黒の森の異常
黒の森。
そこは地面を彩る土も、そこから生えている草木ですら黒一色に染まっている異様な地だ。
ある研究者の話では土壌に濃厚な魔力の素、魔素が宿っているとのことだった。魔素とは空気中にある魔力の素となるモノで、場所によって濃度が異なる。濃度によって環境を変えるというのは、ヒトの住む人界と魔族や悪魔の棲む魔界の違いからも判明している。
魔素の濃度がその土地や植物に影響を与え、環境を変えるのだ。
中でもこの黒の森は異様だった。
魔素が濃いことで緑の草木が他の色に変わるのは魔界で確認済みだ。しかし黒に染まった例は他にない。しかも比較的魔素の薄い人界にあるというのに黒の森はずっとその環境を保ち続けている。
普通ではあり得ない環境であるため、黒の森の地下には凶悪な魔物が封印または眠っているという仮説が立っていた。
結果、周辺国家からは暗黙の不可侵領域として認定されているのだった。
とはいえ研究するだけなら立ち入っても良いのだが、黒の森にいる魔物は強く研究するだけと言っても危険が伴うため、滅多に立ち入らない。
以上のことから周辺国家の領土には加わっていなかった。
――今回は、それがいけなかったのだろう。
「……はぁ……はぁ……っ!」
一人の冒険者が黒の森を走っていた。
呼吸は荒く、いくら戦闘のために鍛えているとはいえ両腿の筋肉が悲鳴を上げている。もう足を止めて休みたいが、そうも言っていられないのが現状だ。
「……くそったれめ!」
呼吸が乱れるのも構わず毒づいた。それも仕方のないことなのかもしれない。
彼は研究者の護衛任務を受けたC級冒険者だ。黒の森の調査には個人的な興味があったため研究者と馬が合い、度々調査の依頼を受けることになっていた。
彼の仕事は簡単だ。仲間達と一緒に魔物が来ないかを『索敵』し、来たら研究者を守りながら森の外まで撤退する。魔物を倒そうとはしなくていい。魔物を倒しながら研究を進めるとなるともう少し上の冒険者でないと厳しいのだが。
今日も同じような依頼を受けて黒の森にやってきていたのだが、森は普段と様子が違っていた。
いつもと同じ調査をせず異変の原因を探るように森を探索していたのだ。
以前の調査でもそうだったが、『索敵』のスキルで魔物がいればそちらを避けて通ることもある。できるだけ魔物と遭遇せず長く調査することが良いからだ。
しかし今回は、魔物と一切遭遇しなかったのだ。
『索敵』で魔物の気配を探っても、『魔力感知』で魔力を持つ者を探っても、一切反応がなかったのだ。
怪訝に思いつつも、ここはリンデオール王国の王都から程近い位置になる。国の中心地で最も近いのはそこだった。
異変が起こっているのならばある程度調査しなければならない。強大な魔物が出たなど討伐が必要な異変ならば討伐依頼を出さなければならないだろう。
そうして調査を行った結果、今は彼一人しかいなくなってしまった。
「早く、早く街に知らせねぇと……!」
彼が見た光景を伝え、討伐隊を編成してもらう必要がある。だからこそ全力疾走で黒の森を出ようとしているわけだ。
しかし、移動速度上昇の装備をつけた軽装の彼であっても、そいつからは逃れられない。
彼の耳にはずるずるとなにかを引き摺るような、なにかが這いずるような音が聞こえていた。
彼が仲間達の要である、盗賊だった。
『策敵』、『魔力感知』、『聴覚拡張』の三つを併用して警戒に当たっていた、はずなのに。
ずるずるという音が大きくなっていき、そして間近まで迫ってきたかと思うと左足がなにか引っかかる。予想外のことにうつ伏せで黒い地面に滑り込むが、なぜか左足に引っかかったモノは取れず、足首に巻きついてくる。
「い、嫌だ……っ!」
恐怖が彼の心を支配した。仲間達の末路を見て、しかし戦うこともせず逃げてきた。なのに結局逃げられずに死ぬのか。
もがいて手元にあった木の根を掴もうと手を伸ばし、彼の手が届く前に左足が引っ張られた。
「あ、ああぁ……!」
ずるずると引き摺られていく。彼のステータスでは抗えないほどの力で、黒い森を逆送させられていく。森との境目が遠くなっていった。絶望が強まり、転がっている石や枝が身体を傷つけることなど構わない。必死に手を動かし、なにか掴めるモノはないかと足掻くが、引っ張られる速度が速くて木の根を掴むことすらできなかった。
「あ……?」
ふと、引っ張られるのが終わって、今度は持ち上げられる。結果、自分の後ろにいたヤツを目にした。
その恐ろしさと生理的嫌悪感の混ざった姿に、息を呑むこともできず喉がヒクついた。
目の前にあったのは口だ。いや、位置を変えられて真下になる。口が大きく開かれていた。矮小な人間など丸呑みできそうなほど大きな口だ。しかし口の奥に食道が見えない。歯がずらりと並んでいるが、同じ生物の歯ではなかった。人間のような歯もあれば、狼が持つような牙もあり、形はバラバラだ。まるで色んな生物の歯を寄せ集めたようだった。
吐息はないが異臭だけは鼻に入ってくる。いくつもの生物を喰ったせいか濃厚な血の匂いと、おそらくは目の前のヤツが本来持つ臭気だ。ずっと嗅いでいると吐き気を催すような臭さに顔を歪めることすらせず。
「嫌だ……っ! 嫌だあああああぁぁぁぁぁ――!」
段々と口が近づいて――摘まんだ食べ物を口へ放るように下ろされて、恐怖から声を上げる。しかし開いた口は彼の腕では届かないほど大きかった。
下ろされて上半身が口内に入ると、濃厚な臭気によって呼吸できなくなり嗚咽を零す。
「や、やめっ……!」
薄暗い口内が更に暗くなっていき、口が閉じられていることを悟った。まだ脚が全部入っていないのに――
「あがぎいいいぃぃぃ!!」
太腿に激痛が走った。牙が刺さり、歯で押し潰され、生温かい血が彼の身体を滴り落ちる。
一回目で噛み切られなかったのは幸か不幸か。
一旦引き抜かれた歯が、もう一度、先程よりも強く噛み合わせてくる。
「あああああぁぁぁぁぁ!!」
千切れない食べ物に対してそうするように、上下の歯を擦り合わせた。喰われる側からは痛みを増す行為でしかない。
痛みに応じて絶叫し、ここから逃れようと腕を振り回すが、全ては無駄だった。
やがてズタズタになった脚が千切れて彼は口内に落ちる。噛み千切られた脚の痛みで頭の中が支配され、血と涙などの体液でぐじゃぐじゃになった顔で彼方を見ていた。
そんな彼を包み込むように、閉じた口内の中で肉壁が蠢き出す。肉壁が盛り上がって彼の身体を覆っていった。既に意識すら乏しい彼にはわからなかったが、包み込んだ獲物を溶かし肉壁へと吸収していく。命が完全に尽きたのは、彼の全てが溶かされてからだった。
しかし、もし耐え難い激痛に耐えて意識あるままに喰われたとしたら、まだ続いていたかもしれない。彼の身体は消化されたが、そのまま表面へと移動していた。
そいつの表面に、彼の二の腕と胸元から上までが生えてくる。見渡すことができれば、彼と同じような状態の生物が確認できただろう。先に喰われていた仲間達や、この森にいた魔物達が生えていた。
そいつは肉塊と表現していい、醜い見た目をしていた。生えている生物達は元の色そのままだが、醜悪な肉塊は全て肌色だった。所々から伸びている触手も、所々にある口も全て。
これの元になったのが人間だったからだろうか。
そもそも触手から丸呑みしてしまえばいいものを、口に入れるという過程を経ているのはその名残だろうか。
触手を伸ばして手当たり次第に生物を喰らっている。今、先程喰った人間の足を口内に放り込んだ。
生物を喰らい、体積を増やして成長する文字通りの化け物。
喰えば喰うほど魔力や身体能力が上がっていることに気づいた者は、まだいない。
黒の森に突如現れた異形の怪物を、最早止められる存在も減ってきている。
その醜悪な肉塊の頂点に、他の生物達とは違って上半身全てが生えてきているモノがあった。
程好く鍛えられた綺麗な上半身が、太く浮き出た青白い血管によって禍々しく映る。血管が全体に浮き出ているせいで、元は整っていたであろう顔も醜く見えた。両目は陥没していて見えず、金髪も薄汚れている。
果たして彼を知る者は、彼を彼と認識することができるのだろうか。
この世のなによりも強くなるために、それは捕食を続ける。
ただそう在れと創造主の命が下って放たれてからひたすらにそう在り続けた。
加えて最初に喰った死骸が抱いていた強烈な感情を読み取ったことで、一つの目標が生まれている。
「……ァ」
頂点に生えた青年の口が開かれる。もう既に生きてはいない身体だが、混ざったことで意識が混濁した状態であれど戻っていた。
「……桐ヤァ……カイトオオォォォォォォ!!」
青年は自分が死ぬ原因となった者の名を叫び、黒の森を蹂躙する。世界のどこかにいる、その者を殺すために――。
そんな肉塊の様子を、黒い木の天辺に屈んで眺めているモノがいた。
肩に三メートルはある片刃直剣を担いだ赤髪の魔物だ。鈍色の仮面をしており、格好は腰巻と胸元のさらしのみだった。女性のようにも見えるが、三メートルはある体長と滲み出る気配がただのヒトではないことを表している。
気紛れにやってきた、最強の魔物の一角だった。自らの縄張りを荒らすモノに対して制裁は加えず静観している。
まるで、なにかを待っているようだった。