不真面目な先輩と生真面目な後輩
そして、夜を迎えた。
瑞葉は聞き流していたが、新堂達は説明した通り、狂いなく万全の警備が敷かれていた。新堂は、もう一人の男と病室の前で待機をしていた。警備の最後の砦といったところだろう。
「あの、先輩」
返答はない。スーツを着崩す先輩と呼ばれた男は床に横になり、開いたままの雑誌を顔の上に乗せていた。例えるなら、公園でサボるサラリーマンといったところか。
「鈴沢先輩?まさか…」
「まさかってなんだ?」
鈴沢と呼ばれた男は顔の上の雑誌を取り、そのままの態勢で新堂を睨んだ。雑誌に隠れていたのは、薄い顔で男性にしては長い髪を後ろで簡素に纏めていて、そして何より実に気怠そうな表情をしていた。
「もう、起きてるなら一回で返事してくださいよ」
「で、なんだ?」
鈴沢は面倒臭そうに体を起こし、首を回した。
「あの、報告書、読みました?」
「はい?読むわけねえだろ、あんな分厚いの」
「私、全部目を通したんですけど、やっぱり―――――」
「嘘だろ、おい。あれ何百ページあると思ってんだよ」
「嘘じゃないです。ちゃんと五百八十三ページ、すべてに目を通しました」
鈴沢は呆れたように溜め息を吐いた。
「はぁ…あんなの読む奴いるんだな。新堂、生真面目にもほどがあるだろ、まったく」
「いえ、ああいうものにもしっかりと目を通しておかないと、いざ現場に出た時の不測の事態に対応できないかもしれないじゃないですか」
「お前な、不測の事態ってのは予測不可能だから不測っていうんだよ。それをちょっと報告書読んだくらいで対応できれば苦労しないぜー?」
鈴沢の言葉は新堂を小馬鹿にするような意味合いも含めていた。
「ですが、読まないよりは読んでおいた方が間違いなくいいと思います」
鈴沢の言葉にはまったく構うことなく、正論を突きつける。
「そうだな。でも、お前が読んでるから、もうそれで万事オッケーだろ」
「まったく。ちなみに何ページまで読んだんですか?」
「二」
「え?」
「二ページ」
「え?」
「だから二ページだっての」
「えっ?」
「お前、最後のはわざとだろ」
新堂は信じられないという顔つきで先輩である鈴沢を軽蔑した。
「いやな、そもそも、あれに書かれていることってもう大体知ってることじゃん?それをわざわざ反復するようなこと、飽きるに決まってるじゃねえか。ガキじゃねえんだから」
「そうなんですか?私、知らないことだらけでしたよ?」
「あー……そっか」
鈴沢は一人で納得している。
「なんですか?」
「いや、お前、ここに配属されてからどれくらいだっけ?」
「一年と二ヶ月ですけど」
「そうだよな。当時その場にいなかったら知らなくて当然だわ。もう三年くらいいる気でいたわ。あの事件はな、当時はまあ話題になったわけよ」
「そうなんですか?」
「そりゃあな。奇跡の囀りったら何年も尻尾も捕まえられなくてよ、それがようやく捕まったってのに、逃げられるもんだからな。須藤のやつ、どれだけ危うい立場になったか」
「あ、それは読みましたよ!立場がどうこうはしりませんけど奇跡の囀りが脱走したのは実に鮮やかとかなんとか」
読みました、と自信満々に返した割には、実にあやふやな記憶のようだ。
「まぁまぁ。あの時はいろいろあったからな。俺も本当はあんまり思い出したくないんだ。胸糞悪い気分になるからよ」
「そうですよね…」
「まあ、それはそうと、何か聞きたいことがあったんじゃないのか?」
思い出したように鈴沢が話を軌道修正した。
「あ、そうです。そうなんです。あの、報告書を読んでて思ったんですけど、奇跡の囀りの罪ってそんなに重いものなんですかね?私、理解に苦しむ場面が多くて。それに、そもそも戦闘能力が皆無って書いてあったのに、こんな警備を敷いて、挙句の果てには私たち特務課まで出すなんて―――――」
「なんだ、そんなことかよ」
言葉を吐き捨て、新堂を一蹴した。
「そんなことって…!結構大事な話だと思いますよ?!」
「そんなことだよ」
「だって、彼が犯した法は十条のいかなる理由があろうとも一般人にその力を向けてはならない、ってとこだけですよ?しかも、彼は一般人を殺したりしたわけでも傷つけたわけでもない。いくら件数が多いからって、人も救っただけでそんな極悪人みたいな言われ方しなきゃならないのって、おかしいと思いませんか?!」
新堂の言葉に熱が籠る。
「しーっ。中で嬢ちゃんがたが寝てるだろ。あんまり大きな声出すなって。お前の気持ちはわかるけど」
「すみませんでした…」
「確かにそれはそうかもしれないが、それを考えるのもそれを決めるのも俺たちじゃない。俺たちはただ任務をこなしてればそれでいいのさ」
無関心にも聞こえるその言葉だが、鈴沢の意図は違った。
「でも…」
「だから、俺たちが決めることじゃない。逆を言えば、それを決められるくらい偉くなりゃいいってだけの話だ。どうしても変えたいものがあるなら、事実を曲げられるほどの力を手にしなきゃならないってことさ」
「なんか、珍しく先輩からまともな言葉聞いた気がします」
「ったく、いつもいい話しかしてないだろうに」
「いや、下手したら初耳かもしれないです」
「言いすぎだろ」
「じゃないです」
「訂正しろ」
「嫌です」
「じゃあ撤回しろ」
「その方が嫌です」
「じゃあやっぱり訂正しろ」
「やっぱり嫌です」
「もう、訂正してから撤回しろ」
「もう、嫌すぎて拒絶反応起こしそうです」
頑なに拒む新堂に鈴沢を尊敬する思考は皆無といっていい、いや、微塵もといっていいほど感じられない。
「ったく、後輩とは思えんな」
「大丈夫です。私、先輩と思ってないんで」
うふふ、と新堂は無邪気に笑った。
「じゃあ、なんで先輩って呼んでるんだよ?」
「あれは周りへの建前です」
「かわいくねえこと」
「ありがとうございます。先ッ輩」
「もういいわ、後頼むな」
鈴沢は再び態勢を戻し、顔を雑誌で覆った。
「また寝るんですか、仕事中に」
新堂の言葉を意に介することはなく、ものの数十秒で寝息が聞こえてきた。
「だから尊敬されないんですよ」
新堂は自分にさえも聞こえるか聞こえないかの独り(ひとり)言を小さく呟いた。
「さっき、一瞬尊敬しかけたろ」
意識の外からの返答に新堂は体をビクッと震わせた。
「寝てないんですか。ずるい。卑怯だ」
「いいから、仕事がんばれよ」
再び、鈴沢から寝息が聞こえてきた。