツ?」
「え? 店長、ドーナツって、あのまん丸いドーナツですか?」
首を傾げるルーナの前に、店主がそっと皿を置いた。
その見た目は、確かに、丸い。
丸い、リングのような形状をした、黄色い生地のなにか。
以前食べたパンケーキの断面とも似た色だが、形だけ見るとかなりかけ離れた存在に思える。
しかし、なんだろう。
同じ輪っかが二つ並んでいるさまは、どこか可愛らしい雰囲気がある。
「これは、どうやって食べるの?」
「素手でそのまま持ってもらって、ぱくりと行っちゃってください」
「素手……」
ナイフとフォークで切るような、上品な真似は必要ないということか。
ルーナは言われるままにドーナツを手に取って、まだほんのりと暖かいそれをぱくりと頬張った。
ふわり。
香りを放ったのはミルクと、ハチミツに似たなにか。
しっとりとした、ほんのりと暖かい生地は、柔らかくもありながらもちもちとした弾力。これは、パンケーキとは別物の生地だ。
お腹にもしっかり溜まる感覚に、ルーナの空腹が満たされるのがわかった。
甘さ控えめで、でも確かにちゃんと甘い。深みのある甘さ。
「おいしい! これ、本当においしい! 甘さもちゃんと控え目で、何個でも食べれそうっ」
リングの形をしているおかげで、持ち手にも困らない。変わった形だと思ったが、これは食べやすい。
「気に入ってもらえてよかったです。よければ、ホットミルクも淹れたのでどうぞ。サービスです」
「え、い、いいの?」
「はい。あ、でも、食べすぎては元も子もないので、ちゃんと注意してくださいね」
「う、はい」
にこにこと笑う店主に、ルーナははしゃいでしまった恥ずかしさから顔に熱が集まるのを感じた。
置かれたカップには真っ白なミルクが湯気を立て、とても暖かそうだ。
ルーナはコップを手に取って、ドーナツで乾いた口に少しミルクを流し込む。
「暖かい……」
それに、焼きドーナツとの相性もいい。
口に入れた途端、卵の風味とミルクが混ざって、程よい甘さを与えてくれる。
ホッ。と一息。
ルーナはホットミルクに癒された。
そんな様子を見ながら、首を傾げているのはエルキアだった。
「店長、ドーナツって確か、油であげるものですよね……? その、食べてしまった手前言いにくいんですけど、これって……」
「ああ。だから『焼き』ドーナツなんだよ」
ドーナツを頬張るルーナと、エルキアが首を傾げたのは、ほぼ同時だった。
「本来ドーナツって言うのは、エルキアちゃんの言う通り油であげて作るもの。でも、今回の焼きドーナツは、そんな油を回避するために、オーブンで焼いて作るドーナツなんだ」
「へぇ。それって、普段お店では出さないんですか?」
「うーん、出しても構わないけど、品数がまた増えちゃうなぁ……」
他愛無い会話を見守りながら、ルーナは二つ目のドーナツの、最後の一口を口に放った。
皿の上のドーナツは、一つ残らず消えていた。
となれば、後はホットミルクで、最後の最後まで癒しを堪能するだけだ。
「はぁ、美味しかったぁ。あっという間に食べちゃった」
ホットミルクを飲み終えて、カップを置いたルーナがうっとりとこぼす。
「幸せになれました?」
「え? ええ、とっても。わがまま言ってごめんなさいね」
「いえいえ。またお作りしますから、その時は声をかけてくださいね」
「もちろん、そうさせてもらうわ」
皿を片付けるエルキアに礼を言って、立ち上がったルーナは店主に勘定を渡した。
「あ。そういえば、さっき言ってた『とうふ』ってなんのこと?」
「豆腐は材料の名前です。栄養価が高くて、色んな効果を持ってるんですよ」
「効果?」
「はい。満腹感を与えてくれる食品なので、食べ過ぎ防止になったり、身体に必要な栄養をたくさん持ってたり」
「そんな効力を持った食べ物があるのね!?」
聞いたことのない食べ物だと思ったが、そんな効果があるなんて。
店主が元々住んでいた国のものだろうか。
「なんにせよ美味しかったわ。ごちそうさま、また来るわね」
「はい! お待ちしております!」
「ありがとうございました」
手を振るエルキアと、微笑む店主にルーナも笑って、小さく手を振ったあと店を出ていく。
夜風がさっと肌を撫でて、少しだけ肌寒さを感じさせた。
ルーナは帰路を歩きながら、大きく背伸びをして見せた。
「よ~し。明日からまた頑張ろっ」
そう、今度は小さく呟いて、軽くなった足を前へ前へと進めていった。