8
ぺろぺろ…
頬に感じる湿った感覚。今日は何度も経験してしまっているこの感覚は、慣れようと思っても慣れないみたいだ。ぞわぞわと肌が粟立ってくる。
まだぼんやりと霞がかかる頭をなんとか動かし、思いまぶたをゆっくりと開ける。
ゆ少し薄紫がかった夕焼けの空。夕日が雲を照らし、幻想的なまでに綺麗な光景。
(空がこんなに綺麗に思えたのって、いつぶりかな…)
ぼうっと、何も考えずにいつまでも見ていたい。そう思わせる景色だった。視界の隅にちらりと顔をのぞかせる、吹っ飛ばされた屋根らしき残骸もまた、夕日の美しさに儚さを足して、より幻想的に仕立てている。
そう、例えぼろぼろの鉄骨剥き出しの、ぐずぐずに崩れたコンクリートであっても。
芸術は爆発だ。誰かがそう言ったけれど…
(爆発したら、結局みんな散らばったゴミにしかならないみたいね。そんなものが綺麗だなんて、私疲れてるのかな)
少し目を閉じて溜め息をついてみる。
わかっている。メアリーは現実逃避をしていた。この再起不能なまでに破壊された校舎は、自分が原因なのだと。恐らくは、あのゲートから放たれた衝撃波が校舎を吹っ飛ばしたのだろう。
こんな事態、誰が想定できただろうか。まさか召喚獣を呼び出し(つかみ出し)たら、凄まじい衝撃波で校舎が破壊されるなんて。悪夢でしかない。むしろ夢であってくれないだろうか。
何がいけなかったのか。ゲートに手を突っ込んだことがいけなかったのだろうか。それとも、こちらの世界に来る気のなかったものを無理矢理連れ出そうとしたのが不味かったのか。しかし、最後の方では相手の方もノリノリだったはずだ。名前を呼べなんて言っていたくらいだ。
メアリーは、ふと思い付いてぱちりと目を開ける。自分を抱き締めて守ってくれていた誰か。いわば命の恩人。あの衝撃波でもみくちゃにされ、髪の毛全部持っていかれるのでは、という強風吹きすさぶなか、ずっと守っていてくれたのだろうか…
だとしたら、その命の恩人は大丈夫だろうか。怪我をしていなければいいけれど…
恩人について思い至ってから、メアリーはおや、と疑問を感じた。
…そう言えば、先程から恐ろしい程に静かだ。何も音がしない。耳が痛いくらいの沈黙。
横たわっていた身体を起こす。どうやら、職員室?だった場所に寝ていたようだ。メアリーがいる場所を中心に、円を描いたようにあらゆるものが吹き飛ばされている。辛うじて残っている壁や床板を見て、職員室か?と判断できるレベルであった。
床板も傷だらけで、一部は床板がえぐられるようにしてなくなっていた。
(先生とか、生徒とか、大丈夫かな…?)
理事長の心配はしていない。彼は殺しても死なないくらいに生命力が強そうだ。
とりあえず、現状を把握したい。恩人はどうしているのか、他の人達はどうしているのか。
それに。
(召喚、成功したのかな…)
あの騒動でよくわからなかったけれど、ゲートから光が溢れていたのはわかった。しかし、何かが出てきたのかまではわからなかった。あまりの眩しさに目を開けることなどできる状況ではなかったし、光と衝撃波によって魔力が掻き回され、召喚したものがゲートを通り抜けたかどうかでさえわからなかった。
しかし、召喚が成功していたなら、呼び出したものの魔力を感じるはず。
それを感じないということはーーー
「また、失敗だったのかな…」
じわりと、目が熱くなり視界が滲んでいく。悔しいのか悲しいのか、よくわからない感情が込み上げてくる。
溢れた雫が、頬をつたう。雫はぽたぽた、といくつもこぼれ落ちる。
ひっく、と声が漏れそうになった。その時。
そっと、誰かの指がメアリーの頬を撫で、雫をすくいとった。
「わッ!!」
メアリーは思わず、そこから飛び退いた。先程、周りを見渡した時には誰もいなかった。それに、こんなに近くに人がいたらとっくに認識しているはずだ。
驚いて声も出せず、ぽかんと口を開けてその人物を見つめる。その人物は、とてつもない美形だった。切れ長の目に、黒曜石のような漆黒の瞳。すっと通った鼻筋に薄い唇。凛々しい眉と濡れたように艶のある髪。短くそろえられたそれは、男の中性的な美しさを男性的に引き立てている。神々しいまでの美しさを纏う男が、メアリーに片膝をついて佇んでいた。
「あ、えっと……誰?」
メアリーは驚きと戸惑いから、目の前の男から目を離さずに問う。現時点で、敵か味方かもわからない。それにいきなり現れたのだ。警戒しない方がおかしいだろう。
第一、男の目が恐ろしい程に熱い眼差しでメアリーを見つめてくる。まばたき忘れてるよ!と教えてあげたくなる程に視線がぶれない。メアリーの瞳、その一点だけを穴が開くほどに見つめてくる。
(この人、こわい…)
じっとメアリーを見つめたまま、一言も発しない男にうっすらと恐怖を感じ始める。
(逃げようかな…)
メアリーがそう思った時、
“かわいい、わがきみ”
男の背後から、ぴょこりと勢いよく黒い毛並みの犬が顔を出した。顔がのぞくと同時に、口許がぱくぱく動いた。まるで、人間が言葉を話す時のように。
(わわっ、犬?…あれ、この犬…)
このちぎれそうなほどに尻尾をぶんぶん振っている犬。この犬にメアリーは見覚えがあった。
「ザッシュ…?なんでここにいるの?」
そう。それはまぎれもなく、ザッシュであった。ザッシュは額に特徴的な模様があった。白い毛がダイヤのマークを形作っていたのである。こんなに分かりやすい特徴を持った犬を見間違えるはずがない。昔近所で飼っていた犬だが、いつの間にか、首輪を引きちぎって逃げてしまったと聞いていた。こんなところにいたのか。
メアリーは、思いがけない再会に少し気持ちが落ち着いた。久しぶりに見る犬に懐かしさを覚えながら、優しく語りかけた。
「ザッシュ、久しぶりだね。こんな所にいたんだ。鍛冶屋のおじさん、ザッシュいなくなって号泣してたよ」
目の前の男の視線が、更にきつくなった。自分を無視して犬に話しかけたのが気に入らないのだろう。
しかしメアリーは男を無視して、ザッシュに笑いかけた。いくら美形とはいえ、得体の知れない男より、久しぶりの感動の再会の方が、メアリーにとっては大事だった。
メアリーは、ザッシュを撫でようと手を差し出した。しかし、その手は素早く男に取られ、きゅっと握られた。この間、無言。それに加えて視線がグサグサと突き刺さってくる。
「……………。」
メアリーは、しゅばっと目にも止まらぬ早さで手を振りほどくと、何事もなかったようにもう一度ザッシュに手を伸ばした。
その手を、メアリーに負けない光の早さでつかむ男。今度は握るだけではなく、指まで絡ませてくる。
「……………………。」
(なに、この人…今流行りの変態?)
メアリーは振りほどこうと手を振り回す。が、どんなにめちゃくちゃに振り回しても全く離れない。まるで接着剤でくっつけたように。
これにはメアリーも怒りを感じ、男を睨み付ける。イタズラか、セクハラか。どちらにしても悪質であることに間違いない。
メアリーはじっと男を睨み付ける。睨まれた男は、悪びれることもなく、メアリーを見つめ返す。
二人が一分ほど睨み合った頃、
“かわいい”
「へっ?」
誰かの声がささやいた。少し高い、子どものような澄んだ声。この男じゃない。ずっと睨みあっていたけれど、口が動いた様子はなかった。じゃあ、誰が…?
メアリーはキョロキョロと周囲を見渡した。何もないし、誰もいない。二人と、一匹だけ。
“よそみしないで”
また、誰かの声。ちら、と男を見ると、何か言いたげな顔でメアリーを見ていた。
(そんな顔されても……無視するけどね)
ふいっと顔をそらす。消去法で考えると、もしやと思うが…ザッシュが言葉を話したのか?まさかと思いつつ、メアリーはザッシュを見つめた。
相変わらず男から痛い視線を感じるが、じっとザッシュを見つめる。ザッシュはきゅうん、と鼻を鳴らすと、
“われいがいのものを、そんなに みつめないで”
ザッシュの口がぱくぱくと動き、先程と同じ声でメアリーに話しかけてきた。
「ザッシュ、話せたのね…」
メアリーは茫然として、ただザッシュを見つめた。ただの犬だと思っていたのに。もしや、召喚獣だったのだろうか。
可愛がっていた犬の意外すぎる事実を知り、ショックで頭が混乱するメアリー。
頭を抱えるメアリーに、ザッシュはなおも語りかける。
“かたしろじゃなくて、われをみて”
(かたしろ…?)
聞き慣れない単語に、首を傾げた。かたしろとは何か。それより、先程から気になっていたが、ザッシュの口から出る言葉にしては少し内容がおかしい。ザッシュを見ているのに、われをみて…我を見て。と言っているのだ。
その言葉は、まるで…
思考に耽っていたメアリーの肩を、誰かがつかみ、ぐいっと引き寄せた。
あっ、とメアリーが気づいた時には、目を閉じた男のまぶたがすぐそこにあった。そして、唇に柔らかい感触。
そっと唇が離れた時、メアリーの唇から漏れたのは、はふ…という情けない吐息だけだった。
真っ青になり目を見開いて男を見るメアリーと、微かに赤く染まった頬に、甘く蕩けるような笑みを浮かべる男。
どちらも黙り込んで口を開かなかったが、ただ一人(一匹)、べちんべちんと尻尾を激しく振りたくって、興奮しながら口をぱくぱくするものがいた。
“くちびる、やぁわらかあぁーーーーっっ!”
このザッシュの叫びは、国中に響きわたったという。