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文中に下品な下ネタが入ります。お気をつけ下さい。
“われの はじめて は わがきみに ささげた。やっと けいやく できて うれしい”
うずくまったメアリーの髪を、男がそっと一束すくって口付けた。
メアリーは男をちらっ、と見ると、
どごんっ
拳骨であごにアッパーをかました。
「忘れていてよかった記憶をわざわざ掘り起こしてくれてありがとう。嬉しすぎて、拳がちょっと荒ぶっちゃった」
にこり、と凄惨な笑みを投げ掛けるメアリー。口元に滲んだ血を手の甲で拭いながら、男は嬉しそうに笑う。
“メアリーから たくさん ふれてくれて うれしい いつも みていた いつも ふれたい と 思っていた ”
メアリーは瞬時に鳥肌まみれになった。気持ち悪い。この男、頭に脳味噌を詰め忘れてきたんじゃないだろうか。殴られて嬉しそうにしている人間なんて、普通じゃないだろう。
それにこの男、何故かジリジリと距離を詰めてくる。もしかすると、まだ自分は夢の中にいるのかもしれない。メアリーはそう思った。いや、夢だと信じたいのだ。そうでなければ、何故口から血を垂らした幸せそうに微笑む男ににじりよられ、その傍らにいる(偽)犬は尻尾を振りたくってハアハアしているのか。その今にも襲いかかって来そうな野生丸出しの目はやめてくれないだろうか。しかもこの(偽)犬、人には言えないところが大きくなってしまっている。健全な物語をぶち壊すにも程がある。
夢なら覚めてほしい。今すぐにでも。切実にそう願うメアリーだった。
メアリーは全速力で走っていた。変態どもから逃げるために。あのあと、にじりよる変態どもに「待てっ!!伏せっ!!」と言いつけて、男と(偽)犬が固まっているのを確認もせずに、言い逃げの状態で走りだした。少し走って後ろを見ても、まだ男たちは固まっていた。今のうちに、少しでも遠くへ逃げなければ。メアリーは今度こそ、振り向きもせずに走った。
走りながら見てみると、彼女が通っていた学院は、もはや原型をとどめていなかった。残るのは崩壊した壁や何かの残骸ばかり。その間を縫うようにメアリーは走る。
元は校舎だったそこは、今や人がいない、完全な廃墟になっていた。もう10分以上走り回っているが、人影どころか、生物の気配がない。
あの爆発で吹き飛ばされたのかと思ったが、それにしては血の跡も何もない。まるで人が元から存在しなかったかのように、物だけが壊れていた。
メアリーは、黒板や机が折り重なってできた山の中に、わずかな隙間を見つけた。かろうじて人が一人入れるくらいの隙間。
そこに頭からぐいぐいと奥に潜っていき、入り口を少し崩してバリケードをつくった。実は暴力的で力持ちなメアリーには、なんとか脱出可能なくらいの崩し具合にした。外から見れば、ただの瓦礫の山にしか見えないはずだ。奇跡的に瓦礫の山の中には、メアリー一人が座れるくらいの空間があった。メアリーは膝を抱えて、そっと座り込み、走ったせいで乱れた息を整えた。日頃の運動不足がたたって、走り続けた手足はだるいし、肺は酸素が不足して限界寸前だった。
バリケードの微かな隙間から廃墟と化した学院を見ながら、メアリーは呼吸を落ち着けようと深呼吸をする。
(考えてみたら、これだけ魔術に長けた学院なんだもの。緊急時に生徒と教師をどこかに飛ばして避難させることができても不思議じゃないか。学院にはお金持ちのご子息様だとかご令嬢様がわんさかいらっしゃったからなぁ…万が一の措置は取ったでしょうね)
それに比べて、今の自分を取り巻く状況に笑えてくる。何が悲しくて、変態男と変態(偽)犬に追いかけ回されなくてはいけないのか。
しかしメアリーは、気づいたことがあった。一つは、男の思考や願望をザッシュが如実に語っていることだ。男が理性を利かせて表に出さないことでも、ザッシュが発言または態度で教えてくれる。男自身、ザッシュを犬の生態に似せてつくったと言っていたし、おそらく本能に逆らえないところまで犬に似てしまったのだろう。
ザッシュがあの男の一部だとは知らなかったとはいえ、キスをした時の全身で喜びを伝えてきたザッシュは、冗談ではなく可愛いと思えた。
それ故に、呼吸も荒く迫り来るザッシュは、メアリーに多大なるショックを与えた。彼女にとってザッシュはまだ可愛い犬という認識だった。(偽犬だとわかっていても、割り切れない微妙な気持ちがメアリーにはあったのだ)しかし、犬が牙を剥き、本能丸出しの狼に変わる瞬間、あれは恐怖以外の何物でもなかった。
(ザッシュも怖かったけど、あの変態男も怖い!!)
あの男は、ふれたい、ずっとみていたとメアリーに言ったのだ。その言葉と嬉しそうな笑顔。これだけを見れば、手と手が触れあうだけで満足です。という雰囲気だった。正直に言えば、メアリーも若干胸がとくん、と動いた。とんでもなく魅力的な異性に好意を寄せられたら、単純に嬉しくなってしまうのが乙女の習性だろう。
しかし、ほんわかな幸せオーラを振り撒く男のその横で、欲望剥き出しのザッシュがいた。あれは発情期の犬にしか見えなかった。現に興奮しすぎてザッシュの(ピー)が大変なことになっていたのだ。ピュアなように見せかけておいて、内心はまさにケダモノという、男の二面性に恐怖した。羊の皮を被った狼とはよく言ったものだ。
見ていた。触れたい。
それはいつから?…メアリーが推測するに、あの初めてザッシュに会った時だろう。あの時、メアリーが口をつかんでキス…をしていなかったら、噛まれていた。
血の契約。ザッシュは自分を噛んで
、その血を舐めたかったのだろうか。…それだけで、血の契約は成立するのだろうか?
メアリーには血の契約が何を意味するのか、さっぱり分からなかった。誰か教えてくれないだろうか。教えてくれるなら、理事長でもいい。と考えたが、あの理事長の下品な高笑いが脳裏によみがえる。
…やはり理事長は却下だな、と溜め息をつく。
狭い空間で、メアリーは更に小さくなって、膝を抱えた。
「ザッシュ…」
そう言えば、あれは犬の生態をコピーしてつくられているのだ。メアリーの匂いを辿って、追いかけてきているかもしれない。身動きの取れない所に逃げ込んだのは失敗だっただろうか。
メアリーが腰を浮かしかけたその時。
ふと、手のひらがじんじんと熱をもってきた。不思議に思い、手のひらを見てみると。
「にくきゅう…?」
にくきゅうのようなアザがうっすらとできていた。まさかと思い、もう片方の手を見てみると。
「やっぱり…」
見てみれば、そちらにもやはり、にくきゅうのようなアザが浮き出ていた。
両手ににくきゅう。一体どうしろと言うのだ。
しかもこのアザ、熱をもっている。おかしい。メアリーはすぐに、これは魔術によるものだと気づいた。まるで、以前教科書で写真が紹介されていた、召喚したものと召喚者を結びつける、所有の証にそっくりなのだ。
ただ、以前写真で見た召喚の証はもう少し小さく、親指の爪程の大きさだった。このアザは明らかにそのサイズを越えている。何せ、メアリーのアザは手のひらいっぱいに浮かび上がっている。
これはどう考えても、あの男の仕業だろう。メアリーは、あの男が自分で召喚した、魔界から引っ張り出したものだと確信していた。
我が君、という言葉。そして、ゲートの向こうから捕まれた手の感触。間違いない。あれは自分が喚んだものだ。
メアリーは、両親に会える唯一の切り札を得た。という小さな希望と、かなり厄介なものを喚んでしまった、という後悔が混ざりあった、複雑な気持ちに襲われたのであった。




