第一章冒頭部
(以下は冒頭部の抜粋です)
(投稿テストなので期限を設けずに削除します)
銃創が胸に刻まれていた。心臓を貫いていた。
心肺停止となり死んだ人間は、命が尽きてからも六〇秒間は意識を保ち続けるらしい。
その《らしい》という推測の域を出なかった知識は、自らの体験を持ってより確実なものとなる。
赤い液体は瞼に流れ込み、次第に視界を奪っていく。ぼんやりとした視界に移るのは薄暗い天井だった。
胸に奔る激痛、流れる血液、倒れた身体。
自らの置かれた状況を理解した。己は他者により銃撃され、心臓を貫き、死んだのだと。
今このときも、死んでから刻一刻と時が過ぎ去っていた。確実に三途の川を渡っていた。
川へひとつ歩みを進めると、水はひどく温かった。そして、夏の匂いがした。懐かしい匂いだ。
畳と、土と、煙草の匂い。
まだ大学生だった頃、ひとり暮らしのアパートの匂いだ。その一室はたいそう酷いもので、六畳一間の古小屋のようなものだった。畳を踏みしめればミシリと軋んだものだ。磨り硝子の窓は建て付けが悪く、煙草を吸うときでもさえもそれを開け放つことはなかった。
唯一開け放ったことがあった。それは大学三年の八月、圭が二十一歳の誕生日を迎える数日前のことだった。埃の溜まった縁に嫌々と手をかけて、目一杯の力で開けると、大きな風と共に夏の土の匂いがした。
――籠目圭は回想する。
意識が天高く飛び去るまで、残すところ五十八秒のことだった。
《二十歳 夏》
もう二ヶ月はカレンダーをめくらず、それは六月を三回繰り返していた。カレンダーに日追いでバツ印を書き込むことは大学一年の秋にはやめていた。
昼過ぎの授業が三〇分早く終わり、これはしめたと思った圭は、日の昇っている昼間から酒を飲み明かそうと思っていた。
木造二階建て、戸数六のボロアパートであったが、圭はそれが気に入っていた。古かった分、家賃も安かった。国立大授業料の半値程度であり、片手間な居酒屋アルバイトで賄えるほどのものだった。だが、家賃が安いという理由だけで、気に入っていた訳ではない。
最寄り駅から徒歩四〇分、大学まで三〇分という悪立地。地方大学に進学する大抵の者は、地元の人間か、第一志望に行けなかった他県の人間であるという法則からして、こんな辺鄙なアパートに好きこのんで住まおうという大学生はいない。
立て付けの悪い扉は開閉する度にギイギイという音がして、しかも窓は開けようとするものなら、非常に苦労する骨董品。畳は十年以上張り替えられておらず、所狭しに禿が浸食し、黄色く変色していた。
ましてや、こんなアパートに住まおうなどと考える社会人などいなかった。
つまるところ、このボロアパートに住む人間は、籠目圭の一人と決まっていた。
大学一年の頃には一階の角部屋に三〇代と思しき男性が住んでいた。彼は皺のとれない着古したスーツを羽織り、疲労に満ちた顔で早朝出勤をしていたが、いつの間にか居なくなっていた。このアパートはそういうところなのだ。
錆び付いた鍵穴に、二年と四ヶ月使い続けた鍵を差し込み回転させる。塗装の落ちた木製扉を開け、ポストを確認する。黄色と黒の二色刷チラシが数枚と、一通の葉書が入っていた。葉書は両親からだ。
きちんとご飯を食べているか、勉学に励んでいるか、お金に困っていないか、などなど。それはありふれた手紙だった。返信は数日後でいいかと思い、その葉書を台所に放置する。
六畳一間の畳には、中古のちゃぶ台と、くたびれた万年床の敷き布団。無数の飲みかけウィスキー、空瓶、つぶれたビール缶。テレビはない。
ちゃぶ台の上に置かれたステンレス灰皿は煤け、突き立てられた数十本もの吸い殻を抱えている。灰が溢れる前に捨てなければならないのだが、いざ裸にしてみるとそれはそれで寂しいものなのである。
昨晩はウィスキーを飲んだまま眠ってしまい、グラスには茶色の液体が残っていた。それを台所に流し、濯ぐこともせずに新たなウィスキーを注ぐ。
一口でそれを飲み干すと、湿った唇に煙草を咥え、百円ライターで火をつけた。『煙草は二〇歳から』と言うが、あたかも二〇歳になったら喫煙することを推奨するような標語である。それに疑問を抱いていた純粋な中学生時代の圭と、今の圭はかけ離れた人間になっていた。
無理もない。戦時中における情報統制下では、インターネットや娯楽番組がないのだから。
およそ一年前、二十歳になったときのことだ。コンビニエンスストアに立ち寄ると、今まで目もくれていなかった煙草コーナーが気になるようになった。それから幾日かした日、圭の手には一箱の煙草と安物のプラスチックライターが握られていた。圭は何とも言えない高揚感を覚えていた。二〇歳になった幸福感と、二〇歳まで生きられたという安堵感と、何か悪いことをしているのではないかという罪悪感で心が一杯であった。
それからもう一年も経ったのである。
籠目圭が通う大学は、山形県米沢市に位置する米沢大学というところであった。埼玉県秩父市の実家から、鈍行列車を乗り継ぐこと一〇時間ほどでたどり着くそこは、長閑な街で平和そのものであった。
戦闘機によって空がわななくこともなければ、軍靴がアスファルトを叩くことも無い。空襲警報など聞いたこともなかった。
――煙草を肴に、ウィスキーを飲み干していく。
時というものは古典物理学においては不変なものであり、日常生活を送る限りは一定の速度で進行していく。だが、人間は酩酊状態に置かれると、時というものを正常に認識することが困難になり、主観限定的であるがそれを飛躍することが可能となる。だから、圭は酒が好きだった。この時――戦時下というものが早く過ぎ去って欲しいと願っていた。
大学の入学祝いにと両親から貰った機械式腕時計に目をくれると、二本の針が一本消え去っていた。それが六時三十二分を指している――つまり二本が重なっていると理解するのには時間がかかり、そのころには六時四〇分となっていた。そういえば、時計の針が重なる時間は何時か、という数学の問題を高校入試でやったなと思い返していると、中学生のころが懐かしく思えてきた。
両親は勉強のことをよく言う人であった。それは、息子の将来のことを思ってのことだと理解したときには、当の本人は既に自堕落的な大学生となっていた。失って初めてわかるものの大切さを痛感したのは、それが初めてのことだったと思う。
ガシャリ……コトン。という軽い音がどこから聞こえた。アルコールによって歪曲した視界を振り回し、音の持ち主を探る。金属とも畳とも木とも思えぬ音は、ポストに何かが投函されたものであった。
数メートルもない距離を、のらりくらりと這い歩く。スチール製の錆びた内ポストを開けると、白い封筒が投函されていた。
封筒の裏面には何も記載されておらず、訝しみながら裏返す。宛先は圭であったが、送り主の箇所には何十にも及ぶ小さな活字が並び、読む者を陰鬱とさせた。酒に酔った圭にはそれが読み取れなかった。
どうせ迷惑郵便の一種だろうと、そのまま放り投げようとしたが、あと少しというところで思いとどまった。よく見ると、表面には赤く印字された「重要」「親展」の文字。
何故投げ捨てなかったのかというと、その封筒が軽すぎたからだ。チラシが何枚も入っているような迷惑郵便の厚みも重みもなかった。親指と人差し指でつまんでみると、一枚ほどの厚みしかなく、紙切れ程度の重さしかなかった。
母親譲りの大きな目をもったいげもなく細め、乱雑に封を破いた。予想通り、二つ折りのA4用紙が一枚封入されているのみであった。
それを開く。
度数四〇%のウィスキー、四〇〇ミリリットル分のアルコールが抜けた。
そこには、
『徴兵通知』
とあった。