8日目。
次の日。
それこそ重い溜息ばかりつき仕事も遅々として捗る事のない諒子を見かねて、課長の代田がちょいちょいと手招き使っていないミーティングルームへと呼び出した。
「呼び出した理由はわかってるな?」
「えっと・・・はい、すいません・・・」
しおしおと頭を下げる諒子に、代田は丸めたプレゼン資料でぽこん、とその頭を軽く叩く。
「仕事に全く身が入っていない、溜息ばかり吐いて周囲の空気を悪くする、凡ミスはする・・・。
仕事ででっかいミスやったわけじゃないからプライベートのことなんだろうが、下の奴にも示しがつかないだろ、そんなんじゃ」
「はい・・・すいません」
さらに頭を下げてしゅんとする。
そんな諒子に、代田はふぅ、と息をつき、
「・・・しっかりしろよ、お前には期待してるんだ。
それに・・・まだ本決まりじゃないが、俺もここを抜けるかもしれないし」
来週には辞令が出るけどな、と曖昧に笑う代田。
彼は他人は勿論のこと自分にも仕事にはすこぶる厳しく、新人にはスパルタ教育を徹底し、ついていけた者だけが必ず出世する。
頑張って仕事をこなした後、必ず彼は頑張った者に対して存分に褒める。
飴と鞭を上手すぎる割合で絶妙に使い分ける彼の後輩育成手腕は、社内ピカイチと言えよう。
例外に洩れず、諒子も代田のスパルタに耐え抜いた一人だ。
ただ、例外はあった。
今までになく諒子にはさらに厳しく、どんどんハードルを上げまくり、入社して数か月の諒子に入社後3年の先輩が「それ俺と同じレベルの仕事・・・」と肩を落としているのを覚えている。
しかし遣り遂げた後の達成感は、言い知れない高揚を覚えた。
それを教えてくれた代田についていけるところまでついていこう、と諒子は日々思っていた。
彼の人気はそれだけが理由ではなく、30代後半で男として脂がのり始めた大人の魅力に密かなファンが多い。
顔は中の上、といったところだが、年齢を重ねた分積み上げてきた経験値か、男らしく頼りがいがありそうで中身重視の女子達にとっては彼が不動の人気ナンバー1らしい。
とはいっても、仕事では一緒にはちょっと・・・と敬遠されがちな為、忘年会や新年会等の飲み会で絡む位しかできないそうで、なかなか彼を落とせる女子もいないのが現状。
これが、諒子が千果に聞いた代田課長情報の全てである。
「課長・・・転勤、ですか?」
「あぁ、オーストラリアにな」
ここ2,3年で新しい海外支社を設立、という話は聞いていたが、オーストラリアにも作ることになったのか、と諒子は頭の片隅で思った。
「課長の怒鳴り声が聞けなくなると、寂しくなりますね・・・」
「何言ってるんだよ、今日呼んだのはお前にも関係あるからだ」
「あぁ、そうなん・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
はい!?」
今日はとことん頭が回らないらしい。
代田が言った言葉を反芻することたっぷり30秒。
「いやですね、課長。寂しいからって冗談言わないでくださいよ」
「こんな時はお前頭悪いな。
オーストラアリア支社設立支援部隊として、お前も呼ばれる予定になってるんだよ。
俺の部下としてな」
「オーストラリア・・・ですか」
「・・・辞退してもいいが、キャリアアップや向こうでの経験は日本とは比べ物にならないぞ」
丸めたままの資料を自分の肩にとんとん、と叩きながら、代田は魅力的なことを言う。
「考える時間はまだありそうですね・・・。
ちょっと、ゆっくり考えさせてください」
諒子はやっとのことでそれだけ言うと、ミーティングルームから立ち去ろうと体の向きを変えた。
「お前の辞令はまだ来週以降だからな。
彼氏がいるならよく話し合うんだな」
「それセクハラです」
現在進行形で男っ気がないのをわかっていて、そう言う代田に悔し紛れに一言言い返して仕事に戻る。
いや、言い寄ってくる男はいる。
いるから困ってるんだ。
自分のデスクに戻り、溜まった仕事の山を見て気合を入れ直して作成途中の資料に取り掛かり始めた。
自分の管理がなっていないということで、サービス残業を2時間してから自宅に帰る。
熱い風呂に首元まで浸かると、今日の疲れも流れていきそうな心地よさに安堵の息をつく。
「転勤・・・かぁ」
キャリアアップは大変嬉しい。しかも、新支社設立に携われるなんて、自分が頑張ってきた仕事を認めてもらったようなものではないか。
心にあるのは、嬉しい気持ちと説明できないもやもや感。
「仕事は順調。
・・・恋愛は?」
私は、恋愛をしているのか。
そうだとしたら誰を好きなのか。
いや、そんなことを考えること自体、恋愛してはいないのではないか。
「いやだ・・・私って恋愛不感症?」
いい男が2人も好いていてくれているのに、何故彼らに対して異性としての好意が湧かないのだろうか。
黙っていても、女性が群がってきそうな見た目、肩書きをしているのに。
「あ・・・・・・・・そこだ」
気付けば簡単なことだった。
このまま2人を待たせておくなんてこともできないな、と思ったところで、熱くしすぎた風呂にのぼせそうになりあわてて出ることになった。
ある朝。
会社内の掲示板前は、いつもは皆素通りしていく筈がざわついた空気と社員でごった返していた。
「先輩~、おはようございます~。
皆さん辞令に驚いてましたよぉ~」
諒子がデスクに自分のビジネスバッグを置くと、千果が駆け寄ってくる。
「おはよう、千果ちゃん。今日だったっけ」
先日、代田には是非行かせて欲しい、とお願いした転勤の辞令だろう。
「おめでとうございます~。
あ、長期休暇は先輩のトコに遊びいきますから~」
にこにこしながら言う千果は相変わらずだ。
もう辞令の紙を見てきた同僚達には、すれ違いざまにいろんな言葉を投げかけられている。
賛辞、嫌味が入り混じった声は、それだけの人達を押しのけて自分が責任ある立場になったんだと自覚も持てた。
代田課長のデスクに向かうと、彼はもう仕事を始めていた。
「課長、おはようございます。
辞令の件、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします」
「礼は向こうで仕事をきっちりこなした後に言ってくれ」
と、さわやかな笑顔で返されてしまった。
「ごめんなさい」
諒子は精一杯、頭をさげる。
誠実な気持ちを一生懸命向けてくれた相手に申し訳ないからだ。
勇気を振り絞っていえたのがその6文字のみだった。
「って、どっちに対して謝ってるんだ?」
「そ、そうですよ。諒子さん」
会社最寄りの公園に呼び出した俊樹と新崎は、まさか自分じゃないだろうな、という顔でお互いを睨む。
辺りは外灯でとても明るく、それでも犬の散歩位にしか歩行者はいない。
まさしく3人だけになれる場所だった。
「いえ、2人に対してごめんなさい、です・・・」
だんだんと尻すぼみになる声に、男達は目を見開き口を開ける。
「こんな私にプロポーズまでしてくれて、ありがとうございました、新崎さん。
でも私は貴方をそういう対象には見る事が出来ませんでした。
ごめんなさい」
また頭を下げる諒子。
次に、俊樹に向き直る。
「俺様な俊樹が告白してくれた事が一番びっくりした。
けど・・・俊樹ともそういう関係になれない・・・」
「幼馴染みだからか」
静かに振ってきた低い声は、落ち着いてはいそうだがどこか切なそうに聞こえる。
「違うの・・・違うのよ」
諒子は、頭を振って苦しそうに言葉を吐いた。
「だって・・・」
諒子の発する言葉を聞き漏らさんが為に真剣な表情で頷く2人の男。
「貴方達・・・モテすぎて」
「・・・あぁ?」
「・・・え?」
諒子は頬に手を当てて、力を抜くように溜息をつく。
「小さいときから、モテる俊樹のとりまき達に散々利用や嫌がらせやされてきたでしょ?
女子達が回りに群がるようないい男すぎる人ってそれから苦手なのよね・・・。
トラウマになってるみたい」
俊樹は幼馴染みだったから友達よりも家族に近かったけれど、と続けると、俊樹は目に見えて怒りのオーラを背後に背負いはじめた。
新崎の方はというと、
「僕、いい男すぎるんでしょうか・・・?」
褒められているようなのに、がっくりと肩を落としている。
「というわけで・・・ごめんなさい!」
新崎は無理矢理微笑み、わかりました、ととぼとぼ帰っていった。
それまで黙っていた俊樹は、新崎が見えなくなるのを待ってから口を開いた。
「俺は納得いってない。
そんなとってつけたような理由で諦めさせようったって、そうはいかないからな」
「・・・嘘は言ってないわ」
俊樹から顔を背けて呟く良子。
「だけど全部も言ってないだろう」
イライラしているのだろう、腕組みをして強い眼差しで見据えてくる俊樹。
「そうね。
・・・私、俊樹がキスして来た時にね、正直どきどきした。
これが恋だって言われたらそうかも、って思っちゃうくらい」
近くにあったブランコに腰掛け、ゆらゆらと前後に漕ぎ出す。
「今転勤の話が来てるの」
さらに大きく弧を描かせてブランコは風をまとう。
「どこに?」
「オーストラリア。多分数年は向こうにいることになるし、その後もわからない」
ブランコから飛び降り、たん、ときれいに着地を決める。
かしゃん、と鎖が歪み、乗者のいないブランコはくねくねと不可思議な揺れ方をした後止まった。
「私、行きたいと思ってる。
・・・だから、俊樹の気持ちには応えられない」
まっすぐに俊樹を見つめてはっきりと言葉にすると、心のどこかにかすかに痛みが走る。
「・・・そうか」
やっと、納得したように俊樹が頷く。
「もう、前みたいな関係も、できないよね・・・?
って、何言ってんだろ、私。ごめんね、勝手なこと言って」
諒子はバッグから一つの鍵を取り出し、俊樹に差し出す。
「あんたんちの合鍵。もう行く事もないから」
俊樹はそれを受け取り、わかった、と静かに呟く。
「ばいばい、だね。今まで、ほんとありがと」
ぺこっ、と頭を下げ、帰るね、と諒子は歩き出す。
ここに他の誰もいない事が、こんなによかったと思うなんて。
少しずつ決壊していく涙腺は、頬を伝い、顎、今着ているコートの襟まで落ちていく。
でも立ち止まらなることなく、公園を出た。
俊樹が完全に見えなくなるところまで行ったところで、しゃがみ込み嗚咽を漏らす。
「ううぅ・・・っ。く・・・っ」
寂しい、と心が泣いている。でもこれは私が選んだ選択の結果として受け入れないといけない。
さよなら、私の大切な幼馴染み。
さよなら、私の・・・
「あは・・・私、バカじゃない。今ようやく気がつくなんて・・・」
自嘲した笑みを作り、乾いた笑い声を小さくあげる。
「私、どこまでも鈍かったのね・・・」
でももう遅い。俊樹にはああ言ってしまった後だ。
断った後に好きな気持ちに気付きました、なんて虫のいいことは言えない。
「自分のせいで失恋なんて、ほんと笑えない」
つくづく、恋愛にはいいことがないな、と空を仰いで星が瞬くのをしばらく見つめていた。
諒子さんがとうとう自分の気持ちに気付いたのに、作者は大変意地が悪いですね。笑




