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Prologue.
「全部のことから逃げられればいいのに。」
曇った表情で、叫ぶかのようにそう言う彼女に、目を大きく見開く。
けれど、これは動揺なんかじゃない。
寧ろ、求めていたはずの言葉。
そんな彼女のたったその一言で、僕はおかしくなってしまった。
小刻みに震える彼女の手を迷いなく取って、まるでこうするのが当たり前のように、言葉を発した。
「なら、逃げようよ。」
これは、面倒くさがりな僕と、全てから逃げてしまいたい彼女の逃避行だ。
何時だって、僕の人生はつまらない。
ほぼレール通りの人生、サボれる時にサボって遊びまくる。
今だって、少し前に取った教員免許に縋って、公務員と言った安定した職を選んでいる。
授業だって早いところ確立させて、楽した日々を送りたいのに…
「教師って、なった後が大変ですよね…」
「あはは…そうやね。」
こんなことなら教師を選ぶんじゃなかった。
市役所の役員とかになっていれば、もう少し楽して働けたんだろうな。
「でもさ、稲久楽先生めっちゃ頑張ってるよ。やから、少しだけでも休みや。」
「ありがとうございます。」
柊木先生は、僕にカフェオレを差し出した後、ニコッと微笑んで自分の席へと着席した。
何であの人は、キャリアを十年も積んでないで、あそこまで安定して働けるんだろう…
謎で仕方ないけど、頑張って彼の背中を追えるように、とりあえず今は仕事に集中しないとな。
そうすればきっと楽に…
「忙しいところごめんなさい、稲久楽先生。ちょっといいですか?」
パソコンを開いたと同時に、後ろから声を掛けられてびっくりする。
後ろを振り向くと、見えたのは平林先生。
何かやらかしたかな…なんて思いながら、元気よく返事をして、彼女の後ろを追いかけた。
――
「それで…話って何でしょうか?」
「んーと、青柳のことです。」
「青柳……あぁ、凪咲のことですか。」
青柳凪咲…。僕によく話に来てくれる生徒だ。
話の内容は様々。
ゲームの話だったり、本の話だったり。
何かと趣味の合うことが多いので、たまに俺の方からも話し掛けたりしている。
「はい。最近、彼女が学校に来る頻度が減ってきているのを知ってますか?理由を知りたいんですが、私が聞いても、青柳は『何もない、心配しないでくれ』の一点張りで…青柳と仲の良い稲久楽先生なら何か知ってるんじゃないかな…って。」
「僕も、特に何も聞いてないですね。」
「そうですか…凪咲ちゃんって、基本学校では独りじゃないですか。だから、よく話をしている稲久楽先生なら、何か知ってると思ったんですけどね…」
「うーん…あっ、良ければ聞いときましょうか?」
「ほんとですか?そうしてくれると助かります!」
「わかりました、さらっと聞いておきますね。」
「はい、お願いします!」
先程の不安な表情に変わり、嬉しそうに微笑む平林先生。
顔には出さないけど、また面倒くさい仕事を増やしてしまった嫌悪感に心が包まれた。
――
次の日、凪咲のクラスでの授業後に、彼女に話し掛けに行ってみた。
「凪咲、つい最近解禁された、あのゲームのイベントマップ見た?」
最初は普段通りの会話を心掛ける。そっから徐々に、だ。
「見ました!めちゃくちゃ綺麗でしたよね!あんなところを探索できたら、めっちゃ楽しいんやろうなぁ…」
「分かる、心浄化させるよなぁ…」
「えへへ…」
「…ところで、凪咲。ちょっと聞きたいことがあるんやけd… 」
「あっ、次の授業音楽なんで、もう行きますね!」
「えっ…ああ…行ってらっしゃい…?」
例の話題に触れてみようとした瞬間、凪咲は俺を避けて音楽室へと向かっていった。
いや、避けられたのは偶然…?
分かんないけど、とりあえずもう1回…
「凪咲!昨日授業で配ったプリントのことなんやけど…」
「すみません、今恋春に呼ばれてるんで!」
「凪咲、柊木先生が…」
「直接、柊木先生のところ行ってきますね!」
「凪咲!」
「…ニコッ」
「さ、避けられた…?」
――
「はぁ…」
「お疲れ様。」
「柊木先生…ありがとうございます。」
この前と同じく、柊木先生はカフェオレを差し出して俺に微笑んでくれた。
「授業進行とか、行き詰まってるん?」
「あ、いや…授業は思ったよりうまく進んでるんですけど…」
「じゃあ…やっぱり、青柳さんのことかな?」
「…当たりです。」
「そっか。」
柊木先生は、急に立ち上がって僕の手を取った。
「こういうときは、息抜き!渡り廊下行こうか」
「…!はい。」
――
久しぶりに立ち止まった渡り廊下は、いつだって、心を和ませてくれる。
心地よく靡く風に、季節を知られてくれる木々たち。
一瞬だけでも、嫌なことを忘れてくれるこの場所が、僕は結構好きだ。
「どう?ちょっとは落ち着く?」
「はい、すっごく。やっぱり、僕、この場所好きだなぁ。」
「ふふっ。良かった。…ところで、青柳さん、どうしたんやろうね?ずっと絵描いてて、大人しい子なんだろうなと思ってたけど、やっぱり、一人じゃ寂しかったんかな。」
柊木先生が急に話し始めると、僕も聞く耳を持って真剣な顔をする。
「一人は…多分、嫌いじゃないと思います。案外、凪咲は一人を楽しんでますよ。」
一人でいる時の凪咲は、たまに少し哀しい顔をするけど、基本苦ではなさそうだ。
絵を描くことだって、好きそうだし。
「それに、誰かと話したければ、クラスを抜け出して紗菜のところへ行くでしょうし。」
紗菜とは、おそらく、凪咲の一番仲の良い友人。
昼休みに、一緒にいるところをほぼ毎日見かける。
「それはそうか…でも、何で?」
「そこです。僕もそこが分かんないんです。」
彼女は、基本、何事も器用にこなせてると思う。
友達がいないだけで、人との接し方、勉強、運動も、人並み…あるいは人並み以上に出来てる。
なのに、何が嫌で、逃げているんだろう。
「話してほしいです、僕は。」
「うん、そうやね。どうしたら話してもらえるんやろう。」
きっと、今までの方法じゃ駄目だ。休み時間に話し掛けても、何かと理由をつけて逃げられるだろうし。
「…逃れなくしたら、いいんちゃう?」
「それ思いました。でも、どうやって…」
「うーん…あっ。個人面談のあと…とか?」
「えっ。」
個人面談…説明は省くけど、この学校では、テスト前などに生徒と2人になって、放課後に教室で話をする。
「稲久楽先生のクラス、生徒に負担掛けたくないからって、テスト期間より大分前だけど、もう終わるよな?」
「は…はい。」
「なら、稲久楽先生も空き時間あるだろうし…凪咲を捕まえることができるんじゃない?」
「…確かに!」
自分ではなかった発想に、思わず、目を大きくして驚いた。
早速試してみようと思い、平林先生に話し掛ける準備をした。
「相談乗ってくれてありがとうございます、頑張ってみます!」
「いーえ。頑張ってね。」
「はい!」
勢いよく走り出すと、職員室前の廊下で、佐々木先生に声を掛けられる。
「おい、廊下は走るなよ。」
「ごめんなさい!」
深呼吸をすると、速歩きをして、再び職員室を目指しだした。




