先生と私
公園の横の道を私は足早に歩いた。もう小学生は家に帰る時間らしくて、夕日で染まる公園には誰もいない。
初めて見たときには満開だった桜も、すっかり葉桜だった。
私の通う進学塾は公園のすぐ先にある。
塾に入ると、教室は生徒たちの声でざわついていた。今日は吹奏楽部の練習で遅くなったけれど、間に合ってよかった、と思う。
入ってすぐのところに貼り出してある座席表から「内村透華」を探す。私の席は前回と同じだった。
席へ行くと隣の子はもう来ていた。クラスは違うけれど同じ中学、学年の相沢優里さんだ。学校ではほとんど話したことはない。
「こんにちは」
私が小声で挨拶すると、彼女は手にしたスマートフォンから顔を上げてうなずいた。
中学の二年になってから始めた塾。私は英語の成績が思ったほど伸びなくて、まずは英語だけ、週に二日、受講していた。
まわりの友達も次々に塾通いを始めて、なんとなく取り残されそうな気がした、というのも理由のひとつだった。
私が選んだ塾は中学からあまり離れていないので、優里さんのように同じ中学の子も多かった。
私が席に座り鞄から勉強道具を取り出すと、ちょうどチャイムが鳴った。
教室が静かになっていく。
控室から講師の先生たちが教室に入ってきた。
この塾では生徒ふたりに対して先生ひとりがつく。個別指導ということで、先生は学年のあいだ、ずっと同じだ。
私と優里さんのところに来たのは、大久保先生。上着は着ていなくてワイシャツにネクタイだ。
髪は短め。お父さんよりずっとやせていて、すこし背が高い。もし私と横に並んだら、二十センチ以上高いんじゃないかな。
「こんにちは、相沢さん、内村さん」
先生は私たちに、にこっと微笑んだ。
そうするとキリッとした先生の顔はとたんに優しい感じになる。
初めての塾で、どんな授業になるのか私は不安だった。
でも、最初の授業にあらわれた男性――大人の男性の年齢はよくわからないけれど、たぶん二十歳くらい――は親しみやすそうで、私はほっとしたのだった。
第一印象は裏切られなくて、先生の授業は学校よりもずっとわかりやすかった。
「よろしくおねがいします」と私は頭を下げる。
「よろしく、先生」
優里さんはまるで友達に話すように言った。
「内村さんは先にテキストを進めてください。相沢さんは、宿題を見てみましょう」
大久保先生はキャスター付きの丸椅子に腰を下ろし、優里さんのほうについっと移動した。
「えーと、宿題は助動詞についてでしたね……」
先生はそう言いながらバッグからテキストや辞書を取り出す。
バッグはシンプルなトートバッグで、白地に黒で、大きく音符の柄が描かれていた。
もしかして、先生、音楽に興味があるのかな。
私は小学校のあいだピアノを習っていた。中学進学と同時にやめたけれど、部活は吹奏楽部を選んだ。曲を聴くのも、演奏するのも好きだった。
「お待たせしました、内村さん」
優里さんとの話を終えて先生が椅子ごと、私の隣にやってきた。
私はあわててテキストに顔を落として、なにも見ていなかったふりをした。
先生は私と優里さんのあいだを行ったり来たりして、授業を進めた。
一時間は、あっという間だった。
授業の終了を告げるチャイムが鳴る。
「では、次もよろしくお願いします」
「ありがとうございました」
私は先生にお辞儀をした。
教室にざわめきが戻ってきた。先生たちは全員がすぐに戻るわけではなくて、何人かは生徒たちと雑談をしていた。
学校の授業のことだったり、ぜんぜん関係ないことだったり。
塾に来て驚いたことのひとつに、生徒と先生の距離が学校よりもずっと近いことがあった。
大久保先生も優里さんとなにか話している。
でも、授業についてならともかく、私には雑談なんてできそうもなかった。
最初の授業でバッグの柄には気づいていたけれど、もし関係なかったらって思うと不安だった。変なことを言ってしまって、やっぱり子供だなって思われるのも嫌だった。
「失礼します」
私が言うと先生は振り返った。
「はい、内村さん。気を付けて」
私は先生に頭を下げて教室をあとにした。
・
翌日の放課後、私は部活のために音楽室へ向かった。
「あ、透華ちゃん」
「紗奈ちゃん」
入り口の前で、ばったり隣のクラスの近江紗奈ちゃんに出会った。
去年は同じクラスだった紗奈ちゃん。同じ吹奏楽部でクラスでも一番の仲良しだったので、二年で同じクラスになれなかったのは残念だった。
音楽室に入ると、部員は半分くらい来ているようだった。
ふたりで音楽準備室に楽器を取りに行く。
私が担当するのはユーフォニアムという金管楽器だ。
トランペットやトロンボーンの仲間だけれど、音はずっと地味だ。入部直後のくじ引きでユーフォに決まったときにはちょっと落胆したけれど、演奏してみると音に深みがあって、思ったよりも繊細で、私は気に入っていた。
最近、吹奏楽部を舞台にしたアニメが放送されて、すこしだけ有名になったのも嬉しかった。
ただ、とても重いのだけは苦労していた。
紗奈ちゃんは木管のフルート。木管というけれど金属製だ。
ボブのストレート、前髪はパッツンという地味な髪型の私に対して、紗奈ちゃんはショートカットで活動的、いつも明るかった。
外見だけじゃなくて音もキラキラと輝いているフルートは、ぴったりだと思う。
今日はパート練習ではなくて合奏の日で、私たちは部員がそろうまで音楽室で待った。
昼間に会えないぶん、私たちのおしゃべりは弾んだ。
「そういえば透華ちゃん、塾はどんな感じ?」
私が塾に通い始めたってことは、紗奈ちゃんに話してあった。
「私もそろそろ、行かないとやばいかなって思ってるんだよね」
「うん、悪くないよ」
私は昨日のことを思い出しながら話す。
「わからないところは、きちんと説明してくれるし。先生も話しやすくて……気軽になんでも聞ける、って感じかな」
「へえ。透華ちゃんがそういうなら、よさそうだね」
「それってどういう意味?」
私は冗談めかして聞いた。
「あ、ごめんごめん。ほら、透華ちゃんってわりと引っ込み思案じゃない? だから、本当にいい雰囲気なんだなって」
「そうね……でも、先生にもよるのかも」
私はフォローしておく。もし紗奈ちゃんが塾に行って、大久保先生みたいじゃない先生に当たって、幻滅してしまったら悪い。
音楽室の扉が開く音がして私たちは視線を向ける。
三年生の男子、部長の染谷先輩だった。
紗奈ちゃんの顔がぱっと明るくなるのがわかった。
紗奈ちゃんからは、先月、部長のことが好きだ、と相談されていた。
二学期になって三年生が引退するまでに、なんとか告白したいんだって、紗奈ちゃんは話した。
私はきっとうまく行くよ、と答えた。
具体的にどうすればいいのかはわからないけれど、紗奈ちゃんの恋を応援するつもりだった。
私は紗奈ちゃんにひとこと言って、自分のパートの席に移る。
紗奈ちゃんの目が、染谷先輩を追いかけているのがわかった。
すこしだけ頬を赤らめた紗奈ちゃんは可愛かった。これが恋する女の子なのかなって思う。
それにくらべると私は――たしかに紗奈ちゃんのいう通りだ。
私は、教室でも必要最小限の連絡以外、男子に話しかけたこともない。
恋についても、三年の染谷先輩たちは格好いいと思うけれど、それは男の先輩も女の先輩も同じで、恋愛感情なんて想像もできなかった。
手元のユーフォが急に重く感じられた。大人しい私には、地味なユーフォは似合ってるのかもしれなかった。
・
次の金曜日。部活のあと、私は塾に行った。しっかりと宿題もやった。
教室の席はまた前回と同じだった。
「先に、内村さんの宿題を確認しますね」
先生は私の隣に来て、私が机の上に出した問題集を手に取った。
さわやかな、海を思わせる香りがして、私はドキッとする。クラスの男子や部活の先輩からも、そんな経験はなかった。
はっと気づくと先生が問題集の向きをくるりと変えたところだった。
「……いいですね。よくできています」
問題集を私のほうに差し出す先生。にこっと笑う。
私はとたんになぜか恥ずかしくなり、目を伏せてしまった。
授業はいつも通りに進んだ。
チャイムが鳴り、私は授業が終わってしまったことを残念に思う。
「次もよろしくお願いします」
「ありがとうございました」
「はい、先生」
いつもの先生の挨拶に、私と優里さんは答えた。
優里さんは髪をうしろでひとつ結びにした、長身ではきはきと話す子だった。成績もたしか私よりもずっと良かったと思う。
優里さんは続けた。
「先生のバッグ、面白い柄だよね。音符でしょ」
「あ、気づきましたか。わりと気に入ってるんです」
「ちょっと可愛いかも。先生ってさ、音楽が趣味なの?」
優里さんの言葉に大久保先生は笑う。
「ええ、まあ、そうですね」
「へえ。私も曲を聴くの、大好きなんだ」
私はそれ以上聞いていられなくて、席を立った。
「失礼します」
先生はいつものように、気を付けて、と声をかけてくれた。私は無言で頭を下げて、ふたりに背中を向けた。
先生が音楽に興味がある、ってわかったのは嬉しかった。でも、私のほうが先に気づいていたのに。私は話しかけられなかった。
合計での嬉しさは、ずいぶんマイナスみたいだった。
・
ゴールデンウイークも終わって、しばらくあとの週末。
私は紗奈ちゃんと一緒に、市の中心部に買い物に来ていた。私の住む市は都心からはすこし離れているけれど、駅には急行も止まるし、大学のキャンパスもあってそれなりに賑やかだ。
途中、大きなビルの前を通りがかったとき、紗奈ちゃんが話した。
「あれ、透華ちゃん。なにか聞こえない?」
私たちは立ち止まり、耳を澄ませた。たしかになにかメロディが聞こえてくる。ビルのなかから、らしい。
「行ってみよう!」
紗奈ちゃんが言って、私はうなずいた。
ビルの入り口の自動扉をくぐると、とたんに音が大きくなった。
店のあいだの通路を抜けて音がするほうへ。ビルの中央は一階から二階まで吹き抜けになったホールだった。その一角に人垣があって、音はそこから聞こえていた。
近くには看板が立ててある。それによると地元の有志バンドによる休日ミニコンサートらしい。
紗奈ちゃんとふたりで人垣の一番外側へ加わると、ちょうど演奏が終わってバンドのメンバーが頭を下げたところだった。
終わっちゃうのかなと私が思ったとき、ステージ脇にいた女性がアナウンスした。
「ありがとうございました。続きまして……」
次のバンドが案内されて、五人の男女があらわれた。
エレキギター、ベース、ドラムにキーボード。キーボードは女性だ。そして五人目の男性は管楽器を手にしていた。
「では、よろしくお願いします」
アナウンスの声にバンドメンバーがお辞儀をした。
「あれ、もしかして……」
私は思わずつぶやいた。
最後の男性。スマートな体に白いジャケットがぴったり決まっていた。今日はネクタイは締めていないけれど、間違いない。大久保先生だった。
ドラムが拍子を刻み、ギターとベースが続いた。イントロが終わると、先生がメロディを吹き始めた。
先生の持っているのは見覚えのない楽器だった。音色はサックスに似ていたけれど、それよりも透明感がある。
「透華ちゃん、知ってる人?」
「うん、塾の先生だよ」
私は意外な場所での出会いに驚いて、そしてなにより目の前の演奏に聞き入って、上の空で答えていた。
「へえ、すごく意外」
紗奈ちゃんは言ってからステージに向き直る。
「でも、素敵な演奏だね」
「そうだね、とっても」
最初の曲は聞いたことのない曲だった。ジャンルはたぶんジャズで――ゆったりとした美しい曲だった。
先生、音楽が趣味っていうだけじゃなくて、演奏もしてるんだ。
私はぽっと胸が温かくなる。
演奏は次の曲に移った。今度の曲は聞いたことがあった。
私は紗奈ちゃんと顔を見あわせて、私が先に口を開いた。
「宝島!」
「うん!」
紗奈ちゃんが満面の笑みでうなずいた。吹奏楽の定番曲だ。
私たちはまだ演奏したことがないけれど、他校の演奏会で何度か聞いたことがあった。
軽快なメロディの初夏を思わせる曲。
先生はステージの上を行ったり来たりして、バンドメンバーと目を交わしながら、楽しそうに奏でた。途中、人垣のなかの子供に手を振ったりする。
先生たちのバンドの演奏はとても上手だった。
私は曲にあわせて体を揺らす。紗奈ちゃんも足でリズムを取りながら聞いていた。
とうとう曲が終わりになって、私たちは思い切り拍手をした。
バンドメンバーは挨拶をしてから下がっていった。
「意外なところで素敵な演奏、聞けたね、透華ちゃん!」
「うん、嬉しかった!」
私たちは手を握りあった。
でも、あのようすだと先生は私に気づかなかったみたいで、それはちょっと残念だった。
人垣はゆっくりとばらばらになっていく。私たちもビルの出口へ向かった。
「透華ちゃん、あの楽器、なんだかわかった?」と紗奈ちゃん。
「私も、わからないな」
色は黒くて、クラリネットに似たサイズだけれど、端はクラリネットみたいには広がっていなかった。
「先生に会ったら、聞いておいてよ」
「うん、そうする」
今日のこと、絶対に絶対に、先生に聞くんだ! 私は強く思った。
・
次の塾は火曜日。私はその日が待ち遠しくてたまらなかった。
チャイムと同時にあらわれた大久保先生は、いつもと同じバッグを持っていた。
授業が始まって、私は早く終われ、と念じる。先生に教わる授業は楽しかったけれど、いつもよりもずっと長く感じた。
ようやくチャイムが鳴って、私はふうっと息を吐いた。
私はテキストを開いたままにして、質問があるんです、っていう風を装う。
優里さんはすこし雑談をしてから先に帰っていった。
大久保先生が、あれっていう感じで私のほうを見たのがわかった。胸がドキドキする。
テキストに視線を落とした私に先生が聞いた。
「内村さん、なにか質問でもある?」
「えっと、大丈夫です……」
がんばれ、私!
私は顔を上げた。すこし赤くなっているのが自分でもわかる。どうしてこんなに、緊張するんだろう。
「あの、先生。先生って音楽、やってるんですね」
「あ、このバッグかな?」
先生は手元のトートバッグをすこし持ち上げてみせた。
「それもあるんですけど……」
不思議そうにうなずく先生。
「あの、この前の土曜日、商店街のビルで、コンサート、してませんでしたか?」
私は一気に言った。先生はびっくりした顔をしてから、照れくさそうに笑った。
「内村さん、聞いてくれたんですか」
「はい、たまたま、通りがかって……」
「恥ずかしいですね。実は、大学の友人とバンドを組んでるんです。メンバーのひとりが、コンサートに出ないかって」
また笑う先生。ちょっとだけ恥ずかしそうだった。
「素敵な演奏でした。私、中学で、吹奏楽部で……だから、その、素敵でした」
ああ、もう、どうして言葉が出てこないんだろう。
「ありがとう。内村さんは、楽器はなにをやってるんですか」
「あ、ユーフォです」
思わず略してしまったけれど、先生にはしっかり通じた。
「ユーフォニアム。難しい楽器ですよね」
「はい! あ、でも、私、なんとか吹けるようになってきたかなって、思うんです」
私はようやく普通に話せるようになった。
私たちはそれからコンサートの話や部活の話をした。
もちろん昨日の楽器についても聞いた。
「あの楽器、なんていう楽器なんですか?」
「あ、吹奏楽やってると気になるよね」
「はい!」
「ウインドシンセサイザーっていう、マイナーな楽器なんだけど。電子楽器、ってわかるかな」
先生は今度は困ったように微笑んだ。
「キーボードとか、ですよね」
私はなんとなく知っていることを話す。
「うん、その一種なんだ。こう、息を吹き込むと音の大きさが変わって、指が音程になるんだ」
「そんな楽器、あるんですね。今度、見せてもらえますか」
「うん、機会があれば」
私の無茶なお願いに先生はうなずいた。
おしゃべりをしていた長いような短いような時間。私のほかにも生徒はまだ残っていたので、きっと数分だったのだろう。
私は道具を鞄に入れて立ち上がり、頭を下げた。
「すみません、先生を引き留めてしまって」
「ううん、大丈夫。もう遅いから、気を付けて帰ってください」
「はい、ありがとうございました」
先生の心遣いが嬉しかった。
・
翌日、部活に行って、私は紗奈ちゃんに昨日の話をした。
「先生、やっぱりバンドやってるんだって」
「へえ、すごいじゃん!」
「うん、それで、楽器についても聞いたよ」
私はがんばって説明したのだけれど、どうしても話は要領を得なくて、紗奈ちゃんはずっと首をかしげていた。
「なんかすごい楽器だってことは、わかった」
「ごめん、紗奈ちゃん。今度、調べておくから」
私がそういうと紗奈ちゃんは、あははっと笑った。
それから私は塾に行くたびに、すこしずつ大久保先生と雑談をした。一度話してしまうと、先生はすごく話しやすかった。
先生は大学二年生で、市内のキャンパスに通っていた。またときどきは夜、市内の飲食店で頼まれて演奏もしているらしい。
行きたいって言ったら、先生は「お酒も出るし、中学生には早いかな」って笑った。
パソコンでウインドシンセサイザーについても調べた。
いろいろな音を出せる楽器だっていうことはわかったけれど、やっぱり実際に触ってみたいっていう気持ちは強くなった。
中間試験は無事に終わり、私の英語の成績はすこし上がった。
・
七月に入ったある日、塾の授業が終わるとめずらしく大久保先生のほうから私に話しかけてきた。
「内村さん、このあと、すこし時間ありますか?」
「はい、大丈夫です」
「それじゃ、よかったら……」
先生に言われて私は指導室で待った。
塾には教室のほかに、先生がいる講師控室、事務室、それに面談などに使う指導室がある。
指導室はテーブルが真ん中にひとつあって、それをはさんで椅子がふたつ、向かい合わせに置かれている狭い部屋だ。
期末試験が近いから、その話かな。それとも高校受験の話? 二年生の一学期も終わるし……。
カチャリと音がして指導室の扉が開いた。大久保先生が入ってくる。
先生は肩から黒くて細長い布製の鞄をさげていた。
「先生、もしかしてそれ……」
「はい、ウインドシンセサイザーです」
やっぱり、と思う。そして先生が私との約束――ううん、約束なんかじゃないけれど、私との話を覚えてくれていたとわかって、嬉しくなった。
先生が鞄のジッパーを開けると、なかには以前見た、あの楽器が入っていた。先生は丁寧に取り出して、テーブルの上に置いた。
ちょうどクラリネットかアルトリコーダーくらいの大きさ。
まっすぐな本体は黒くてつやのあるプラスチックで、表面には銀色のキーがいくつも輝いていた。端には白いマウスピース。キーの裏側には黒いストラップがついている。
「あの、触ってもいいですか」
「もちろん、どうぞ」
私は静かに手に取る。金管でも木管でもない、不思議な感触。思ったよりも軽かった。
「意外に軽いんですね」
「さすが、吹奏楽をやってるだけありますね」
素直な感想をもらした私に、先生はにこっと微笑んだ。そして私が思ってもいなかった言葉を続ける。
「吹いてみますか、内村さん?」
私はドキッとする。吹奏楽部では楽器の共有なんて当たり前だけれど――先生の楽器を使わせてもらうなんて。
でも、私には断れなかった。
私がうなずくと、先生は鞄のポケットから慣れたようすでウェットティッシュを取り出した。私がいったん楽器を渡すと、先生はマウスピースを拭いた。
そして別のポケットからイヤホンを取り出して、本体へと差し込む。
「ステージだとスピーカーを付けるんですが、いまはこれで」と先生。「一応、ストラップを首にかけてください」
先生が私のすぐ隣に来て、頭からストラップを通してくれた。
先生から、いつかと同じ海を思わせる香りがした。
イヤホンを受け取って自分の耳に入れる。
そして本体を受け取った私は、両手で、ユーフォとは違ってまっすぐに楽器をかまえた。
先生は私から離れて私のほうを見て、うなずいた。
「うん、いい感じです。マウスピースを半分くらい、くわえて」
私はドキドキしながら先生の言う通りにした。
「運指はだいたい、リコーダーと同じです。ゆっくり息を吹き込んで」
キーを押さえて、私はすこしずつ息を入れていく。
耳から、あのときに聞いた透明感のある音が聞こえてきた。おなかから力をかけると、音はそれに応じて大きくなった。
ユーフォとも、紗奈ちゃんに借りたフルートとも、ほかの部員に吹かせてもらったサックスとも違った。
私は先生の顔を見る。先生は、にこっと笑った。
私は面白くなり息を吹き込みながら指を動かしてみる。たしかにリコーダーと同じだった。
しばらく吹いたあと、私はマウスピースを口から離して、はあっと息を吐いた。
「意外に、息が抜けていかなくて……難しいですね」
「そうなんですよね」うなずく先生。「こう、圧力を掛けるだけでいいので、息は抜く感じにしないと……。コツがあるんですよ」
私はイヤホンを片方ずつ外し、ストラップを頭から抜いて、ウインドシンセサイザーを先生に差し出した。
「ありがとうございました」
「もういいですか?」
「はい、どんな感じかよくわかって……楽しかったです」
「それならよかった」
先生は私から受け取りながら、嬉しそうにうなずいた。
私は気になっていたことを口にする。
「でも、どうしてですか。急に……私に触らせてくれるなんて」
「ああ、実は……」
先生は寂しそうな顔をした。
「塾を、辞めることになりまして」
その言葉に私の火照っていた体がすっと冷たくなった。先生は続けた。
「後期から大学のキャンパスが変わることになって……。切りがいいので、夏休みに引っ越すことにしたんです」
「引っ越し、ですか」
「はい。本当は学年末まで、内村さんをしっかり見たかったんですけど。本当にすみません」
先生は頭を下げた。
「あ、引継ぎはしっかりやりますから、心配しないでください」
「はい」
私はそう言ってうなずくことしかできなかった。
先生がウインドシンセサイザーを鞄にしまうのを私はだまって見守った。鞄を肩にかけて先生は話す。
「来週末、土曜日のお昼、ラミリーズでライブをやるんです。昼間なら、内村さんでも大丈夫かな」
以前、授業のあとで聞いたことがあった。「ラミリーズ」というのは先生が演奏しているお店だ。
「私、行きたいです」
「うん、お店の場所は調べればすぐわかると思う。一応、予約したほうがいいかもね」
先生は私に指導室のドアを開けてくれた。
「失礼します。ありがとうございました、先生」
「気をつけて、内村さん」
私は頭を下げて指導室をあとにした。
建物から出ると、長くなった夏の日もすでに沈んで、あたりは真っ暗だった。
公園の外灯が青白く光り、規則正しく並んでいる。
私は公園脇の道路を足早に歩いた。
今日、先生との距離が、ほんのすこしだけれど近づいた気がした。
せっかく楽器について知ったのに。ライブにも行けるのに。
もう、先生に会えなくなる。
私の頭のなかをそれだけがぐるぐると回っていた。
・
次の日、昼休み。給食を食べたあと、私は紗奈ちゃんに会いに行った。
「ん、どうしたの?」
紗奈ちゃんの問いに私は言葉を濁した。ふたりでなんとなく廊下を歩いて、校舎の一番端、あまり人の来ないところへ行く。
「あのね、紗奈ちゃん」
私のようすがいつもと違うことに気づいたのか、紗奈ちゃんはだまって次の言葉を待ってくれた。
「先生が……塾の先生が、辞めちゃうんだって」
「そうなんだ」
紗奈ちゃんにはあれからも、大久保先生のことをときどき話していた。
「それで、最後にライブをやるらしいんだ。紗奈ちゃん、もしよかったら……」
「うん、もちろん行くよ!」
紗奈ちゃんならそういってくれるって、わかっていた。
「ありがとう」
私は日時を伝える。紗奈ちゃんの予定も空いていた。
「それじゃ、予約しておくから」
「わかった。よろしくね」
その日の夜、私は自分の折り畳み式の携帯電話で(スマートフォンはまだ買ってもらえていない)ラミリーズに電話した。予約をするのなんて初めてだったけれど、先生のためって考えたら、勇気が出てきた。
それから中学は期末試験に入った。私は先生にいい結果を見せたくて、いままで以上に勉強した。
試験は金曜日まで。翌日がライブの日だった。
金曜日、私は塾で大久保先生に話す。
「先生、私、今回はいい点数、取れそうです」
「それはよかったです」
先生は嬉しそうに微笑んだ。
試験の結果はまだ返ってきていないけれど、私は手ごたえを感じていた。
「あと、明日。お店、予約しました」
「え、本当ですか。ありがとうございます」
先生はさっきとは違う感じで笑った。先生っていうより、友達っていう感じだった。
先生との距離が、またすこし、近づいた気がした。
夜。
私は自分の部屋で机に向かい、ため息をついた。試験が終わって勉強から解放されたのに、それを楽しむどころじゃなかった。
机にはお父さんのパソコンで印刷したラミリーズの地図がある。私はあまり地図を読むのは得意じゃないけれど、大通りからすぐなのでたぶん大丈夫だ。紗奈ちゃんだっている。
明日のライブはすごく楽しみだった。
でも、先生は辞めてしまう。会えるのも、あと――ライブを入れても二回しかない。
いつも勉強を見てくれる先生。授業のあと、先生と話すのは楽しかった。優里さんと違って地味な私だけれど、しっかりと目を見て話してくれた。
この前なんか楽器に触らせてくれた。今日も私がライブに行くって言ったら、喜んでいたと思う。
先生のことを考えると、胸がきゅんと痛くなった。
先生と、別れたくなかった。
でも、仕方ない。先生はアルバイトなんだって言っていた。大学のほうが重要だし、いつかは辞めなくちゃいけない。
だから、仕方ない。
でも、あきらめたくなかった。なにかしたい、って思った。
はっと私は気づく。
これが恋なんだ。
紗奈ちゃんとは違う形かもしれないけれど、誰かを想う気持ち。
先生のことが大好きだった。
私は、机の引き出しからお気に入りのレターセットを取り出した。なにかをするために。
・
翌日、私は紗奈ちゃんと待ちあわせた。
私がある計画を相談すると、紗奈ちゃんはすごく驚いていた。でも彼女はすぐに笑って賛成してくれた。
そのあとで私たちはラミリーズに向かった。ちょっと迷いそうになったけれど、紗奈ちゃんがスマートフォンで案内してくれた。
お店は市の中心部、表通りからすこし裏に入ったところにあった。
「あ、ここだね」と紗奈ちゃん。
ビルの一階、通りに面した木製の壁に、大きなガラス窓がいくつも並んでいた。ガラス窓の横には大きな木製のドアがついている。ドアのさらに横の壁は白く塗られ、店のロゴと「Dining Cafe」の文字が書かれていた。
ドアには今日の日付の入ったポスターが貼られていた。「サタデーライブ昼の部・夜の部」とある。
店のロゴ、メンバーの写真。先生は中央に写っていた。先生の隣には、ビルのコンサートで見た長髪で背の高い女性。
紗奈ちゃんは、おっ、という感じでスマートフォンで写真を撮った。
ドアを開けるとカランとベルの音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
カウンターにいたエプロン姿の初老の男性から、声が掛かった。
私はごくりとつばを飲み込んで話す。
「あの、予約した内村です」
「はい、うけたまわっております」
男性はにこっと笑い、私はすっと気が楽になった。
私は男性にあることをお願いする。彼は微笑んで了解してくれた。よくあるのかな、って思う。
別の女性店員の案内で私たちは席に着いた。
店内はこげ茶の家具で統一されていて落ち着いた雰囲気だった。
さっき私たちが入ってきた入り口の右側には男性のいたカウンターがある。左側はいま私たちが座っているホール。席は三十くらいだ。
「すごくかっこいいお店だね!」
紗奈ちゃんがひそひそ声で話す。私もうなずいた。
ホールの一角には空きスペースがあって、私の家にあるのと同じ縦型のピアノと、ドラムセットが置かれていた。
食事はとてもおいしかった。
デザートとコーヒーが来たころ、さっきの男性がマイクを片手にホールの隅に立った。
「本日はご来店いただき、ありがとうございます。当店マスター、坪井です」
店内が静かになり視線が集まる。私たちも手を止めて聞いた。
「ただいまよりサタデーライブを開催させていただきます。いつもは夜だけですが、残念ながらバンドが解散することになり、特別に昼の部をおこなうことになりました」
マスターが話しているうちに奥から数人の男女が現れた。ドラム、エレキギター、ベースの男性。ポスターの女性はピアノの前に座った。そして、大久保先生。
マスターが下がるとバンドメンバーがお辞儀をした。拍手が上がってすぐに静かになる。
先生がタッタッタッと足でリズムを取り、演奏が始まった。
一曲目は私も知っている、あるアニメの主題歌のジャズアレンジだった。紗奈ちゃんと私はうなずきあう。元の曲の雰囲気を生かしながら、ちょっと大人な感じのする演奏だった。
二曲目。ピアノの女性が立ち上がり、真ん中だった先生が場所をゆずる。彼女はマイクを手にしていた。
彼女は先生よりすこし背が低いくらい。シンプルな青いドレスで背筋を伸ばし、スポットライトを浴びて輝いていた。
とても素敵で――大人の女性、って感じだった。
イントロが終わると、彼女が歌い始めた。
どこかで聞いたことのあるバラードだった。
アルトのつやのある歌声。先生のウインドシンセサイザーが寄り添うようにハーモニーを響かせた。
私は思わず聴きほれる。
先生と視線を交わしながら、彼女は情感豊かに歌い上げた。
三曲目、メンバーは元に戻り明るい曲になる。ボーカルはなかったけれどやっぱり素敵な曲だった。なにかを期待させるような、わくわくするメロディ。
このあとに待っていることを考えると、私のドキドキは止まらなかったのだけれど、それを後押ししてくれるような気がした。
曲が終わると、先生は腕を胸の前で水平にして大きくお辞儀をした。お芝居のあとで役者さんがする挨拶みたいに。格好よかった。
ほかのお客さんと一緒に、私たちも大きく拍手した。
メンバーたちが下がると店内にはざわめきが戻ってきた。
「素敵な演奏だったね」
ふうっと息を吐く紗奈ちゃん。
「それに、あのピアノの女性、すごくきれいだった」
「うん、本当に」
私もまったく同じ気持ちだった。
「透華ちゃん、誘ってくれてありがとう」
「どういたしまして」
紗奈ちゃんはいったん言葉を切ってから、口を開いた。
「……それで、このあと、やっぱり行くの?」
「うん、そのつもり」
私はこくりとうなずいた。
「そっか、透華ちゃん、すごいよ。まさか、先を越されちゃうなんて」
自分でも不思議だった。どうしてこんな勇気が出たんだろう。
でも、こうするのがすごく自然な気がした。
「……紗奈ちゃんだって、機会があると思う」
「うん、そうだといいな。今日は、透華ちゃんを応援してるから」
紗奈ちゃんはにこっと笑った。
そう、紗奈ちゃんがいなかったら――彼女が反対したら、たぶん私はあきらめていた。
私たちは会計をして店の外に出た。
「ついていこうか?」
紗奈ちゃんが言ってくれたけれど、私は首を振った。
店の裏口へ行き、私は鞄から封筒を取り出した。さらに、持っていた袋から、あるものを取り出す。
お店に来る途中で買った花束。予算の都合ですごくちいさかったけれど。
待っていたのはわずかな時間だった。
カチャリと音がして、ノブが回り、ドアが開いた。
大久保先生が姿を見せた。私を見てびっくりした顔になる。私の心臓がドキリと跳ねた。
「内村さん」
先生はドアを半開きにしたままで話した。
「マスターに呼ばれて、誰かなと思ったら……驚いたよ」
「先生。あの、私、最後だって聞いたので、どうしても……」
そのとき、ドアの向こうにもうひとつの顔が見えた。
「直也、どなただったの?」
ピアノの――ボーカルの女性だった。
「ああ、塾の子だった。わざわざ来てくれたんだ」
先生は顔だけ振り返って答えた。先生は私が初めて見る、飾らない笑顔だった。友達に見せる笑顔じゃないって気がした。
そっか、先生、直也っていうんだった。自己紹介のときに聞いたっけ。でも、こんなところで、思い出したくなかったな……。
「あら、素敵じゃない」
女性はウインクをした。先生はうなずいてから扉を完全に締めた。
そして先生は問いかけるように私を見つめる。
あの人は誰なんですか。先生のお友達ですか。それとも――恋人ですか。
そんな言葉が喉元まで出てきた。
でもさっきの、先生と彼女、ふたつの笑顔が頭にちらついた。
ライブのときのふたりを思い出す。交わす視線。そこにあったのはバンド仲間への信頼、だけなのかな。もしかしたら、ほかのなにかが――。
近づいた距離。先生への想いと、紗奈ちゃんの応援。バッグのことを最初に話せなかった後悔。
いろんなことが私のなかで渦巻いた。
でも、最後の最後で、私は口に出せなかった。
彼女は私なんかより、ずっとずっと、先生に似合っていた。
私は先生に気づかれないように、封筒を服のポケットに突っ込んだ。
「……受け取ってもらえますか」
花束だけを差し出す。
「もちろん。ありがとう、すごく嬉しいよ」
先生は照れたように頭をかいた。優しそうで、素敵な笑顔。私が最初に、好きになった。でも、それはきっと、生徒か――せいぜい友達への笑顔で――私はそれ以上、見ていられなかった。
目を落として早口で話す。
「あの、素敵な演奏でした。みなさんにも、そう伝えてください」
「うん、喜んで」
私はぺこり、と頭を下げた。
「それでは、失礼します」
「わざわざありがとう」
私は紗奈ちゃんの待つほうへ足を向けた。私の背中に先生が言う。
「あ、来週の塾、最後になるから……よろしくね」
「はい」
私は振りかえるふりをして、視線をあわせずにそう答えた。
目のはじに、先生が手を振るのが映った。
・
紗奈ちゃんのところに戻ると、彼女は結果を察したみたいだった。そのままなにも言わず、私たちは歩き始めた。
日差しのなか、ゆっくりと歩く。
私が店の裏であったことを、ぽつりぽつりと話すと、紗奈ちゃんはぽんぽんと背中を叩いてくれた。
次の火曜日。返ってきた英語のテストの点数は過去最高だったけれど、私は塾に行きたくなかった。
でも、先生にはどうしても会いたくて、私はふたつの気持ちに引き裂かれそうになりながら、重い足取りで塾へ向かった。
優里さんが声をかけてくれたくらい、私はひどい顔をしていたんだと思う。
先生はなにもいわなかった。いつものように丁寧な授業だった。
授業が終わると優里さんは、さばさばした感じで先生にお礼を伝えた。
彼女が帰って、先生とふたりになる。
「あの、この前のライブ、とても素敵でした」
私が言うと先生は微笑む。
「ありがとう。それに、わざわざ花束も」
その笑顔に胸がちくりと痛んだ。勇気を出せなかった私に、刺さる針。
「これ……」
先生はバッグからなにか取り出す。
「ウインドシンセサイザーで有名なバンドのCDです。なにかお返ししたかったんだけど、あまり変なものだと悪いかなって」
そういって先生はラッピングされた包みを私に手渡してくれた。
「よかったら、聞いてみて」
「ありがとうございます」
私は素直に受け取った。先生の気持ちが、嬉しかった。
そのとき私の携帯電話がメール着信音を鳴らした。
先生がどうぞ、というような顔をしたので、私は携帯を開いて確認する。
紗奈ちゃんだった。写真が添付されたメール。本文には「名前、確認して!」とある。不思議に思いながら私は写真を開いた。
この前、ラミリーズの前で紗奈ちゃんが撮影していたポスターだった。
名前、と思いながら私は写真を見る。バンドメンバーの名前がちいさく書かれていた。「大久保直也」「大久保奈緒美」。
もしかして。
「先生!」
ぱたんと携帯電話を閉じて、聞く。
「あのときの、ピアノの女性。……もしかして、お姉さんか、妹さんですか?」
「うん、姉なんだ。よくわかったね」
「あの、雰囲気が似てたので」
「うーん、そうか。自分じゃわからないけどなあ」
首をかしげる先生の横で私はゆっくりと笑顔になる。
紗奈ちゃん、ありがとう。
封筒。急いでポケットに入れたから皺になってしまった、封筒。今日はもちろん置いてきてしまった。私は後悔する。
でも。
言葉で伝えることならできる。
告白? ううん、それにはちょっぴり勇気が足りない。あんな素敵な女性を見てしまったら。でも、先生とこれっきりなんて、考えられなかった。
「先生、こっちには、もう戻ってこないんですか?」
私は希望をこめて聞いた。
「うーん、わからないなあ。もしかしたら、来年か再来年、選んだゼミによっては、あるかも」
「そうしたら、また、塾に来てくれますか」
「そうだね」
先生はうなずいた。
この塾には高校生のコースもある。
私はその笑顔と紗奈ちゃんに背中を押されて、聞く。
「あの、連絡先、教えてもらえますか」
先生がちょっとびっくりした顔をしたので、私はあわてて付け加える。
「あの、ここまでの範囲で、わからないこととか……もしあったら、質問させてほしいなって」
本当は先生とつながっていたい。それだけなんだけれど。
先生はわかりました、といって、メールアドレスを教えてくれた。
「先生、短いあいだだったけど、本当にありがとうございました」
「僕も、結果が残せてよかった」
私は頭を下げる。先生が笑うのがわかった。
塾を出て、私は夜の道を歩く。
月明かりが私の前を明るく照らしていた。
さようならだけを言うつもりだったけれど、ちょっとだけ違う結果になった。それも、いい方向に。
告白していたら――どうなっていたんだろう。先生が笑って終わり、だったかもしれない。たしかめられなかった自分には腹が立つけれど、でも、いいんだって思うことにした。
私があんなに素敵になれるのか、それが一年先か二年先か、もっとずっと先なのか、わからない。でも、がんばろうって思った。
あっ、と思って私は立ち止まり、紗奈ちゃんにメールの返事を書く。「ありがとう」って書き出しのメールを。