疑惑と願望
「イアン!」
名前を呼ばれた声がヒエラの声ではなかった。珍しいことだ、と俺は首を回した。映ったのは、リタ。
「イアン。敵が来た。悪いがお前の力が要る。早く来い」
肩で息をしながら、早口に捲し立てたリタは、装備を寄越した。
頭がついて行かない。敵が来た?…もうダメだ。また、俺たちは負けるんだ。
「イアン!しっかりしろ。お前の大切なヒエラも殺されるかも分からないんだ。お前の手で助けてみろ」
リタの言葉にふと、血に沈んだヒエラの焦点を結ばない目が思い起こされた。その瞳は、俺に何か語りかけるようで……。
「…待って……行かな…いで」
言葉と一緒になって涙も零れた。
「イアン」
ゆっくりとしたリタの声に俺は覚悟を決めた。
世界は色彩を帯びて、四肢に感覚が戻る。形造るのは勝利のイメージ。
「あぁ、わかってる」
今回はフル装備だ。負けはしない。
戦場は一時混乱したものの、第2号作戦に沿って作戦行動が展開された。10の大隊はそれぞれの役割を果たすべく、方々に散って行った。イアンら第2小隊も決死の防衛作戦を決行していた。ただ、全ての兵士は、一様に不安げな面持ちで行動していた。最大の脅威は、何と言っても自律兵器である。悪いイメージの中で交戦することは、敗戦を招く要因となることは言うまでもない。
殺戮は訪れた。
空は紅く染まり、空気は生暖かく血の匂いを孕み、地は建物の残骸を血液と脳漿の混ざったピンク色に染められる。逃げ惑う人々は狂気に震え殺戮者は恍惚の表情。逃げ遅れれば、先は無い。
「どうなってんだ」
リタは吐き捨てるように言うと、街の出口に殺到する人々を睨んだ。
「クレル、どうなってんだ?」
同じ言葉はクレルに向けられた。
「…おそらく2号作戦は上手く機能していない。…作戦通りなら、住民の避難はもう終わっている時間」
クレルは本当に推察が得意だ。わずかな情報の中でも答えを見つけることができる、と俺は思う。ただ、普段静かだから、何考えてんのか分かり辛い時もある。
「避難誘導するのはどの班だったっけ?」
今度は俺がクレルに問いかけた。
「…確か第4大隊の5連隊。…あそこは、実戦訓練のスコアがイマイチだから……」
クレルは自分の言葉で何かつかんだようだ。
「どうしたの?」
アテネが問うた。
「…薄い線かもしれないけど…」
全員の注意がクレルの言葉に傾けられた。
「5連隊が攻撃を受けたのかもしれない」
むう、とリクヤが唸ったが、可能性としては無いわけではない。しかしながら、
「避難誘導するってのは基本的に敵から一番遠いってことだろ…?」
リタの言葉は暗い色を孕んで消えた。
「…そうだと思う。でも、避難に苦労しているとしても、ここまで、時間はかからないと思うし、それなら、作戦下の緊急補足として、軍令部に報告すると思う。そうしないと、無駄になるのは俺たちの命だから…」
第2小隊の命をかけて、クレルは必死に考えている。俺たちが余分な事を言っても邪魔になるだけだから、リクヤも含めてクレルの推察を待つ。しかし、当然、今ここで殺されてもおかしくない状況下で、不安は一向に大きく膨らんでいくばかりである。
「…カニエクのときも、国境線から遠い兵舎が一番に破壊された。もちろん、闇討ちってこともあるとは思うけど、あの規模で爆発を起こすには、流石に大規模な人数だったろうと思う。もしかしたら…」
「敵が紛れていると…?」
リタが引き取った最後の言葉にクレルは頷いた。だが
「マテマテ、それはおかしくないか?ガロウ人と俺たちとじゃ、違いが明確に有るだろ?もし、敵がいるとしても俺たちは、紅い目や蒼い目を見逃していたってことになるぞ?流石にそれは…」
リクヤは信じられないようだ。しかし、
「敵がガロウ人とは限らないだろ」
リタがバッサリ切り捨てた。クレルが続く。
「…内通者の疑いは避けられない。ここまで、2回、的確に素早く作戦の要を破壊されていれば、こちらの作戦も筒抜けだと考えられなくもない」
アテネも信じられない、という顔でいる。
「この大事なときに、味方を疑えって言うのか?」
リクヤは声を抑えて強く言った。確かに、今こそ、団結して敵を打ち倒すときだ。連敗では国民の不安はうなぎ登りだ。
「…こんなときだから、だと思う。作戦は機能しない、自律兵器への不安、いろんな不安が国民、兵士はを包んでいる。こんなときは、人間周りが見えないものだ。敵としたら、内情を掻き回す絶好の機会になる。でもぞれを許せば、ルーナの負けは決まる。国民や志願兵の中には、勝てると思ってる人もいると聞いたけど、俺たちは、ずっと勝てるとは思ってなかった。そんな奴の中には、先に手を打っておこうと思う奴がいても何の不思議もない」
クレルは長い間話すと息を吐いた。
今、俺たちはずっと小さな家の寝室らしき部屋に立て籠もっている。基本的にこの作戦では、ゲリラ戦が展開されることになっている。硝子や壁越しにも散発的に銃声が聞こえる。しかし、俺たちの中にはそんな音は聞こえていなかった。
「どうするつもりなの…?」
アテネが震える声を挙げた。
「…それを決めるのは俺じゃない。この混戦下で自由行動はある程度容認されるだろうから、隊長の判断を待つだけだ」
そう言ったクレルは、リクヤを見た。全員がリクヤを見た。
「…それは、5連隊が敵のスパイであることを前提としての行動の話か?」
リクヤは顔つきを鋭くした。決断の顔だ。
「…当然」
クレルは返しそっと窓の外を見た。
「よし。わかった。我が隊は従来の2号作戦に則り敵の殲滅とハルル住民の避難を行う。補足として、5連隊との接触は避ける。不確定分子である彼がもし敵対勢力と繋がっている、と確証が得られた場合5連隊との交戦も視野に入れる。基本は、小隊規模での行動。19連隊(イアンら第2小隊を含んだ連隊)とコンタクトが取れた場合、情報の共有を最優先事項とする。いいな?」
「了解」
「第一次目標は19連隊との接触だ。それまでの交戦は指揮下にのみ許可する」
リクヤの簡単なブリーフィングを聞き入れた俺たちは、そっと家を出た。
睨んだ街の出口には今だ人が殺到していた。イアンは、そこにヒエラを見た気がした。