萩野古参機関士 噂
本作品の製作にあたり、何度も助言を乞う私に逐一返答をくださった、リーフレット先生に、本作を捧げる。
だから目玉焼き定食で許して
今日は立脇機関士との乗務。今や難所のスイッチバックを走っていた。スイッチバックは大きな標高差があるときは必須なもので、斜面を何度も行ったり来たりとジグザグに上ってゆくように引かれた線路の事だ。ひたすら続く登り坂。幸い機回し(機関車を前後付け替える作業のこと)や何やで休みは入るけれど、いかんせんこの肉体は女だ。元より男性よりも体力的に劣り、さらには世の男はまったく苦しむことのない事が、ほぼ隔月に起こる。運なくまさに今日は今朝からそれだった。頭に血が足りない気がするし、ヘソの裏から長さ五センチ、径一センチ半の棒でぐぐっと外に向けて押し続けられているようで、不快だ。しかも蒸気機関車はローリング方向に揺れる。ボクをいたぶりに来ているとしか思えない。
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あと少しで機関区だ。あと少し、あと少し…
気がつけばボクは線路脇に寝かされていた。そして、立脇機関士がボクの菜っ葉服(青い作業着)のボタンを既に胸元まであけて居た。ちょっと待って!!立脇機関士!!何をしようというの!?―っ!声がでない!?
「とぅ!」
うわっ!?って、バケツから水が!?そのまま、ある程度抱き起こされて、バケツの底に残った水を口に流し込まれた。そうか、ボクは機関車の中で倒れたのか。立脇機関士には迷惑かけたかなぁ。ダメだ、まだまったく体に力が入らない。
「もう、入庫も終わったしなぁ、よし。」
立脇機関士がボクをひょいと抱き上げて、歩く。何をしようとしているか、解った。わかってしまった。これはイヤだ。立脇機関士には解らないでしょう、女の内輪話の恐ろしさ!?やめて、変な噂が立ったら居所が無いから!!
そんなボクの願いも虚しく、立脇機関士はボクを女子寮に運び込み、出入口のソファーにボクを寝かせると、寮母さんと短く言葉を交わして出ていってしまった。その間に寮に帰ってきた食堂車で働いてるねーちゃんが、ボクと立脇機関士を何度も見て、そして走って行った。ああ、終わった。
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女の噂にはトゲがある。本人たちは自覚しているかは知らないけれども、そのトゲはその話題の俎上にある人には深々と突き刺さり、その心をささくれ出させる。しかも否定しようとも、「素直になりなさいって」とかなんとか言って都合のよい結果しか見ない。その噂の俎上の人物の気も知らないで(。うぅ、居所が無い。仕事、やめてしまおうか。かといって家に帰ってもあの父の事だ、ろくでもない縁談を持ってこられるだろう。あぁ、死んでしまいたい、いや、それだと死体処理の人が大変だから、跡形もなく消え失せられたらなぁ。
……嫌なこと思い出した。この前乗務を終えて機関庫を出る前に機関車をふとみると、足回りのロッドにべったりくっついていた長い頭髪、そして洗い流している間に、出るわ出るわ、肉片が。お陰でワカメの汁物とか鶏のささみが食べられなくなった。誰だ、列車に飛び込んだ人は。死ね。いや、既に死んでるか。
非番の日だから余計に辛い。仕事があるなら何も気にせず肉体を動かしていれば良いが、暇だと余計に色々と考えてしまう。な何でこんな目に逢うんだろ。好きでこんな風に生まれた訳じゃないんだけどなぁ。
「確かに『そう』生まれたのは選んだ訳じゃないだろうが、ここまで生きてきたってのは自分の選択、というやつじゃないのか?」
「―――!」
「何でここにっ、て言われてもな。立脇の奴から励まして来たらと言われてな。」
「―――!―――!」
「ああ、それか。社員食堂のオバチャンがな、手を回してくれてな。」
何でだ。オバチャン。
「どーもあんたが苦労しとるからどこぞにでも連れ出せとさ。行くぞ。」
「―――。」
萩野機関士もボクも余り服を持ち合わせて居ないから、結局何だか仕事着っぽくなる。菜っ葉服便利。
「そうそう、噂の件、オバチャンが言ってたよ。」
「―。」
「何だ、その気の抜けた感じは。仕事の時とは全然違うじゃないか。」
「―!」
「しっかしなぁ、女共、全く見る目がねーな。あの立脇が奥さん以外に靡く訳がないだろうが。」
「―!?」
「そうだよ、あいつは妻子持ちだ。しかも息子が二人だ。」
「―――?」
「あー、俺か。居た。」
「―?」
「空襲でなぁ……」
あっ……(察し)
「まあ、なんだ、気にすんな。」
うぅ、そう言われても、何だか申し訳ないなあ。なんかなぁ。
「俺は、嫁の死に目に間に合わなんでなぁ。それだけじゃない、泣けなかったのが一番悔しいんだ。」
「―。」
「ん。疲れはてて、嘆くことすらできなくなっておった。」
何だかどんどん話が湿っぽく!!
「あぁ、やめだ、やめ。気が滅入る。さて、気晴らしにチト早い昼飯にするか。社食でいいな?」
なぜ社食だ。他に飯屋なんかたくさんあるじゃん。
「噂の件、一肌脱いでやるよ。だから、社食で頼む。」
「―――。」
二人で社屋を目指して歩く。休日まで社食とか、酷い男だ、萩野機関士も。
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「で、オバチャン、どうにかならんもんかなー。」
オバチャンに丸投げじゃん。何が一肌脱いでやるよだ。
「いやぁねぇ。難しいわよ、そんなん。」
「あーっ、俺には女共の事なんざなーんも解らん。」
「仕方ないわねぇ。考えてあげる。だから、目玉焼きじゃなくて。」
「良いだろう、ならトンカツで。」
「もう一声!」
「茹で玉子付!」
「よし乗った!!」
まって、機関士、明らかにそれは乗せられてる。
「で、どうすん。」
「それは簡単。より大きな話題を投げ込めば良いのよ。」
「そんなんでいいのか?」
「いいのよ、女は移り気ってねぇ。というより、男が引きずりすぎなのよ。」
「悪かったな、戦の時の事をまだひきずってて。」
「そんなところが女々しいって言われてんのよ。」
「そんなの初めて聞いたぞ、おい。」
「あーら、嫌だ、口が滑っちゃったわ。で、貴女はどうしたいの?」
「―――。」
「解ったわ。任せて!!」
「なんか嫌な予感しかせんのだが。」
「貴方達、結婚しなさいよ。」
「何でじゃぁ!?」
「そんくらいおっきな話題なら、いまの噂、綺麗さっぱり吹っ飛ばせるわよ?」
「でかすぎるわ!!俺の方が咀嚼できねえ。」
「―――。」
「えぇっ、そういう噂が嫌なんじゃないのか?」
「―――。」
「俺となら良い、って言われてもなぁ?」
「どうせ先立たれるのが怖いだけでしょう?ほら、『もはや戦後ではない』んだから。さぁ、さぁ!」
明らかにオバチャンは煽って楽しんでるだけだ。ボクのためじゃない。でも、萩野機関士の反応を見たくて敢えて乗ってみた。思った以上に狼狽えているのが、これまでの厳しい印象と相まって面白い。でも、これ以上はダメかなぁ。
「―。」
「お、おお、よかった、のか?」
「―?」
「そこの花壇に埋めんぞぉ!」
「―――。」
「あらこわーい。だから禿げるのよ、ねえ?」
「―。」
「あーもぅ。で、どうすんだ。」
「大丈夫、私がどうかしとくから。」
「お、おうよ。」
目玉焼きで。銀シャリと味噌汁は別に用意されていたため目玉焼きの分だけの金で食べられた。時代にもよるが四十円だったときもある。野菜もタダで付いた。
「あ、あとからかった罰な、飯代折半。」
そんなー
「―――。」
「冗談だ。全く。こう見たら普通に可愛いんだよなぁ。」
かわいい、だって?ボクにいってはならない禁句百選のトップだよ、それは。
「―――!?」
「ハハハ、だいぶ調子が戻ってきたじゃねぇか。」
「―――!!」
主人公が感じている腹痛は筆者が月に一、二回ほど感ずるもの。その状態の筆者はすぐに当たり散らしたりするので近づかないのが吉…筆者は男ですよ?