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海岸に突き出た岬に小さな灯台があった。小夜が連れて行ってくれた。何度も行った。朝日も夕陽も見た。星空も眺めた。特別の場所だ。絶壁から眼下に打ち上げる波しぶきの絵面が今目の前にある。
『「この岬にはよく来るの。お父様が帰ってくるような気がして。いつものように船で沖に出て遭難したの。船長だったのよ。乗組員が五人の小さな船だけど。漁船じゃなくて海洋調査の仕事をしていたの。海の研究する人。」
「沙羅ちゃんがいくつの時のこと?」
「五歳。」
「ふうん、小さかったんだね。」
「うん、でもお父様の胡坐の中に座っていたことをよく覚えているの。ごつごつした足の感じ。それに髭で私の頬を擦るのよ。痛いから私が嫌がると喜んでもっとやるの。」
「船は見つかったの?」
「ううん、船も遺体も何も見つかっていないの。だから心にけじめがつけられなくて。お母様は今でも天主様にお祈りしている。お父様が帰ってきますようにって。」』
沙羅の父親も死んでいたのか。しかも海の研究する人。小夜は父親が海洋学の教授だったと言っていた。小夜が幼い時、海で亡くなったと。
私は岬から海に突き落とされた。粉々に波の先で泡になる。
沙羅は小夜かもしれない。小夜だ。
寝間着の柄も沙羅の話も30年前に私の前に現れたこと。私の物語を今、映画館で見せられている。私の話なら結末は知っている。言っておくが3人の妻の中に小夜はいない。興味を殺いでしまって申し訳ないが、これは関係者の嫌がらせだ。手の込んだ仕掛けで私の本を宣伝しようとしているのだ。
新作の売れ行きは悪くないとホセから聞いているが、貪欲な出版社がさらに売り上げを伸ばそうと算段しているのだ。どこかで知識人の間抜け面をからかって見ている奴らがいるに決まっている。しかしどこで私ですら忘れていた過去をみつけてきたのだろう。
『「大樹さんは大学で何を勉強しているの?」
「文学と哲学だよ。」
「なんだか難しそうね。」
「文章を書くのが好きなんだ。それが仕事にできたらいいんだけどそんなに簡単な世界じゃないよ。」
「いつか本ができたら送ってね。」
「はは、うん、約束する。沙羅ちゃんは高校卒業したらどうするの?」
「教会を守っていくつもり。」
「東京に行きたいとか思わないの?」
「私はここが好きだから。海がないと死んじゃう。」
「人魚姫みたいだね。」
「うわ、素敵。ありがとう。」』
学生の時から物書きになりたかった。短編を書いて出版社に持ち込んだり、記事を書いて新聞社に売り込んだりもしていた。いつか本ができたら送るという遠い約束を思い出した。自分が簡単に約束して簡単に約束を破る人間であったことを知った。
私は絵が得意なので人魚の絵を描いて小夜にあげた。彼女は絵を胸に当てて嬉しそうに私を見上げていた。
糸を引っ張ると底なしの井戸から幾らでも甘い余韻を振り撒いて記憶が上がってくる。小夜は太陽に当たっても日焼けすることがなくいつも白い肌をしていた。本当に海から現れた人魚姫のようだった。
英語の下手な私と小夜は二人だけの言語で話すようになった。誰も知らない言葉。目が合うと繋がれた視線の上をお互いの想いが歩いていく。いくらでも自由に会話できた。




