父の容体
意識がぼやけているせいか、開いた目が上手く視界を捉えてくれていないことがよくわかる。しかし、そんな視界の中でも瑞葉すぐに母を視認した。更に鮮明になる意識と視界の中でどこかの天井であることまでは理解できた。
「先生!誰か!瑞葉が!」
母は叫び声に近いもので、病院関係者を呼びかけた。
「あれ…?私……お母さんここどこ?」
「よかった。瑞葉…」
泣き崩れる母の様子にも未だ理解が追いつかない。
「私、なんで…」
瑞葉は体を起こし、必死に記憶を巡る。今理解できていることといえば、頭と右腕に包帯が巻かれていることぐらいだろう。
「確か…」
うまく思い出せないのか、必死に考え込んでいると、そこに医師と看護師が駆け付けた。
「ここ、病院…?」
その誰ともない問いかけに医師の男が返答した。
「そうだよ。ちょっといいかな?」
「あ、はい」
医師の指示に従い、簡単な触診などが行われた。
「脈拍も問題ないし、大丈夫そうだね」
医師もまた安心した様子で笑顔を見せた。
「…………あっ!お父さん!お父さんは!?」
観覧車から落ちたことを思い出した瑞葉はベッドから飛び起きた。
「あ、こら!君はまだ絶対安静で―――――」
医師や看護師の制止を振り切り、廊下へと飛び出した。
「お父さん…はぁはぁ…お父さん…」
駆けながらいくつもの病室の名前を確認していき、何か所か目で瀧崎隆二の名前を見つけた。
「お父さん!」
病室の中には父の姿を見つけたが、外傷などを見る限りは問題なさそうに見えた。
「お父さん……」
そんな、なんの根拠もないことで安心している瑞葉の後ろに医師が現れた。
「瑞葉さん、貴方もまだ絶対安静なんですから」
軽く息を荒げながら、医師は淡々(たんたん)と説明した。
「あの、ごめんなさい。でも、お父さんは?」
「それは…」
医師は言葉を濁した。瑞葉の嫌な予感をそれが爆発的に膨れ上がらせた。
「教えてください!お父さんは、お父さんは大丈夫なんですよね!?」
医師に掴み掛る瑞葉を、避けようともしない。医師本人には落ち度はないが、後ろめたさからだろうか。
「隠しても仕方ないですからお話ししますが、瀧崎隆二さんは現在意識不明の重体です。正直、私から見ても生きているのが不思議なくらいの状態です」
瑞葉の手が医師から零れ落ち、その場に力無く座り込む。
「そんな…嘘…嘘だよ…」
「瑞葉さん自身は軽傷で済んでいます。二、三日で退院できるでしょう。しかし、貴方のお父さんがその事故の際、貴方を抱きかかえていてくれていたからこそ瑞葉さんは無事で済んだんです。その身代わりになったお父さんは脊椎に重大な損傷が見受けられますので、もし目を覚ましたとしても、全身麻痺の可能性は高いです…」
その場にへたり込む瑞葉が医師の話を最後まで聞くことはなく、ただただその現実を信じようとしなかった。
「嘘…そんなの嘘だよ…嫌だよ、お父さん…うぅ…」
瑞葉はそのまま周りを気にせず、泣き崩れた。
それから三日が過ぎ、すぐに回復した瑞葉は一向に父の傍を離れようとはしなかった。医師の絶対安静の言葉も無視し、あの日、あの晩からそこから一切動いていない。
母の執拗な説得にも応じようとしなかったのは、やはり自身の罪悪感からだろう。
――私が観覧車乗りたいなんて言わなければ…
――私が遊園地行きたいなんて言わなければ…
――私がわがまま言わなければ…
決して瑞葉が罪の意識を覚える必要はないのだが、それでも自分を責めずにはいられなかった。
そんな抜けようのない思考のループを、答えのない自問自答を、繰り返しては泣きじゃくるのを飽きもせず、三日も続けていた。
もう帰ることのない、戻ることのない幸せを、瑞葉はそれでも模索していた。
泣き疲れ、ぐったりとしている瑞葉の許へ、思わぬ訪問者が現れたのはその時のことだ。
「失礼いたします」
入ってきたのはスーツを着た男女二人組だった。男は痩せ細っていて、しかし長身であり、決して不機嫌ではないのだが、目つきの悪い男だ。
その後ろにいる女は、髪型はボブで、堅そうな雰囲気を持ったキャリアウーマンのようではあるが、低身長であることとその幼い顔立ちが可愛らしさを醸し出している。
「なん、ですか?」
力無く問いかける瑞葉を二人はそんな様子を心配することもなく、話を切り出した。
「まず、私は新堂、こちらは須藤と申します。唐突なお話になってしまって申し訳ないのですが、今日から貴方のお父様、瀧崎隆二には24時間体制の警護をつけさせていただきます」
新堂と名乗った女は突き放すように言い切った。
「どういう、ことですか」
瑞葉にとっては寝耳に水のような話ではあるが、それでも疲れ切った状態ではその話とまともに取り合うことは難しかった。
「詳しくは私から」
須藤、と紹介された男が一歩前へ踏み出る。
「実はあなたのお父さんは命を狙われている可能性があります。先日の痛ましい事故ですが、それもその犯人によるところの可能性がある」
「言ってる意味が分かりません…」
瑞葉にとってはその話を深く掘り下げるべき話ではあるが、そんな気力もすでに失われつつある。
「今の状況でお父さんが狙われることはないと思いたいですが、万全を期すためにはこうさせていただく他ないということをご了承ください。その男は大罪人でして、こちらとしてもどういう行動を取るのか予測できかねていましてね。私たちは彼をこう呼称しています。奇跡の囀り、と」
大罪人とは思えない呼称ではあるが、それでも須藤は冗談を話しているようには見えない。
「そもそも、貴方たちは一体…?」
ようやく捻り出した疑問も今の瑞葉にとっては実際どうでもいいことなのかもしれない。
「私どもはあなたのお父さんの同僚になります。きっとお父さんはあなたに仕事の内容は話されていないかもしれません。実際に、私どもも貴方が瀧崎さんの娘さんだからと言ってすべてをお話しすることはできないのです」
須藤はもっともらしいことを言うが、結局何も話せないで、ただ警備の件を押し付けているようにしか聞こえない。
「よく、わかりませんが、貴方がたがそうしたいというのならお好きにしてください」
弱弱しく瑞葉はそれを了承した。いや、どちらでもいいのだろう。
「快諾していただき、ありがとうございます。では、新堂君」
「はい。早速、準備に取り掛かります」
「では、私はこれで失礼いたします」
須藤は終始、父の体調を心配することはなく、軽く一礼をして部屋を後にした。
「では、私の方から簡単にご説明させていただきます。まず―――――」
瑞葉はずっとその説明を空返事で聞いていた。
「―――――以上になります。何かご不明な点は?」
「いえ」
「そうですか。お父様よくなるといいですね…」
散々(さんざん)、自分勝手な立ち振る舞いをしてきた後に、後付けのように心配したことは瑞葉を刺激してしまった。
「あなたに何がわかるの!!お父さんは、お父さんは…うぅ」
一度は怒鳴り声を上げたが、帰ってこない父とその疲労感からうなだれたように泣き出すことしかできなかった。
「あなたの今の気持ちをすべて理解はできませんが、家族として、娘として、父を亡くされた気持ちならわかります」
「お父さんはまだ死んでないもん…」
怒鳴る気力もないほど瑞葉は追い込まれていた。
「わかっています。私も昔、父を亡くした時はつらかったです。悲しくてどう乗り越えればいいかもわからなかった。でも、周りの助けがあって、少しずつ、少しずつ、現実を受け入れることができた。それに―――――」
新堂はそこで言葉を止めた。僅かな戸惑いが見て取れる。
「これは話していいことかはわかりませんが、瀧崎課長は私の直属の上司でもあった。普段から皆にやさしく、しかし仕事のことでは常に厳しく、私はどれだけ瀧崎課長に助けられたかわかりません。瑞葉さんほどではないかもしれませんが、悲しい気持ちも、元気になってほしい気持ちも私にもあります」
新堂も言葉こそはしっかりしているものの、俯いて感情をこらえていた。それを物語るように握り拳を震わせている。
「ごめんなさい。新堂さん…でしたっけ…?」
「はい。ですが、美那と呼んでいただいて結構ですよ。課長にもそう呼ばれていました」
「そうですか。美那さん、ありがとう」