第十四話 信心あれば神心
踏み出した一歩が踏み板に乗るとギシリと耳障りな音を立てて足元が揺れる。
大丈夫、私の体重に耐えられるみたいだ。身体を横に向けて両手で縄を掴みながらカニ歩きで現場へ進んで行く。足を乗せる度に揺れる不安定な足元についつい腰が引けてしまった。
「だ、大丈夫……私にはヴェルト様がついている!」
啖呵を切っておいてあれだがやっぱり怖いものは怖い。下を見れば十数メートルかはありそうな高さで結構な勢いの川が流れていた。落ちたらどこまで流されるんだろう……私は考えるのをやめた。
急いで助けに行きたいけど急ぐほどに橋が揺れてしまって、その揺れにエリクが耐えきれなくなった時が怖い。少しずつ進んで行くしかないのだ。
「エリク、もうすぐ行くから待ってて!」
「えっ……フィノ姉? なんで?」
「おじさん達じゃ橋に乗れないから! 喋らなくていいから大人しくして!」
背を向けたエリクを視界にはっきり捉え声を掛けると戸惑った返事が返ってきた。きっと村の大人が来るものと思っていたのだろう。喋る事すら体力消耗に繋がりそうなので黙らせ、更に距離を縮めていく。エリクの所へ辿り着いたら既に腕が震えていていつ力尽きてもおかしくない状態だった。
「お待たせ。今から引き上げるからじっとしててね」
穴の手前でしゃがんだ体勢からエリクの脇に手を伸ばし、後は力任せに引き上げる。結構無理な体勢でやるから力が入れにくいけど腕の力だけで何とかなった。
それでも勢いがついて私は尻もちを着き、ちょうどそこにエリクの背を抱え込む形になって無事救助する事ができた。
「う……フィノ姉……俺怖かった……」
「エリク、すごく頑張ってたね。もう大丈夫だから早く戻ろう」
半泣きのエリクが胸に顔を押し付けて抱き着いてくるけど相手は子供、それだけ怖かったんだろうと好きにさせておいた。後は皆の所へ戻ればいいだけだ。振り返ると私が行く前より人が増えていてその中にはリカルドおじさん達と司祭様、トニー達の姿も見える。立ち上がって手を振ると無事が伝わり喜んでいるのが分かった。
「それじゃ行くよ。しっかり掴まって」
エリクがいるので行きと同じようにはできない。片手で吊り橋を掴み片手でエリクの腰を支え歩き出す。私だけの時は何ともなかったけどエリクの重みが加わった事で余計に軋む音が大きくなった気がする。……あんまり余裕はなさそうだ。
「エリクー! フィノ―! 早くー!」
「姉ちゃんがんばれあと少しだ」
「急いで!」
慎重にゆっくりと体重を掛け、足場の安定が取れたら更にもう片方の足を乗せる。牛歩戦術のように一歩一歩進んで行くと対岸の皆の声が届く範囲まで戻って来れた。ほっと安堵の息が漏れる、しかしそれが良くなかった。
「もう大丈夫だ」その安心が油断を呼び、毎回やっていた足元の確認を疎かにしてしまって私達の乗った踏み板を繋ぐ縄が切れてしまったのだ。
「うわぁっ!」
「わわっ」
幸いにも命綱のお陰で谷底へ真っ逆さま、というのは避けられた。だけど古びた縄一本で宙吊り状態でいつまでもいたくない。今は片手で縄を掴み片手でエリクを抱えているので流石に片腕で自力で這い上がれそうになかった。
「おーい、今引き上げるぞー」
けど私は甘く見ていた。登山用でもなんでもない縄にそんなに耐久力は無いとか、木材の角は結構鋭いとか少し考えれば分かりそうなものだったけど気付いた時にはもう遅い。
音を立てて縄が千切れる瞬間を見てしまって、次の瞬間には二人揃って宙へ投げ出された。
「縄が! 落ちたぞ!」
「いやぁぁぁぁー!」
ジーナの悲鳴が遠ざかる。このままじゃ間違いなく死ぬ。少しでも庇おうとエリクをぎゅっと抱きしめたその時だった。
「神様! いるんだったら助けて!!」
≪心得た≫
エリクが叫び、私の頭にヴェルト様の声が届く。もしかしたらエリクにも聞こえているのかもしれない。
……そうだ、ヴェルト様がいるんだ!
「ヴェルト様! 私の考えてる通りにして!」
≪造作もない≫
私は助かった後の事を想像してそっと目を閉じた。
…………
「ありゃあ助からないな……」
「おい、下流に行くぞ! あの子らがいつ流れてくるかわからねぇ」
「エリク……フィノ……」
「ふたりとも落ちちゃったの? どうなったの?」
「何でだよぅ……」
僕がこの村へ司祭としてやって来て三年程経ちますが、初めて遭遇する悲惨な事故に何も言えずただ立ち尽くしていました。
長らく隣人教の教えを信じ、人間が努力して出来ない事なんてないと考えていましたが今の彼女達を救う事は人間には絶対にできない……信じていたものが大きく揺らいだように感じます。
もしも救えるとしたらそれは人間ではなくて……神?
「馬鹿馬鹿しい。フィノさんの言葉に惑わされるなんて」
今回の事故は痛ましい教訓として、二度と同じ事が起こらないように努める。反省を生かし学ぶ、それが隣人教の司祭たる僕がすべきことです。
……本当に助けられたらよかったのに。
背を向けて村へ戻ろうとした時でした。急に背後の人達が騒ぎ出し声を上げています。まさかまた誰かが落ちたのでしょうか。
勢いよく振り返った僕は、その時に見た光景を恐らく一生忘れる事はできないでしょう。
「な……フィノさ……ん?」
谷へ落ちた筈の彼女が、エリクを腕に抱いて皆の前に現れました。
いや、それは僕の知っている彼女と言っていいのか。
全身を淡い光に包まれ何も無い空間に真っ直ぐに立つその姿は凛として美しく、この世の者とは思えない程に現実感のない光景でした。これは僕らは夢を見ているのでしょうか、誰もが一言も発せずただ見ているだけしかできません。
やがて彼女はふわりと地面に降り立つとエリクを降ろし、状況が分からず固まったままの僕達に向けて優雅に微笑んでみせたのです。
「神様が、私達を救ってくれました」
…………
た、助かった……地面すれすれまで落ちるなんて思わなかった。
あの時エリクがお祈りしてくれてほんとよかった、お陰でヴェルト様もちょっと力を取り戻せたし前に失敗した「天からの降臨」のリベンジもできたし。
≪遥、よくやってくれた。その幼子の祈りは確かに我の元へと届いた≫
ヴェルト様もとても喜んでくれてるけど今皆の前だし返事できないんでちょっと待っててくださいね。今私神の使いモードになってるんで。
「神様だって? 物語の?」
「はい、今まで黙っていて申し訳ないのですが私は神の使いとして天よりこの地へ参りました」
「どういうことだい? フィノちゃんは人間じゃないのか?」
「私は人間です。ただ、神が実在すると知っていて神の声を聴くことができるというだけ」
雰囲気たっぷりに首を左右に振ってみる。身体は普通の人間じゃないけど中身は一般人だから嘘は言ってないし! どうせ今日村を出て行かなきゃいけないんだからそれっぽい演技をしてみた。
集まった人達がざわめきだす。これだけの超常現象を見たらすぐに信じるかと思ったけどそうでもないのかな。
「……フィノさん、どうしてあなた達は助かったんですか」
司祭様が人垣から一歩前に出てきて皆の代表のように質問してきた。あれだけ神を否定していた司祭様は今の光景を見てどう思ったんだろう。少しは信じてくれていたらいいなぁ。
「谷に落ちた時、私とエリクは世界を司る神に祈りました。助けてほしい、と。祈りの言葉は神に届き川へ落ちる直前に停止しそこから宙を浮きつつここまで戻って来れたんです」
そこへエリクに皆の視線が集まると、まだ熱に浮かされたようにぼんやりしていた彼は正気に戻ったのか力強く私の発言を肯定してくれた。
「俺、前にフィノ姉から困った時祈れば助けてくれるかもって聞いてたんだ。それ思い出して助けてって叫んだら変な声が聞こえてきて、気が付いたらフィノ姉が浮かんでた」
「エリクの言う通り、神は人間の手に負えない時に助けてくれるものなんです」
再度周囲がざわめき出す。いないと信じられていた神が実在すると語る人物が二人、現実に助かりそうも無かった人間がこうして目の前にいるのだから信じざるを得ない。それでも今まで信じていた価値観が揺らぐことが皆恐ろしいのだろう。奇妙なものを見る目が私に向けられた。
……まぁ、こんないかにもな態度取っちゃったら今までみたいには扱ってもらえないよね。それを覚悟しての自称「神の使いモード」なのだからわかってはいたけど少しだけ寂しかった。