疑心暗鬼
三人がかりで持ち上がるかどうかというスチール製の棚を、持ち上げるどころか吹っ飛ばす力を見せた加奈子は自分の力に戸惑っていた、もちろん普段日頃からそんな力とは無縁であり、力を入れて吹き飛ばすほどの力が出た自分の力に戸惑いを隠しきれないでいた。
しかし、雅夫と慎一は少し驚いた様子ではあったが、そこまで慌てた様子はなかった、雅夫はゴソゴソとポケットから財布を取り出すと、一枚の10円硬貨を渡し言った。
「ちょっとその10円玉を握り潰してみてくれませんか?」
何を言っているのか一瞬理解できなかったが、自分がありえない力を出した事に対して、それが本当に再現性のある力なのかどうかを実験してみようと言う事を理解すると、興味もあって人差し指と親指で挟んだ10円硬貨に力を込めてみた。
まるで粘土細工でできているかのように面白いように曲がっていった、自分でも信じられなかったが、それは紛れもなく金属でできた硬貨であり、それを易々と曲げて見せたのは紛れもない自分の指であった。
折り曲げた10円硬貨を雅夫に返すと、それをシゲシゲと眺めた後で慎一に手渡した、慎一もその硬貨を元の形状に戻そうと試行錯誤しながら力を込めていたがまるでビクともせず、興味深かそうに折り曲げられた10円硬貨を眺めていた。
「揺れが起きた時、身体の中を弄られるような不快感を感じて嘔吐したけど、それが影響しているのかもしれないね、所謂超人的な力が身に着いたと考えていいのかもしれない」
そんな力を手に入れたという事に少しわくわくするような興奮を覚えながらも、自分の身体に起きた異変を気味悪くも感じてしまっていた。
良く効く薬には大きな副作用があるように、反動のようなものがあるのではないだろうか?そんな事を考えてしまうと気味の悪さも手伝って、単純い喜ぶ気にはなれないでいた。
「しかし、これで少しは希望が見えてきたかもしれませんね、移動するにしろ、その能力はかなりあてになるんじゃないかな?」
彼女の思いを知らずに雅夫は少し嬉しそうに喋るが、自分の力をあてにして脱出を計ろうとする雅夫に加奈子は不快感を感じていた。
「あなた達にはそういう力は備わらなかったんですか?」
「みたいですね、いくら力を込めても硬貨は曲がらなかった」
雅夫の言葉に同調するように慎一も頷く、慎一が力を込めて硬貨を曲げようとしている姿は見ており、それが芝居であるとも思えなかった、棚を持ち上げるタイミングから全て芝居で出来るほど芸達者であるようにも思えず、男二名に力が備わらなかったのは真実であるように思われた。
この加奈子の観察は半分当たっており、半分は外れていたと言える。なぜなら彼ら二人にもこの時点で自覚こそなかったが力は宿っていた、しかし加奈子の力が物理的に作用する極めて分かり易い物であるのに反し、この二人に宿った力はすぐに理解が及ぶような力ではなかった事が力の認識を遅らせた理由でもあった。
そこからは最大戦力となりうる加奈子の機嫌を損ねないようにしながらの力の実験に入ったが、彼女はイマイチ乗り気ではない様子が伺えた、確かに身体測定のような事を男二人にやられるのは抵抗も感じるであろうと、どうしても遠慮があり、軽く色々な分野で世界記録を塗り替える事ができるのではないか?そのくらいの力は出るようだ、という非常に抽象的な結果しか分からなかった。
加奈子には口には出さないが言い分はあった、自分に頼って脱出しようという男二人の考えが気に入らなかったのだ、ここは二人にも別の力が宿っているかもしれないのだから、それがなんなのかを調査する方がより有効な結果を生む可能性もあるのに自分の力のみをあてにするその態度が気に入らなかった。考えられないような力を急激に使えば骨や血管に負担が掛かる可能性もあり、寿命を縮め健康を大いに害する可能性も考えられる、ありえない力の反動が何を生むのか理解できないうちはそれを易々と使うべきではないという考えであった。もちろんそれは加奈子にとっての理論であり、我が身可愛さから来る自己保身以外の何ものでもない事を潜在的には自分も理解していた。
雅夫は加奈子の力を『チート』であると判断した、皆が寝静まると横になって皆に背を向け自分にも何らかの力が宿っていないかと模索を開始した、物理的な力に関しては加奈子に説明した事に嘘はなく、通常となんら変化は感じられなかった。物理的な能力ではないとしたら魔法や超能力のような能力ではないだろうか?そんな事を考え実験を開始してみた。
魔法とはなんであろうか?そんな事を考えてみた、物語に登場する魔法使いは杖や指の先、掌から火や雷、冷気などを出し敵を攻撃する、そんなイメージで語られる事が多い気がした、何もない所から何かを出すのなら二つの事が考察される、一つはワープ、どこかにある物を手元に呼び出すような感覚であるが、一般的に炎を出すような魔法とはイメージが違う気がする、もう一つは物質変換、中世のヨーロッパなどで真剣に研究された錬金術などもこれに当たるかもしれない、鉛を金に変えるように、空気中にある物質を別の物質に変化させる事が出来れば燃焼という化学現象が生じ炎を生み出す事も出来るのではないだろうか?そんな事を考えてしまった。
結果はやはり失敗であるように思われた、スナック菓子の欠片を使いそれを手に持ち金属に変換する事をイメージしてみたが、何度やってもスナック菓子はスナック菓子のままで指先に力を入れると簡単に崩れてしまった、指に着いた粉を舐めて見ても塩っぽい味がするだけでなんの変化も見られなかった。
逆に今度は硬い物を曲げるような事を試みることとした、前は力で曲げようとしたが、撫でるだけで曲げられるとしたらそれは明らかに物理の法則を無視していると言ってよく、超能力と言えるものであると考えられた、テレビに登場する者達はさも本物のようなキャッチコピーで語られるが、マジシャンのようなトリックがあるものと頭から決めつけていた、しかし自分で実際に曲げられたらこの世界にはそんな不可思議な力もあるという事になるのが信じられる、そんな気がしていた。
何度やってみても掌の10円硬貨は一向に曲がる事はなかった、浮かそうと思っても掌の上からピクリとも動かなかった、全然別種の能力でアプローチを完全に間違えているのであろうか?そんな事を考えながら掌の上の10円玉を弄んでいると、段々と嫌な考えに囚われてくる、力を手に入れた加奈子は明らかに出し惜しみをしていた、彼女については名前しか知らないが身に着けているものなどから。所謂エリートと言われる人間である事が想像できた、あいつらは人を見下し、首を切り、使い捨てにする、何人切る必要があると言って平気で排除する、上に登るために平気で人を蹴落とし貶める、そんな人間が皆の為の献身などしない事はよく知っていた、自分の利益にならないとなればあっさり切り捨てるのは目に見えていた、あの女のあの態度は一人隔絶した力を手に入れた彼女が自分達を無用の存在として切り捨てる第一歩を踏み出しただけであるとしか考えられなかった。ここは日本どころか地球ですらない可能性が高く、だからこそ流石に不安も多いかもしれない、地球の基準では超人でもここの基準では凡人という可能性すらある、しかも言葉も通じないかもしれない、そんな中で価値観をある程度共有できる存在である自分達を、まだ切り捨てられないというだけの話ではないだろうか?
そんな事を際限なく考えていると背を向けて眠っているであろう加奈子の寝首を搔いてやろうかと言う後ろ暗い感情さえ沸いてくる、しかし一息入れてさらに踏み込んで考えると、怖くなってしまう、首を切れば血が噴き出す、ホラー映画やスプラッタ映画など痛そうなシーンの多い映画は苦手であり、頭の中で憎い相手をイメージするまでならできても、そこからさらに一歩進んで実際に手を下す自分を想像する事は困難であり、実行に移すだけの度胸がない事は自分自身が最もよく知っていた。
どこかの独裁者が開発している核ミサイルのようになにもかも灰にしてしまえればいい、そんな思考に囚われるのも、血を見るのが嫌で手を汚したくないからというだけの非常に臆病な理屈からであった。
そんな事を考えていると、掌で弄んでいた10円硬貨が形を変え砂のようになっていくのが感じられた、暗闇の中でまるで見えなかったが確かに形あるものが崩れていくような形状の変化を皮膚が感じ取っていた。
思わず声が出そうになったが、ギリギリのところで声を噛み殺した、そして試しに手探りで床に落ちている何かを探ると、感触から飲んだ後で放置したペットボトルのキャップらしきものを探り当て、握ると砂になる事を念じた、しかしキャップにまるで変化はなかった、先ほどと何が違ったのだろうか?むしろ今回の方が強く念じたくらいであり、先ほどの方が適当であっただけに何が違ったのかが気になった。対象物、掌や指の位置、何を望んだか、色々考えてみたが手の形だとするなら絶望的に使い勝手の悪い能力としか思えなかった、緊急の場合を含めそんな急に完璧な形を作れるとは思えなかった、対象物だとしたら金属のみという事になる、金属のみという事になればかなり用途は限定されると思われるが、まだ手の形よりはマシだと思われた、何を望んだか?今現在自分は砂になる事を念じていた、しかしあの時考えていたのは核ミサイルで全てを灰にする夢想であった、『灰』、そのキーワードで念じると、手に握ったキャップは手の中で溶けるように崩れて行くのが実感できた。
能力が分っただけで上等であった、しばらくはなんの能力もないふりを続けながら、様子をみようと心に決めた、切り札が一つ手に入っただけで精神的にはかなりゆとりができ、安堵感の中で眠りにつくことができた。
そんな安堵感の中で雅夫は眠りについたが、実は他二名も雅夫の様子に、もっと正確に言えば自分以外の他人の様子に神経を尖らせていた、まず慎一であるが、考えた内容は雅夫とほぼ同じ内容であったが、しかし結果は伴わなかった、似たような事をやっていたが成果がまるで出ず、そうこうするうちに雅夫が完全に眠りについた気配を察した、なんらかの能力に気付いたのかそれとも眠くなって諦めたのかは分からないが、明日様子を見てみようと考えやはり眠りについた。
加奈子は女であり、どうしても男二人といる空間で無防備に眠れるような神経はしていなかった、いくら力で他を圧倒するとはいえ、不安感をそれで払拭できるものではなかった、なにやらゴソゴソとやっている気配は感じられ、やがて静かになった、自分にも何か能力が目覚めていないのかをこっそりと実験しているのだとしたら、その実験を公にしない理由は手の内を明かさず、切り札を温存する事によって、いざという時に有利に立とうとするそんな考えが読めるようであった。会社では同僚であっても絶対に気を許す事などできず、気を許せばあっという間に足を引っ張られることなど珍しくもなかった、そんな環境で生きてきたが故に雅夫も慎一も信用する事が出来ず、切るタイミング、場合によっては殺すタイミングを考え出していた。