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映画が始まった。
タイトルまでの映像も重要だ。観客を引き込まなければならない。どこかの島らしい。フアンのスーツに気を取られて映画の説明は宙を舞っていた。まあいい、見ればわかる。
日本か。日本の映画だ。若い時に一度だけ行ったことがある。思い出の国だ。もう30年も前になる。思い出すのすら何年ぶりだろう。私は東京には行ったことがないから日本に行ったとは言えないかもしれない。太陽が眩しい青い海が広がる。潮の香りはしないが、映画館で海を見るのもいい。海風がなくても波の音はよく聞こえる。
『「沙羅、掃除は済んだの?今日は説教台も磨いてね。掃除の業者さんが来られなくなったから。」
「来られないの?断ったんじゃなくて?」
「どっちでも一緒でしょ。来ないものは来ないんだから。」』
母音の連なる日本語の響きがなつかしい。母娘。大きな黒い瞳が似ている。教会か。日本のどこだろう。
私はクリスチャンだ。言葉を発する前に洗礼を受けフランシスコという名をつけられた。母はよく教会に行っていたが、信仰を押し付けるような人ではなかったから、私はイエスより友達に会うほうが多くなった。音楽に酒に恋に、どこにでもある青春らしき時代を過ごした。
教会から足が遠のいて久しい。誰かが結婚するか死なない限り行くこともなくなった。人は罪を持って生まれてきているらしいが、そう言われても懺悔することが見当たらない。
エーゲ海のような海と島だ。東京しか行ったことのない観光客はこの美しさを知らないだろう。私が訪ねたのもこんな想像外の日本だった。海辺に建つ小さな教会。白い板でできた鎧戸の壁に水色の窓枠がはまっていた。屋根は瓦が敷かれて日本家屋と西洋建築の子供のような建物。正面の一番高いところに漢字で教会というような意味の言葉が掲げられていた。見たことがある。長崎の映画なのか。
『「福江島の天主様の額を少しの間貸してくださるから、取りに上がらないと。沙羅が上がってくれたらいいんだけど。」
「いつ?」
「できるだけ早く行ってくれたら助かるわ。神父様が待っていてくださるから。」
「わかった。明日、学校が早く終わるから帰りにそのままフェリーに乗る。」
「ありがとう。吉野神父様を訪ねてお行き。」』
長崎だ。日本の西の果て。私は20歳の頃に隠れキリシタンに興味を持って長崎の五島列島を旅した。大学の夏休みだった。五島列島は百以上のたくさんの島から成っている。福江島は一番大きな島だが、それでも島の端から端まで20キロメートルもないだろう。
私はリュック一つで五島列島の北から南、福江島から宇久島までいくつもの島を自転車で渡った。
私の記憶が頭の中で上映されて、映画と二重写しになる。
浜辺を自転車を転がして歩く。あまりの暑さにシャツを脱いで海に飛び込んだ。太陽に負けたと思ったが、太陽は私を海に招待してくれていた。焦げた皮膚を冷たい海水が覆って歓待してくれる。肌と波の温度差が海に同化させてくれた。太陽が照り付けて鼻の頭や肩がじりじりとする感覚を映画館で味わう。海風も感じられそうだ。




