奇跡の一例
私たち夫婦に子供が生まれたのは、結婚してから実に五年が過ぎた頃のことだ。
欲しいと思ってはいたが、計画的にできた子ではない。それでも自らの子を妊娠したということがわかったときは、やはり嬉しかった。
十月十日を過ぎ、出産した。夫は心の底から我が子の誕生に涙し、喜んでいた。
しかし。
生まれてから一ヶ月。医師に呼ばれた私たち夫婦は、唐突にその現実を突きつけられた。
アレキサンダー病、そう告げた医師の表情は実に暗かった。聞き慣れない病名に首を傾げたが、次に医師が余命宣告をしたことで、ぐっと現実に引き込まれた。
誕生して、僅か一ヶ月で告げられたもの、それにどんな顔をすればいいというのだろう。悲しみ、驚き、辛さ、苦しみ、そんな感情は後から付いて回る。
ただ、今この場で表現する感情を私は持ち合わせていなかったというのが適当だろう。真っ白になる、という言葉を初めて理解した。
それから、我が子は病院を出ることはなく、しかしそれでもすくすくと育っていった。二歳になる頃には体調が大分安定するようになった、と医師も安心した様子で報告してくれて、退院許可もくれた。
このまま、このまま我が子は何事もなく、普通の生活に戻れるのかもしれない。そんな淡い期待は一年を待たず、打ち砕かれる。
我が子の容体が急変し、病院に担ぎ込まれた時には、既に生死の境を彷徨っていた、と後から医師に聞かされた。
その時は、我が子の生きる意志が命を繋いだのか、私たちの祈りが届いたのか、一命を取り留めた。
それから我が子は再びベッドに張り付くこととなる。
私たち夫婦は病気を治す方法をただひたすらに探った。しかし、確実な治療法は存在しなく、進行を遅らせる、延命処置のような、そんな治療法しかなかったのだ。
藁をも掴む思い、とはまさにこんなことだろう。
そう、そんな時に現れたのがその藁だった。正確には、男女二人組。お互いに若かった。
男は実に穏やかな空気感を持った爽やかな青年で、優しさが滲み出るような、そんな顔立ちはまだ幼かった。
女もやはり若かったが、立ち振る舞い、身振り、口調、その全てが十代のそれとは明らかに違った。それでも、二人は同い年程度だろう、と私たちは思っていた。
そんな二人を藁とみていたことを私たちは後々酷く後悔することとなる。彼らは藁などではなく、助け舟だったことを思い知らされたからだ。
女は淡々(たんたん)とした口調で説明を始めた。
説明というには、あまりに曖昧なものではあったが、女は次のように言葉を並べた。
私たちは貴方がたのお子さんを助けにきました。医師ではありませんが、お子さんを唯一救える、そう言っていいほどの存在であることに自負があります。
もちろん怪しい、と、そう思われるでしょう。しかしそんな心配も必要ありません。彼をお子さんと二人で話をさせてください。それだけで結構です。
正直なところ、私は何かしらの金銭の要求をされる、そう思っていた。神に祈れば救われる、そんな類のものだと。
しかし、それでも私たちはその藁を掴んでみた。
青年は我が子の手を取り、話し始めた。遠巻きに見守っていた私たちには何を話していたのかは定かではない。
その最後に、青年は目を閉じた。まるでそれが終わりの合図かのように。
その後、女に検査の日時を聞かれ、一週間後と答えた私たちは、彼らが立ち去るまで、疑問を拭うことができなかった。
疑問が晴れたのは、検査があった一週間後。
医師は本当に驚き、奇跡だ、奇跡が起きたんだ、と譫言のように何度も呟いていたという。医師からの説明を受けた私たちもまた、医師のその感情をはっきりと理解させられる。
我が子は病気などではない。正常な、健康体そのものだ、と。現段階でわかる限りの検査結果でも、そう答えが出ている、と。
その次の日に女は、今度は一人で現れた。私たちにした質問はただ一つ。
お子さんはお元気ですか?
わからなかった。ただただ、わからなかった。それでも、感謝すべき相手が今目の前にいるということだけはわかった。
女は感謝されることを望んでいたわけではない、お子さんが元気であればそれでいい、と言ってお礼さえも断った。
立ち去ろうとする女を呼び止め、私は最後にこんな質問を投げかけた。
貴方は、貴方たちは一体何者なの?
女は振り向き、答えた。
私たちの名前は教えられません。しかし、呼称が必要であれば、こう答えています。
奇跡の囀り、と。
女が最初で最後、微笑みを見せたのはその時だけだった。