現れる、奇跡の囀り
瑞葉は父の傍らで、手を握り締めたまま深い眠りに就いていた。当然といえば当然ではあるが、ここ数日はまともに睡眠すらとっていなかったのとその疲労感が限界を迎えたことで、体が泣きわめくことを拒否したのだろう。
部屋のカーテンが閉められることもなく、月明かりが瑞葉を照らしている。
瑞葉はこの日まで眠ることがあっても、物音や話声ですぐに目を覚ますことがあったし、それで目覚める度に見ていた悪夢を思い出しては悲しき気持ちを抑えられずにいた。
しかし、今日に限っては不意に部屋の窓が開こうとも、そこに誰かが降り立とうとも目を覚ますことはなかった。
窓の縁に佇む男、響人は瑞葉の寝顔をそこから眺めていた。響人の左手には薬指と小指に指輪が嵌められ、それが月明かりを受けて妖しくも輝いていた。
窓の縁に立っていることで月明かりが瑞葉に影を落とし、その変化にか、瑞葉はゆっくりと意識を覚醒させた。
「んっ…んん…」
目をこすり、父を見つめるが、やはり変化はない。そこで初めて周りと自分の位置との明暗に気づき、瑞葉は振り返った。
「やあ」
爽やかに笑いかける響人のすべてを理解できなかった。なぜここにいるのか、なぜ窓の縁なのか、なぜそんなにも軽やかな挨拶なのか、何をしに来たのか、そのすべてを。
「ひ、響人さん…?どうして…」
「久しぶりだね、瑞葉ちゃん」
「あ、はい。お久しぶりです。一週間ぶりですかね?」
「そうだね。そういわれると久しぶりな気もしないね」
「そ、そうですかね…」
気の抜けたように笑う響人に、やはり瑞葉は理解できない。
「でも、どうしてここにいるんですか?」
「今日はね、君に会いに来たわけじゃなくて、お父さんに用事があってね」
「お父さんに、ですか?」
「あぁ、瑞葉ちゃんのお父さんにはいろいろとお世話になってるから、恩返しかな?」
響人の含みのある言葉に問い詰めたい気持ちをあったが、まだ完全に覚醒しない意識のせいか、そう言葉を紡ぐことはなかった。
「で、お父さんの具合はどう?」
「どうも何も…何も変わりません…でもなぜそれを…」
「詳しい話をしたいところだけど、今日は少し時間が足りないかな。また今度にしよう」
その今度が明らかに来ないだろうが。
「よっ、と」
響人は窓の縁から軽く飛び、室内へと侵入する。瑞葉はそれに反応するように、響人の前に両手を広げ、立ちはだかった。
「なにを、するつもりですか?」
先ほどまでの弱弱しい瑞葉の姿はそこにはなく、決意に満ちた瞳を響人へと向けていた。響人が何かしようものなら、それを是が非でも止めるつもりだった。
「説明して、理解してもらえるとは思えないけど?」
そんな瑞葉の決意を余所に、響人にはまるで緊張感がなかった。
「それでも、説明されないと私はここをどけることはできません」
今の瑞葉にできることは数少ない。万全の体調であっても、非力な瑞葉が年上の男性にかなうことはないだろう。結果が見えているとしても、瑞葉にとって守るべきものは変わらない。
「んー、わかったよ。頑固なとこはお父さん譲りかな」
「そうだといいです」
表情は堅い。響人の緩やかなそのペースにも一切巻き込まれることなく。
「怖い顔しないでほしいな。誰に何を吹き込まれたかは知らないけど、僕は少なくとも君の味方だよ?」
「だったら、証明してください」
「んー、そうだなあ」
「私は殺されてもここをどきませんよ」
「わかったよ。ちゃんと君に納得してもらえるように証明するから、とりあえず、そのおっかない顔やめない?」
「うるさいです」
「ふざけてるつもりはないよ?こっちも時間ないしね。ただ、君にリラックスしてもらわないとね。右手か左手、どちらか貸してもらえるかな?」
不思議に思いつつ、どうなるかを想像できない疑念を抱きつつ、瑞葉は右手を差し出した。
「ありがとう。ちょっとリラックスしてくれるかい?すぐに済むよ」
そう言うと、響人は瑞葉の手を受け取り、静かに目を閉じた。
「な、何をするつもりですか?」
「黙ってて」
瑞葉は厳しく制され、体を少し縮こませる。
響人が何をしているのか、これによって何が起こるのか、それをただただ待つときの恐怖を瑞葉は今更覚えた。
響人はしかし、微動だにしない。
更に数十秒ほど待って、響人がゆっくりと目を開け、手を放した。
「うん。こんなもんかな」
「な、何をしたんですか!?」
何の変化もない、そう思っていた瑞葉だが、その謎はすぐに解けた。
「右腕の包帯、取ってみたらいいよ」
誇らしげに話す響人に、瑞葉は何も考えずそれに従った。ゆっくりと包帯を外すと、そこにある筈の傷は全て跡形もなく、消え去っていた。
「えっ?ええっ?一体どういう…」
「ちなみに、頭の方も大丈夫だよもう」
混乱する瑞葉を気にも留めずに更に促した。
「あ、はい」
促されるままに包帯を取り、頭を触って確かめるが、やはりその傷はなかった。
「なにを、これは一体…」
「もしかしたら聞いてるかもしれないけど、僕は奇跡の囀りっていう通称がある。まあ犯罪者扱いされてるけどね」
瑞葉の混乱する頭は、理解が辿り着けなくて、一瞬これをすべて夢で片付けようとするが、そうもいかなかった。そして、理屈を考えることより先に父のことが思い浮かんだ。
「もしかして…!」
「なんかよくわかんないけど、理解してくれて助かったよ」
「お父さんもそれで…?」
「あぁ。完治してあげられる。きっと、今の瀧崎さんを救えるのは僕以外に有り得ない」
「嘘…」
見つかった希望と何より幸せを再び取り戻せることを知った瑞葉は、その場に座り込み、両手で顔を覆った。その腕には滝のように涙が流れていく。
「さぁ。時間がないよ?早く始めよう」
子供のように泣きじゃくる瑞葉の頭をポンポンと二度撫でた。
「瀧崎さん、あなたはまだこんなところで死ぬべき人間じゃない」
そう呟いて、父の手をすくおうとした刹那―――――
「動かないで」
いつの間に入ってきたのか、その場の誰もが気づけなかったが、しかし確かにそこに新堂が立っていた。その銃口を響人に向けて。
泣きじゃくっていた瑞葉もそれに気づくと、すぐに涙を拭った。
病室の扉は開放され、奥からは鈴沢のいびきが響いてくる。
「あらら、気づかれたか」
それでも響人は父から視線を外すことはなく、慌てる様子は一切なかった。
「両手を上げて」
「抵抗するつもりはないよ。だけど少しだけ時間をくれないか?」
新堂の警告にも響人は物怖じしない。
「なぜ?私にはあなたを待つ理由がないわ」
「それはもちろんわかってる。でも、君たちは僕を捕まえれば満足でしょ?だったら、少しくらい待ってくれても変わらないんじゃないかな?」
尤もな意見ではあるが、新堂はそれに感化されることはない。
「もう一度だけ、もう一度だけ言うわ。両手を上げなさい」
「だったら、好きにするがいい」
口調とともに、響人の表情が一変する。
「お願い。私に撃たせないで」
「そうするかどうかは貴方次第だ」
新堂の銃を握る手に力が入る。
「私は仕事に私情は挟まない。与えられた任務は確実にこなすと決めてるの。貴方が逃げない保証なんてどこにもないわ。それに貴方が課長を本当に治すかどうかもわからない」
「そうだ。信じるかどうかも貴方次第だ」
「貴方の能力がわからない以上、私には待つことはできない」
「だったら―――――」
響人が新堂に視線を移した。その目力に新堂は僅かに圧倒された。
「撃ちたければ撃てばいい」
響人の表情は更に厳しいものとなる。
――奇跡の囀り、この男はいったい何者なの…!?
新堂が受けた恐怖は少し引き金を引き絞らせた。新堂が限界を感じ、その手に力を籠めようとしたその時―――――