牙
「やめろ! 這い上がってくるな!」
悲鳴を上げながらの目覚めは王にとって最悪であった。理由は蟲で作られたベッドにそうと知らずに入ってしまう悪夢を見たからだ。
毛玉の代わりに毛虫を入れたベッド。ハチに抱かれて眠るベッド。巨大イモムシベッド。朝までクモの粘着性の糸に包まれるベッド。トドメに通常サイズのイモムシが敷き詰められたベッドであった。
トドメは明らかにベッドの役目を果たさないどころか、毛虫ベッドでは潰れなかったのにイモムシは潰れて全身クリーム色の体液でずぶ濡れになるといった恐ろしさであった。しかも、イモムシが体を這い上がってくるのだから怖気に拍車を掛けた。手で触る分には良いのだが、流石に虫を這わせるのは気持ち悪いと王は感じるのだ。
「最悪の目覚めだ……こういう時には朝風呂をするのが良いな」
悪夢であって現実でなかった事に安堵の息を漏らすと、転がり落ちるようにベッドから降りた。ベッドの近くにいると悪夢を思い出してしまうので、王はひとまず遺跡から出ようとして、首を傾げた。
「朝風呂ってなんだ?」
自分で言った単語の意味が解らなかったからだ。知識に偏りがあると判っていたが、知識にない単語が勝手に、それも使い慣れたように出て来たのだ。きっと毎日のようにしていたのだろうと王は考えたが、やはり意味がでてこない。
(考えるだけ無駄か……)
解らないモノはやはり解らずに、思い出すのを諦めて王は一先ずは遺跡から出て朝日を浴びるのだった。
遺跡から出た王はやるべきことを見つけられずに、見晴らしが良さそうという理由で遺跡の屋根に登って寝っ転がっていた。
見上げる空は快晴で、今日一日はこのまま天気は良さそうである。遺跡以外は特に何も無いからか、蟲が近寄ることもないので風で木の葉が揺られなければ静寂が場を支配し続ける。
「暇だ」
誰に聞かせるでもなく、王は呟いた。やるべき事が思いつかないから自分の腕と大差ない太さの蔓を掴んで屋根に登って、空を見上げていたのだ。しかし、そんなことは暇つぶしにすらならなかった。起きたばかりで寝る気にもなれず、かといって起きていてもやるべき事がない。完全に王は暇を持て余していた。
(差し迫った問題など…あったな)
1つだけ、懸念と言えることがあったのを思い出した王は上った時とは逆の順番で蔓を伝って屋根から降り始めた。
――――――
「はい次」
普通であれば集合などしない蟲を命令で集め、遺跡の付近は蟲で埋め尽くされていた。虫は王との謁見をし、終えた虫は何事もなかったように森へと帰って行く。それが先程よりずっと繰り返されている光景である。
集まっているのは王はそうと知らないが人間からは魔物と呼ばれ、虫系に大別されているモノばかりだ。蟲の王に命令できる魔物が虫系だけなのと、9割5分以上が虫系の魔物である蟲の森であるという状況からそうなったのだ。。ちなみに、普通の虫を入れると虫の割合は9割9分となる。
命令をしてまでも蟲を集めたのは、蟲の把握と、遺跡の近くに来ないように命令して悪夢が現実にならないようにする為だ。だが、虫の種類の数が明らかにおかしいと王は感じ始めて後悔しはじめた。
虫を注視し、遺跡に近づかないように命令する。そんな単純作業に嫌気が差してしたからだ。集まった蟲の種類と知識からかけ離れた巨躯や特性と性質には初めの方は目を見開いたりして驚いたが、連続して見ると前の奴よりしょぼいなどと感じるくらいになってしまった。そうなってしまえば目新しさがなければつまらなくなるのは早かった。
そもそも、蟲の森全ての虫に命令を出すのが無理がある。命令できる範囲は王を中心とした直径約1kmで、蟲の森全域をカバーするのにはてんで足りない。広大な面積と種多様性な虫と数を誇る魔境である蟲の森には、密林に生息できない虫以外ならほとんどの虫が生息している。そして大多数の虫系の魔物は、自分の餌を喰い尽さないために定期的に移動するか、世代交代で場所を変えることがある。
王の命令は世代をも超えるのだが、王の命令範囲では必ず命令を出してない種類の虫が移動してきてしまうのだ。ソレを知らなかったが、王は集まっている数だけでも嫌気がさして途中で作業をやめた。
「まったく、数が多過ぎるだろ……」
とりあえず蟲を解散させた王は、また遺跡の屋根によじ登って空を見上げた。水色と白のコントラストの空が森の保護色となっている茶色や緑の虫や、警戒色のド派手な色の虫を見続けた目に優しく感じてそのまま目的もなく見つめ続ける。
「なにやってんだろうな……」
太陽に手をかざしながら自問する。果たして、自分の行動に意味があるのだろうかと。蟲の把握も命令を本当に必要かと考えれば、どちらもそう必要には思えない。不思議と、蟲には命令抜きでも負ける気は一切しない。自信の有る無しではなく、純然たる事実として受け止めている。
「ちょっと探検してみるか」
気分を変えようと王は駆けだした。
――――――
蟲の森は虫を餌とする動物からすれば絶好の餌場である。虫系自体が他の種別の魔物より比較的に個の力は弱いというのが大きい。しかし、蟲の森は魔境の定義である「特定の魔物ばかりが生息する」を維持できている。維持できているのは、一重に余所の土地から虫系以外の魔物が来ようとも、その魔物より強力な虫が必ずその魔物を喰らうからだ。
たとえば、王の服に利用している糸を出した袋蜘蛛がその強力な虫になる。
袋蜘蛛は巣を作って待ちの姿勢のクモではなく、徘徊性とよばれる餌を探し求めて移動するクモである。徘徊性と言っても、その強さから縄張りを持っているので基本的には縄張りの中をひがなグルグルと徘徊している。縄張りの外へ移動するときは繁殖のためか、他の虫に追い出された場合だけである。
その袋蜘蛛は、一匹の獣と相対していた。喉を鳴らし、獲物を前にして涎を垂らしている。余所からきた魔物である熊、紅い毛並みを持つ灯籠熊である。強靭な四肢と、多くの虫にとって弱点となる炎を武器とする魔物であった。
侵入者に対して袋蜘蛛は威嚇として一番前の脚を上げて少しでも自分を大きく見せようとする。自然界において大きさは力であり、それだけで敵を下がらせることはよくある。
「グォオオオオオオ!!」
灯籠熊はそれに対抗して咆えながら後ろ足で立ち上がって前足を広げる。元々120cm近くあった高さは立ちあがったことによって約倍になり、高さ100cmしかない袋蜘蛛は威嚇勝負で負けてしまう。しかし、袋蜘蛛はそのまま灯籠熊に跳びかかる。
袋蜘蛛は一刺しするだけで一撃必殺になるうる消化液を持っている。その巨躯だけで袋蜘蛛は食物連鎖の上部に居座っているわけではない。魔力によって生成される獲物の体内に侵入すれば骨すらもドロドロの液体に溶かす消化液、それが袋蜘蛛の最大の武器であった。その巨躯から生えている牙は、他の虫の強固な外骨格を貫通して消化液を流しこむ唯一にして最大の武器。
初めて遭遇する敵に殺す事を優先した袋蜘蛛は勝利するはずであったが、袋蜘蛛の眼前がいきなり燃え上がる。魔力によって袋蜘蛛が消化液を生成するように、灯籠熊もまた魔力によって灯籠油と呼ばれる油を生成し、発火点の低いその油が燃え上がったのだ。その姿は夜であれ灯籠のように目立って、魔物となっても光に集まる習性のある虫系の魔物を光と燃焼した際に出る匂いで引き寄せる。故に灯籠熊。
燃え上がったのは臨戦態勢に入った証でもあり、灯籠熊は跳びかかってきた袋蜘蛛を抱きとめる。体格で勝っている灯熊は余裕で止め、脚へと食らいつく。クモの外骨格は他の虫系の魔物より柔らかい傾向にあるのもあって、顎は脚を一撃で食いちぎる。
脚を食いちぎられたのと、軽く炙られので袋蜘蛛は欠けた脚から体液を撒き散らしながら下がる。牙さえとどけば勝利は揺るがないが、脚のもう一本は覚悟しなければまず届かない。しかしそれは死に等しいのだ。例え勝ったとしても、脚を二本失えばこれまで通りとは絶対にいかない。動きが鈍くなればそれは狩りの成功率の低下を招き、十分な餌を取れなくなって弱ってしまう。そうなれば、縄張りを奪いに同種のクモが現れたら簡単に負けてしまう。仮に同種のクモが現れなくても、弱った虫を見つければ格上でも襲いかかる虫は五万といる。
弱肉強食。どんな強者であろうとも、弱者となって喰われるようになってしまうのだ。
強者のプライドなど持ってない袋蜘蛛は、初めて出会った天敵を前にして逃げようとしていた。
「火事なんざゴメンなんだが」
王が現れるまでは……
逃げるのを止めたのは、王を守ろうとしてなどという殊勝な理由ではない。いくら体が大きくなっても、そういった思考ができるようにはなっていない。ただ、王が来た事で逃げる必要性が無くなっただけだ。
「まったく、良い匂いがするかと思えば袋蜘蛛がやられているじゃねぇか」
脚の一本を無くしたクモを庇うように前に出て、王は灯籠熊を見上げる。依然として燃え続ける灯籠熊は鼻をヒクつかせて、王のにおいを感じ取った。見た目こそ人間であるが、においは自分の餌でしかない虫でしかない。灯籠熊は目の前の存在を餌と認識して鋭い爪のある腕で薙ぎ倒そうと振る。
「ウッ、ラァ!!」
灯籠熊と比べれば棒切れのような細腕で爪に当たらないように殴り付け、アッパーカットも繰り出す。続けて、本能の赴くままに晒された喉元に牙を突き立てた。
「って、熱ゥッ!」
後先考えずに燃えている灯籠熊を殴り、あまつさえ喉元に噛み付くなどした王は熱さからすぐに離れた。
「なんで噛み付いたんだよ……」
自分でも疑問に思う謎行動で火傷を負ってないかと顔を撫でまして王は気付いた。牙が生えていた。口の両端からクワガタのハサミのように、突き刺すのに特化した細長い牙が生えていた。
「ゴォアアアアア!!!」
灯籠熊の咆哮でようやく王の気がまたそちらに向く。王が見たのは、喉を掻き毟るように苦しむ灯籠熊の姿であった。口からピンク色を基本色した、黄色やら薄黒い赤の液体を吐き出しながらのた打ち回っている。
王は意識していなかったが、牙で袋蜘蛛の使う消化液を注入していたのだ。もし牙を見比べれば袋蜘蛛と大きさ以外はまったく同じ牙だというのは王にも判っただろうが、牙が生えた事に加えて、尋常ではない灯籠熊の苦しみ方に王は目を丸くするばかりであった。
喉に消化液を注入された灯籠熊は溺れていた。気管を溶かされ、液体となった己が肉体が肺に消化液ごと流れ込んで今度は肺をも溶かし始める。呼吸のできなくなった灯籠熊は、最早無くなった気管から液体を空気と共に追い出すが、その全てを追い出すに至らずに消化液が口にも広がる。
灯籠熊の終わりは早かった。呼吸困難で脳に酸素がいかなくなった事と、肺に広がっていた消化液が心臓にまで到達して溶かし崩してその命を奪ってせしめた。
死ぬまで暴れまわってできた穴と、最初から開いていた穴によって液体となった灯籠熊の内臓類は流出し、最後には毛皮が残るばかりであった。
袋蜘蛛の狩り
本来は図太い糸で暴れないように捕まえてから、消化液を注入します。その際ついでに穴も塞ぎます。そうしてから消化液を注入すれば、液体入りの袋の完成です。
作中で最初に消化液を注入しようとしたのは、威嚇勝負で負けたのと始めてみる獲物に警戒したからです。
灯籠熊
虫系の魔物を主食とする獣系の魔物。蟲の森に侵入することが多いが、虫を引き寄せる灯籠油が災いして、侵入したのはまず喰われている。初めに出会ったのには勝てても、後続の虫にやられてしまう事が多い。