夢の余韻
三日月が綺麗だ。月光は煌々と俺の瞳に入り、灯りのないこの部屋を薄く照らす。鏡台に置かれた婦人の彫刻は、月明かりに縁取られて、官能的な曲線を浮かばせる。
ぼんやりと見張りを続けながら、青白い月明かりに触発されて、ふとセンチメンタルな感傷に浸っていた。心が麻痺してる、イアンは自分の精神状態をそう判断した。麻痺した心では、ロクな答も出ないのに、取り留めのない考え事をしてしまう。ヒエラはどうしているだろうか。流石に寝ているだろうか。そう考えると、ヒエラの寝顔が頭をよぎって頭の中が痛む。
どれくらいそうしていただろうか。ハッとすると、月は燦然と頭上を跨ぎ、夏の星空がイアンを見下ろす。眠気は感じなかったので、リタは起こさず寝かせておく。無理に寝ても仕方が無い。
兵士とは、死を一番近くで感じる立場である。命のやり取りによってしか、自らの立場を確保できない。「兵士イアン」のアイデンティティーが剣の腕だとしても、それは命を刈り取る手段の一つでしかない。つまり、アイデンティティーとは別に、自分を社会の中で生かしていくためにはその先、結果が必要なのは言うまでもない。アイデンティティーの主張で生きていければ、人間苦労しない。自分が生きていくために、他者の命を奪う。なにも、人間対人間だけでなく、普段口にする食糧だって命だ。しかし、「死」は避け難く訪れる。どれだけ犠としてたくさんの命を奪っても、いつかは死ぬ。これは逃れられない恒久的不変の原理である。もし、命のリミットラインを無視できる生命、或いは可能にする技術が登場したとするならば、人々は逆に不安を覚えるであろう。
命を生かすため命を消費する。何故、死は待っていてもやってくるのに、その境界線に立って命のやり取りをするのか。何故、死に向かって歩かねばならないのか。それは、生命が抱える最大の矛盾であるようにイアンは思う。このまま隠れていれば、生きていけるかもしれない。ここに身を置き続ければ、明日には死んでるかもしれない。何故、俺は戦うのか。
思考の回路がそこまで来て、イアンは息をついた。そんなことは、どうでもいい。答もでなさそうだし。ヒエラは苦労しているだろう。慣れない環境で、移動を続けているだろうか。ここ北部地域から、避難先の南部穀倉地帯まで、馬で駆けても10日ほどかかる。ヒエラのことを想うとそんな環境下に置かせたガロウへの怒りが心の大半を占めた。何故、俺は戦うのか。その答えは、この怒りで十分だ。
東の空が白み始める。月は次第に輝きを失い、満天の星空も青に塗り潰される。
ゴソゴソと音を立ててリタが起きた。まだ夜は開けていない。今が一番冷える時だ。夏とはいえ、北の空気はひんやりとして、汗が出るようなことはない。きっとリタはよく眠れただろう。
「イアン、お前も寝たらどうだ」
リタは装備を整えて、気遣いを見せた。
「ん…眠る気になんないんだよ」
少し考えたが、やはり眠くはなかった。
「少しでも横になった方がいいと思うぞ」
リタはやけに押してくるので、
「…わかった。見張りは任せるよ」
少し、休もう。
イアンは深い闇の中にいた。しかし、辺りは完全な闇ではなく、赤い靄がイアンの周りを取り巻いている。不快だ。何故だか、この靄には神経を逆撫でられるような気がする。次の瞬間、冷気が突然足から這い上がって来た。それは「死」という冷気だった。冷気にあてられた視界に、うっすらと二つの影が踊る。それは、幼い頃良く目にした…
「…母さん……父さん…」
目が覚めた。いつの間にか、寝てしまったようだ。
「……」
顔を拭うと、自分が泣いていることを知った。いったい何の夢だったのだろう。捕まえようとした夢の余韻は、腕に中でふわりと消え、深く心に残る不安と焦燥感だけが残された。
イアンに、肉親はいない。7年前のとある事件で両親は命を落とした。それ以来、ヒエラの父、コルに拾われて、ともに過ごした。だが、ユルやキリノに両親のことは一度も話したことはない。その訳は、イアンは話したくない上に、話すようなことではないと思っているからだ。
そんな隠し事を嘲笑うかのように、東の空の太陽が硝子越しに顔をのぞかせた。
第三章開始です。
が、ここで完結です。
今後については、このあと執筆後記に書く予定です。