クモの網
クモは大いに喜んだ。
遂に、あの生意気な蝶を
自分の網が捕まえたのだ。
クモは、自身の網作成技術に
絶対の自信を持っていた。
クモは蝶達の盲点をつき、上手く糸を張り巡らせ
次々と蝶を捕まえた。
クモは食べるよりも、
蝶を捕まえることに喜びを見出し
自然の摂理を超えて
多くの蝶を過剰に捕まえ、
殺していた。
噂を聞きつけてやって来た
飛行自慢の蝶達も
次々とクモの網に捉えられていった。
クモは笑った。
「ああ
なんて楽しい。
俺の網に
かからぬ蝶はいない。
全ての蝶を
我が網で捕まえて
蝶という存在を
この世から絶やしてやろうか」
それを聞いた観音様は
右手で周りの空気を
ふっと撫でると
大変美しい一匹の蝶に変化した。
そして、クモの前に現れて
こう言った。
「クモさんよ。
それ程、自信があるなら、
私と勝負しようじゃないか。
一週間毎日、
私が公園を通るから
私を捕まえてごらん。
捕まえたら、私を食うなり捨てるなり
好きにしなさい。
ただ、もし、私を捕まえることが出来なければ
私の言うことを聞きなさい」
クモはそれを聞き、笑い、
「俺と勝負だと?
生意気な蝶さんよ。
いいだろう。
公園の中、どこでも好きな所を飛ぶが良い。
必ず捕まえて、
晒し者にした後、羽をむしって
殺してやろう」
勝負が始まった。
クモはいつもの通り
蝶の盲点をつき
想像もしない場所へ
見えない網を張っていく。
しかし、
その蝶は
網の直前で、ひらひらと避けて行き
華麗に空を舞う。
「なんてことだ。
なるほど。
言うだけのことはある。
今まで、あんなに上手く俺の網を
躱した蝶はいない。
いいだろう。
俺も本気になってやる」
クモは
縦横無尽に網を張り巡らせる。
大きな網が
木と木の間を橋のようにかかり、
小さな網が
花びらと花びらの間に
かけられる。
人の目には
心地よい普通の公園に見えたが
木の高い所から
地面まで。
いや、
川の上を覆い
地面の穴の中までも、
クモの糸は
覆っていた。
しかし、その蝶は
なんと器用に飛ぶことか。
網と網の隙間を縫って
今ちょうど
新しく網を張っている最中の
クモの触れるか触れないかという目の前を
挑発するように
何ら束縛するものがないかのように
ひらひらと軽やかに舞い
去って行った。
クモは怒った。
「なんという生意気な。
俺様に向かって挑発まで
しやがって。
謙虚さを知らない
性格のねじ曲がった
傲慢な蝶だ。
地獄に落ちろ。
いや。
俺が落としてやる。
見ていろ。俺の腕前を」
クモは、さらに網を張った。
そこには今までにない工夫があった。
枝のしなりを利用したり、
つるを糸で移動させ、
わざと切れやすい糸につなげることで、
時間差で
突然、網が襲いかかるという罠を
作り出した。
当然、蝶が通るタイミングも
しっかり計算に入れてある。
正直、クモは焦り始めていた。
長く思われた、一週間という刻限が
あっという間に過ぎ去り、
いつしか
あと一日となっていた。
夢中で網を作っていた時には
気付かなかったが、
ふと気づくと、
さっきまで青く明るかった空が
夕日で紅く染まっていた。
クモは焦り、怒り、
狼狽した。
初めて、自分に疑いを抱き、
恐怖を覚えた。
そして、最後の日がやって来た。
クモは自分の出来る、技術、才能、
その全てを使い尽くした。
その公園は
見た目には、
やはり何の変化もなかった。
しかし、そこに張り巡らされた網、
繊細な、一本一本が計算されて作られ、配置された糸は、
目に見えぬ芸術作品のようだった。
時々、美しくも恐ろしい糸の存在を露わにするかのように
糸に付いた水滴に反射した光が
ギラリと一瞬、輝いた。
そして、
公園に
蝶がひらひらと訪れた。
クモは影から
その様子を窺う。
「来たな。
終わりだ。
今日で貴様も終わりだ。
お前の最期を
この目で焼き付けてやる」
クモは蝶の後を追った。
本当に
蝶の舞いは
見事だった。
数cm、いや、数mm、横にずれたら
糸に引っかかる、網にかかる所を
するりするりと不自然さもなく避けていき
自由に美しく舞っていた。
蝶の舞いを見ていると
自分が作ったのでなければ
周りに無数の罠が仕掛けられていることなど
信じられない程で、
ほがらかな公園の中を
のんきに美しく
舞っているだけに見えた。
次々と
渾身の罠が避けられていく様子に
クモは息苦しくなった。
最後の罠の前を
蝶が通る時には
クモは我知らず
祈りを口にしていた。
「ああ、
どうか
どうか、
あの罠にかかってくれ。
助けてくれ
観音様。
俺の願いを
聞き届けてくれ」
果たして、
その願いが聞き届けられたのか。
蝶は、ふいに動きが乱れ
落ち、
ぱっと空中に羽を広げたまま
止まった。
クモは目を見張り
驚き
そして、歓喜の声を上げた。
網にかかった!
遂に!
あの憎き蝶が!
クモは大喜びで
蝶の元へ向かった。
焦りすぎて
縦横無尽に張り巡らされた糸に
自分で、足も体も引っ掛かり、
上手く進めなくなった。
糸が絡み、
何度も転び、
顔も体も足も、全部糸まみれで
自分の網に何度も何度も掛かり
粘土の中を泳いでいるみたいに
気持ちだけは焦るも
全然前に進めない。
クモは蝶の元に辿り着く道半ばで
自分の糸に絡まり
ばったりと倒れ
身動きが出来なくなった。
しかし、クモは満足だった。
「ハハッ!
やったぞ。
ざまあみろ。
俺の勝ちだ。
やはり、
誰も俺に敵わないのだ」
クモは笑った。
そして、
次の瞬間
その笑いが凍りついた。
網に張り付いていたはずの蝶が
羽をたたみ
そして
また
羽を広げ
ふわっと
空に舞った。
クモはあっけに取られた。
蝶は
罠にかかっていなかった。
粘りのない縦糸に足を乗せ、
横糸に触れないぎりぎりまで
羽を広げていただけだった。
クモは自分が、まんまと
蝶の罠に引っ掛かったことに
気付いた。
自分の糸にがんじがらめになり
身動き一つ出来ず
クモは自分が情けなくなり
泣き出した。
蝶は目の前を、
美しく
ひらひら舞っていた。
そして、
蝶は
観音様の姿に戻った。
愕然とするクモの前で
観音様は
右手を振り、
公園内の全てのクモの糸を
呼び寄せた。
膨大な量のクモの糸が、
観音様とクモの眼前にうず高く
積み上がった。
クモを縛り付けていた糸も
するりと抜けて
他の糸の動きに従った。
観音様は
クモに、
こう告げた。
「お前は勝負に負けたのだから
これから言うことを聞きなさい。
お前が生きるために食べた以外に
殺した蝶、
一匹一匹の姿を
これらの糸で編み上げなさい。
時間を掛けて。
思いを込めて。
彼らを
あなたが
弔うのです」
クモは困り、
尋ねた。
「しかし
私はもう
彼らの姿を
覚えていません」
観音様は
応えて言った。
「目をつむって
本気で彼らのことを
思いなさい。
そうしたら、
一匹一匹の姿が
そのまぶたの裏に浮かんでくるでしょう」
クモが目をつむり願うと
一匹の蝶の生きた姿が
そして、
クモが殺した時の姿も
まぶたの裏に浮かんだ。
クモは
胸が苦しくなった。
そして、
素直に従うことにした。
その公園は
一見
よくある普通の公園である。
しかし、
時々
雨上がりの日に
木の陰や石と石の間を見ると
一匹の蝶の姿が編まれた
クモの網が
見つかることがある。
それは、
まるで生きているみたいで
見事な
舞う蝶の姿である。




