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あの日以来、凪咲は、より俺としてくれるようになった。
学校に来る頻度は変わらないけれど、一層距離を縮められている気がする。
「先生、昨日の授業何処までやりました?」
「昨日は、この文法まで。ちょっと難しいところだったかも。」
「そうですか…」
「やから、はい。」
凪咲に、前日作ってきた対策プリントを渡す。
普段なら絶対にしないような真似だが、何故か、今回は流れるようにやってしまった。
生徒は平等に扱わなければならないと、分かっているはずのなのに。
「えっ、ありがとうございます…」
驚きながらも嬉しそうな凪咲に俺も笑顔になってしまう。
駄目だな、こんなこと。
けれど、今回だけ…
暫く凪咲を見つめていると、僕より奥に視線が行ったことに気付いた。
「どしたん?あ、平林先生。」
気になって後ろを振り返ると、そこには、平林先生が居た。
気不味そうな凪咲とは反対に、嘘っぽい笑顔で笑っている平林先生。
間に挟まれている俺が、思わず帰りたくなるぐらいに、此処の辺りだけ深刻な雰囲気が漂っていた。
何とかしたくて、咄嗟に声を出した。
「あ、あの…」
「凪咲ちゃん、この前の話やねんけど…」
「…話したくないです。」
「そうかもしれないけど…」
「言ったじゃないですか、もう放っておいてくださいて。」
「だけど…このままじゃ、」
「どうでもいいんですって!」
投げやりになった凪咲は、この前と同じく、嫌そうな顔をした後に、校舎から駆け出した。
「追いかけへんと…!」
その後に続いて平林先生も走ろうとするけれど、僕は彼女の手を掴んで、それを防いだ。
「…そっとしといてやってくれませんか。きっと今まだ、心の準備ができてないだけなんですよ。」
「でも…」
「時間が薬になる、ともいいますしね。」
「…分かった。」
納得してなさそうな平林先生の手を離して、一礼をしてから、職員室へと戻った。
職員室前の廊下を渡ると、中庭に、苦しそうな顔をした凪咲が窓から見えた。
今度こそ駄目だ、放っておかなきゃ。
そうだと分かってるのに、また自然と体が動いていた。
――
「凪咲。」
「あっ、稲久楽先生。」
ベンチに座っていた凪咲の隣に、腰を下ろすと、凪咲は驚きもせず俺の方を見た。
「ごめんな、あの時助けてあげられへんくて。」
俺も、凪咲の方に顔を向けると、凪咲は気不味そうに笑顔を作って見せた。
「いえ、あれはどうしようもできなかったことですし。それに、私、知ってるんです。平林先生もわざとじゃないんだって。」
「でも、凪咲が嫌な気持ちになったことには変わりないやろ?」
「それは、そうですけど…」
「やから、ごめん。謝らせて。」
「…分かりました。」
納得してなさそうだが、再び見せた彼女の笑顔は、心からの微笑みに変わっていた。
「稲久楽先生って、優しいんですね。」
久々に見た、心から笑っている凪咲の顔。
その綺麗さに、思わず口角が上がってしまった。
「いや、そんなことは…」
「じゃあ、私はこれで。平林先生に見つかっちゃまずいので。」
彼女は、再び俺に笑い掛けると、校舎に戻っていった。
けれど、その目に光など、一切宿っては居なかった。
――
放課後、夕陽が眩しいほどに校舎を照らして、生徒達の顔も輝いている。
羨ましいような、少し苦しいような。
僕には過ぎた青春を見ているのは、胸が痛くなった。
変に強がって、十分に楽しめなかった、あの頃に戻りたい。
「稲久楽先生。」
教室から背を向けていると、後ろから聞き覚えのある声で呼ばれた。
「あ、柊木先生…」
「お疲れ様、大丈夫?」
「えっ?何がですか?」
「顔、すごく疲れてたから。」
「あぁ…別に平気ですよ。」
確かに、映る自分の顔は少しやつがれている。
徹夜し過ぎたかな。
そう思いはするけれど、まだまだ大丈夫、後もう1日ぐらいなら、徹夜できる。
「…平気じゃないでしょ。今日はちゃんと休みなさい。」
「いや、平気ですって…」
「駄目。大丈夫だと思ってるところが、案外ギリギリだったりするから。今日は、休んで。」
「…分かりました。」
堅苦しかった彼の顔が、一気に嬉しそうに変わる。
この人も、凪咲ぐらい分かりやすいな…
手元に持っていたプリントを、ファイルの中に仕舞うと、彼とともにゆっくりと職員室へと戻っていく。
教師としての仕事は正直苦だ。
だが、この、仲間と笑い合える暖かい時間がずっと続けばいいのに。
そう思いながら、笑っている僕がいた。




