9.5日目。~俊樹の恋愛事情~
-俊樹の場合-
空港で諒を見送ってからしばらく経ったある日。
クリニックは相変わらず残念なことに患者の数は減るどころか増える一方で、仕事に忙殺されそうな毎日だった。
心療内科なのだから、患者がいない方が皆健康な証なのだが・・・と、それでもそれを生業としているのだからあまりそういうことも口に出しては言えない。
診察時間はとうに過ぎ、院長室にあるデスクの前で皮製のゆったりとした椅子に腰掛けて学会で発表された論文に目を通す。
「先生、お疲れ様でした」
俊樹専用のマグカップにドリップされたコーヒーを淹れて差し出したのは、受付兼秘書代わりにスケジュールを管理してくれている市川馨だった。
彼女はクリニック開院時からずっと勤めてくれている、今ではなくてはならない存在の一人である。
受付も兼ねている為、多少は見た目も大事だろうと求人面接時に観察をしていた何人もの女性の中で、群を抜いて能力も外見もずば抜けていた彼女。
俊樹の外見で寄ってきては仕事もできずに首になっていく女性達とは全く違い、仕事は勿論真面目で優秀、患者にも好印象で雇ってよかったと初めて思える人だった。
年齢も20代後半になるのに、10代にも見える若々しさ。
ふわりとさせたボブの茶髪に柔らかい印象を与える丸い瞳。
150センチそこそこの小さく華奢な身体。
系統でいえば、まさに癒し系といえるだろう。
だが中身はその柔らかさとは裏腹にはっきりとものをいうこともあり、ギャップに驚く者も少なくはない。
「ああ、ありがとう」
マグカップを受け取り一口飲むと、軽く息をついた。
いつものことながら、俺のコーヒーの好みをよく知っているな、と感心する。
「君は帰らないのか?」
俊樹がそう言うと馨は少し戸惑いがちに、口を開いた。
「あの、もしお時間があったら相談にのってもらえませんか?」
彼女の相談を聞いていると、こういうことらしい。
しばらくストーカーだと思われるような被害に悩み、警察にも相談はしたが実害がまだない為にパトロール強化という形でしか応じてもらえなかった。
ポストに毎日手紙が封書で入れられていて、初めはラブレターだけだったがいつの間に撮られたのか隠し撮りされた写真も同封されるようになり、出勤時間、帰宅時間、どこに買い物に行って何を買った、等監視もされている。
「実は、1度引っ越してはいるんですが・・・見られていたようですぐまた同じ手紙が・・・」
「悪質だな・・・そこまでされるんじゃ警察ももう動くんじゃないのか?」
それが、警察に行く度にストーカーの行動もエスカレートするのだ、と馨は困り顔で言う。
「もうどうしたらいいのか・・・自宅にいてもずっと張り付かれているのかと思うと眠れなくなってしまって・・・」
最後には泣き声に変わる彼女に、俊樹はぽんと肩を叩いてやり、
「ストーカーが諦めるか捕まればいいんだな?」
馨はきょとんとした顔で俊樹を見つめながら、頷くしかできなかった。
馨の部屋まで車で送り、一緒に部屋に入る。
セキュリティはしっかりしているマンションらしいから、居ない間に部屋まで来て盗聴機器等のような物を取り付けたりはされないだろう。
部屋まで入れればひとまずは安心、と馨も強張った顔から力を抜いた。
「すいません、狭いところで・・・ご迷惑をおかけします」
と、馨は頭を下げ、ガラステーブルに紅茶が入ったカップを置いた。
すっきりとした部屋は無駄な家具が一切なく、それでもレースや水玉模様のカーテンなどから女性らしさが窺える。
「これで男がいると諦めればいいが・・・ストーカーは逆上する奴も多い。
明日は迎えに来てやるから絶対一人で外に出るなよ」
そう釘をさす俊樹に、そこまで先生に甘えられない、と馨は首を左右に振るが、
「いいんだ・・・優秀な秘書に辞められると困るのは俺だからな」
と軽く笑いかけた。
「先生・・・ありがとうございます」
涙ぐみながら、馨はその日初めての笑顔を見せたのだった。
それから、さらにエスカレートしたストーカーの行動のせいで俊樹と馨も一緒にいる時間が長くなる。
もし襲われたら・・・、と脅える馨に、俊樹は空いた時間を使い出来うる限りで彼女についてやることにしたのだ。
次第に俊樹の家にも出入りするようになり、家庭的な馨の一面も知ることになる。
日頃のお礼に、と馨が料理を拵え一緒に食べるようにもなった。
部屋の行き来も相変わらずで、うっかり馨が寝てしまった日から泊まる回数も増えた。
俊樹は不思議と嫌な感じは受けなかった。
今まで纏わりついてきた女子達が部屋に行きたい、と甘えてくるだけで顔中に不機嫌さを出させてきたというのに、だ。
それが自然に思えて疑問も湧かなくなり1年。
あのストーカーは別件で捕まり、ずるずると芋づる式に出てきた盗撮やらストーカー行為やらで罪状も増え、執行猶予もなく刑務所行きとなった。
あっけなく一件落着したのである。
しかし、一緒にいることに意味がなくなっても俊樹と馨は離れることはなかった。
寂しさもあったのかもしれない。
俊樹も普通の人間であり、男だったということか。
ある日、酒も相当量入っていたせいかとうとう一線を越えて朝を迎えてしまった。
それでも馨は謙虚に、
「彼女にして下さい、なんて烏滸がましいことは言いませんから・・・」
と柔く笑うのだった。
その時はまだ諒子を好きな気持ちが強すぎて、馨と付き合うなど考えもできずにいた。
それから付き合っているのかいないのか、所謂恋人未満お友達以上、悪く言えばセックスフレンドといえる関係になり諒子が行ってしまってから2年が経つ。
心の片隅では、まだ諒子に対する気持ちが燻っている。
一度は振られながら勝手に待っていると言ったものの、傍にいる馨にも段々と心を揺さぶられるようになった。
そんな自分に反吐が出そうになりながら、二人の間で揺れる心を持て余した俊樹は、ある日馨から衝撃的な一言をもらうことになる。
それはあの空港の日から3年の冬。
「・・・妊娠しました」
がつん、と頭にくるショックを覚えて目を見開いて驚く俊樹。
避妊はしていた。してはいたが、薄いゴムの壁一枚では不十分ということか。
「あの、認知だけしてもらえれば・・・いいですから」
泣き笑いに近い複雑な表情で言った彼女を、俊樹はぐっ、と拳を握りしめた後に優しく抱きしめる。
「・・・そんなことを言わせてしまってすまない。
結婚しよう」
執着するほどに諒子を好きだった。
だったということは、もう諒子への想いは過去の物になってきているのかもしれない。
馨は正反対に、一緒にいると穏やかに過ごせる。そんな彼女に好意を持ち始めた。
心のどこかでは、諒子をまだ諦められない気持ちもある。
だが、長く揺れ動いていた天秤は馨の皿が下がり、諒子への想いは捨て去らなければならない時がきたようだ。
「・・・すまない、諒。勝手に待つといっておいて」
『・・・バカね、待たなくて良いって言ったじゃないの。
ちゃんと奥さん大事にしてあげるのよ?結婚式は行けないけどお祝い贈るわ』
どこか出かけているのか、ざわざわとした喧騒が諒子の声と共に聞こえる。
その中で、『諒子』と誰かが呼んだようだ。
『あ、ミーティングの時間だから行かないと。
おめでとう、俊樹。幸せになってね。じゃあ』
ツーツー、と通話が切れた機械音が耳に残る。
この瞬間、自分も長すぎた初恋が終わった気がした。
「お前を幸せにできない分、あいつは一生かけて幸せにするよ。
・・・約束する」
スマホに向かって小さく呟き、俊樹は街路樹が並ぶ歩道を歩き出した。
待ち合わせた彼女の姿を見つけ、歩く早さを早めて。
『9.9日目。』
「やったじゃないの、玉の輿ね~。
素敵なマンション~」
新築のマンションの10階、3LDKのリビングでは姦しい声が響いている。
「昔から馨は好きになった男は確実に落としてきたもんねぇ・・・。
ここまでくるとほんと感心するわ」
数人の友人が馨に向かって言いたい放題言っている。
気心が知れているからこそ言える言葉なのだろうが。
「・・・でもすごく時間かかっちゃった。
予定ではもう少し早く結婚してるはずだったんだけど・・・」
にっこりと笑う顔は悪びれた感はまるでなく、新婚ほやほやの若奥様然としている。
「聞いてよ侑子。
馨ね、なかなかプロポーズしてこないって焦れてゴムに穴開けまくったんだから。
できちゃった結婚って聞いたときには、笑ったわ~盛大に」
ひっかかった旦那さんかわいそうよね~、と友人は紅茶を飲む。
「女ってほんと怖いわね~」
あはは、と笑い声が起こる。
ほんと、結構時間がかかっちゃったわ・・・。
あの馬鹿なストーカー男のおかげできっかけはできたけど。
あの人、なかなか手出してこないんだもの・・・。
一番近くに居たのは私、あの人の好みは大概知ってる。
外見、性格、ものの言い方、振舞い方・・・。
あれだけの容姿なら誰かと付き合っててもおかしくなかったんだけど。
奪う自信は元からあったけど、結局思い過ごしだったみたいね。
もう、私のもの・・・。
侑子達も指咥えて羨ましそうにするなら自分でやってみればいいのよ。
私のように、ね。
あ、あの人が帰ってきた。
お出迎えしなくちゃ。
いつもの笑顔で・・・。
馨さんにもっていかれてしまった俊樹さん。
彼は知らずに一生過ごす事となります。
そのほうが幸せだと思いますが~。
次は新崎氏の出番です。
どうしてやろうかなぁ・・・




