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ペタンと座り込んでしまった里菜は、なかなか立ち上がることが出来ず、バルコニーの手すり壁に寄りかかったまま動悸が静まるまで大人しくすることにした。
夜風の冷たさは冷静さを取り戻すのに良かったが、少し冷たすぎる。
寒さを感じてブルッと身震いしたので部屋に戻る事にし、手すり壁につかまり膝を立てた。
ゆっくりと立ち、目線が手すりを超えたその瞬間。
里菜は息を呑み、その顔は血の気をなくした。
『見つけた』
それは漆黒の影。
そして禍々しい。
魔王の影が目の前にあった。
「っ!」
心臓が大きく脈打ち、その鼓動が頭に響き渡る。
こんな近くに来るまで気付かないなんて!
慌てて床を蹴り距離を取り身構えたが、影は動く様子がなく予測がつけられない里菜は次の行動を決められず、向かい合ったまま動けないでいた。
どうしてこんな所に魔王の影がいるの?
城は結界魔法で守られているんじゃないの?
まさか、あの時の影は討伐出来てなかったのかしら!
『ねえ、リナ。ボク待ってたのに。約束通り大人しくしてたよ。でも、なかなか来てくれないから来ちゃった』
それは無邪気な声と口調で、まるで久しぶりに会った友人かのように話しかけてきた。
なに?どういう事?
「や、約束?」
『うん、あ、そうか。記憶全部貰っちゃったから、もしかして約束の事も覚えてないの?』
「な、何……?」
『やっぱり覚えてないんだ。でも、ボクは覚えてる、教えてあげるから一緒に行こうよ』
「い、行かない」
あまりの動揺に、声が少し震える。
『約束破るなんて許さないよ、もう待たないんだから。少しだけ記憶戻ってるでしょ、一緒に来てくれたら残りも返してあげる。だから行こうよ、ね』
今、記憶を返すって言った……?
約束なんて知らない。けれど、魔王が私の記憶を持っているのは本当だと思う。
返してもらえるなら返して欲しい。
でも、一緒に行くなんて……。
『迷ってるね、ふふ。大丈夫、ボクは君を傷つけないよリナ』
早く記憶を取り戻したいけど魔王の言うことなど信用できない、けれど自分は何を約束してしまったのだろう。
『あーあ、王子に気付かれたみたい』
影がざわりと身じろいだ。
『ボクより王子がいいの?ダメだよ、リナから言い出したんだからね。ボクは優しいから今は引いてあげる、また来るね』
闇夜に溶けるように魔王の影は消えた。里菜に重い枷を残して。
「リリエナ!」
「聖女殿!」
扉を勢いよく開きヴァイツェンとリンガルが駆け込んできた。
バルコニーで呆然と突っ立ったまま動かず返事もしない里菜の正面にまわり、顔を覗き込む。
「リリエナ、大丈夫か?魔王の気配を感じたが、何があった?」
「殿下、気配はどこにもありません。消えたようです」
辺りを探っていたリンガルが抜いていた剣を納めた。
「そうか。リリエナ、魔王の影がいたのか?君が討伐したということか?」
里菜は答えられなかった。
どう言えばいいのか、どこまで話して大丈夫なのかわからない。
ヴァイツェンがそっと肩に手をかけ、優しく室内へ誘導してくれる。
「体が冷えている、このままでは風邪を引いてしまうよ。部屋へ戻って温まろう」
ヴァイツェンからの目配せに頷いたリンガルは火魔法で部屋の空気を温める。
リンガルの瞳の色は赤褐色で魔力がやや弱く、魔法より剣が得意だがこれくらいなら使えるようだ。
「リリエナ?」
ソファに座らせた里菜を跪いたヴァイツェンが下から探るように見上げた。
考え事に没頭していたが、目の前に現れたブルーグリーンの瞳にハッとなる。
その碧色は氷山のように厳かで、何もかもを見透されるのではないかと思わせる雰囲気があり、里菜は少し身を強張らせた。
「い、いえ、どこかに消えてしまいました。すみません」
私は魔王と何を約束してしまったのだろう、体の震えが止まらない。
「やはりいたのか、消えたとはどういう事だ?」
「気付かれたと、その……すぐ後に殿下がいらっしゃいました」
「私達が向かっていると気付いて逃げたという事か?」
変に思われなかったかしら。
嘘は言ってないが後ろめたさを感じる。誤魔化されてくれただろうか、かと言って本当の事を言うのは怖い。
もし話をして私と魔王の繋がりを疑われたら、内通者のように思われたら、殿下は私の事をどう思うのだろう。
「急に現れたので、あの、驚いて何も出来ませんでした。来て下さってありがとうございます」
里菜は視線を上げられず、ヴァイツェンが何かを見逃すまいと目を向けているのに気付かない。
ぎゅっと握りしめた手が温かいものに包まれ、優しく撫でられる。
「手が冷たいね、震えも止まらない。肝心な時に側にいられなくてすまなかった、話はまた明日にしよう。リンガル、この部屋を中心に護衛を三倍にふやせるか」
「勿論です。第二と第三からと、見回りには第四から配置いたしましょう。今宵は殿下も部屋からお出にならず庭に降りるのもなさらぬよう」
「リリエナを守るのは私の役目だ、私も護衛につく」
「なりません」
「何故だ」
「ご自身の立場をお忘れで?部屋から出ずとも聖女殿をお守りする事は可能かと」
表情を変えず、リンガルは淡々と答えている。
「なら私もこの部屋に」
「尚更なりません、不用意に男女が一夜を共にするべきではありません。今宵は私が扉番としておりますので」
「む、仕方ないな。リリエナ、何かあれば私を呼んでくれ。内扉のすぐ向こうに私はいるから。おやすみ、リリエナ」
渋々と告げると、手を取りチュッと口付けをしてからリンガルと共に去って行き、残された里菜は深く息を吐いた。
やっぱり変に思われたわよね。
殿下は優しい、いつも気遣ってくれて、今も追及しなかった。
強引なのかと思えば、やってる事は紳士的で、私はそれに甘えている。
記憶も約束もハッキリさせないとね。
翌日、魔王討伐作戦会議が始まりリンガル騎士団長から大まかな作戦が告げられた。
「魔王は東の灰の森にいると考えられる。沼の奥にある洞窟、前回魔王の影が出た所だ、そこに禍々しい気配が未だ充満していると第六騎士隊より報告があった。第二、第三、第四騎士隊で班を組み討伐にあたる、第一及び第五騎士隊は特別警戒体制とする。何が起こるか分からない、いつもより気を引き締めてくれ。尚、聖女殿はヴァイツェン殿下と共に先頭に立たれるそうだ」
途端、騎士達がざわついた。
この会議には全ての隊より、隊長、副隊長が参加しており、その中でも過剰に反応した者がいた。
「どういうことですか、魔王の狙いが聖女であるのは明白。我がドゥーべ家の宝を囮にでもするおつもりか、リンガル団長」
低く唸ったのは第六騎士隊隊長レイニード・ドゥーべ、里菜の義兄だ。
本来なら隠密隊である第六騎士隊は会議には出席しない、正しくは第六とわからない形でその場にはいるのだが、それは顔を売らない為だ。
レイニードも然り、立場上顔は知られているが、第六騎士隊隊長であると知っている者は意外と少ない。
だがレイニードは隊長として出席した、それは討伐対象が魔王である事と、なにより里菜の為だった。
「落ち着け、これは聖女殿のご意志だ。騎士団からの要請ではない」
「そのように誘導したのでは」
「なんだと」
両者の間に火花が弾け、険悪なムードが漂う。
それに他の隊長達も納得がいかないようだった。
「狙いが聖女様なら、やはり後方に」
「ならば、いっそ城にて第一騎士隊が王族方と一緒にお守りする方がいいのでは」
「騒ぐな、我々は万全の体制で迎え撃つ、聖女殿も国も俺達で守る!以上だ」
口々に反対意見が出る中、里菜が「あの」とか「その」など説明しようとしたが、誰も耳を傾けてはくれず困っていると。
「静かに、敵の狙いを承知の上での申し出だ。だが今一度、気持ちを聞かせてくれないか、リリエナ」
ヴァイツェンの凛とした声が空気を変えた。
自分が本当にどこまで出来るのか分からない、記憶にない魔王との約束は不安でしかない、でも私は行かなきゃいけないと思う、行って確かめなきゃならない事だと直感が言っている、同行を認めてもらわなきゃ!
里菜は大きく深呼吸をした。
「お兄さま、皆様、今回の同行は私が決めた事です。ヴァイツェン殿下と共に私の使命を果たしたくお願いしたのです。私にもこの国を守らせて下さい、そしてその為に皆様のお力をお貸しください」
声、震えなくて良かった。
力強い里菜の声が響き渡ると、おおおー、とどよめきと拍手が起こり、もう異議を唱える者はいなかった。
「本当にそれでいいんだね」
「レイニードお兄さま、はい」
「そうか、だが危なくなったら帰っておいで、僕がどんな手を使っても守ってあげるよ」
ん、今不穏なワードが入ってなかったかしら。
首を傾げた里菜の前にヴァイツェンが塞ぐように立った。
「リリエナは私が必ず守る」
「ほう、今度こそ守れるんでしょうね殿下」
「当然だ」
今度はヴァイツェン殿下と火花が散る程の睨み合いになったが、リンガル騎士団長が仲裁に入り討伐作戦会議は無事?終わることができた。
魔王はきっと現れる、その時私は……。
体が震えそうになるのを堪える。
私がやろうとしていること、殿下は怒るかな。




