21
翌朝もこの世界はよくできていた。
脱ぎ捨てたシャツは同じ皴でこちらを見ている。歯ブラシの向きも同じだ。完璧に次の日が昨日と繋がってやってきた。見事だ。小夜はもういない。私は完全な世界で今日も生きる。
タクシーを宿に呼んでもらい島の中心にある施設を訪ねる。明後日にはスペインに帰る。まりあのくれたメモには施設の住所と鳴瀬恵子という名前が書いてあった。タクシーの運転手にメモを見せて島の中心に向かう。
宿から1キロもなく10分足らずで到着した。中心といっても他と比べて山がなく民家が多い程度で店もない。茶色い光沢のあるタイル張りの三階建ての建物の前で降ろされた。看板があるが何と書いてあるかはわからない。タクシーがここだというのだからここなのだろう。
自動ドアが開き、中に入ってみる。病院の消毒液の匂いと老人の匂いが玄関に置かれた百合の匂いと混じって避けられない。空気の密度を上げている。狭いロビーのようなところにソファがいくつか散らばっている。本を読む人もいれば、数人で話す人、カードをやっているような人たちもいる。静かな騒めきも散らばっている。
老人の間を縫って歩く看護師の恰好をした女性にメモを見せる。看護師はメモを見て頷くと、
「ああ、まりあちゃんから聞いてます。どうぞこっちです。」
と微笑んで先導してくれる。島の人間はみな家族か親戚なのではないかと思う。
「ありがとう。」
私が片言の日本語で言ってみると、
「まあ、日本語が上手。この部屋ですよ。」
と看護師の女性はさらに暖かい笑顔で褒めてくれて子供になった気分がした。連れてきてくれた部屋には4人分のベッドがあった。
「奥の右側が鳴瀬さんですよ。」
看護師は手で指し示し、また笑顔をくれて去っていった。
私は小夜の母親に少しずつ近づいた。小さなベッドに小さくなった恵子が座っている。音のない部屋で私は恵子と対峙した。恵子の手の甲に浮き出た血管と筋のような骨は皮膚を破いてしまいそうだ。頬骨にかかった皮膚も乾いて顎まで引っ張られている。大きな黒い瞳は濁って静止している。私を見ているが、視線は私を通り抜け壁を直視する。
「こんにちは。覚えていますか?アウグストです。30年前にお世話になりました。」
私の名前を一音ずつゆっくり発音してみたが、私のことは認識できないのだろう。私のことどころかここに人間がいることさえ気づいていないようだ。ベッドの脇の小さなテーブルには小さな向日葵が花瓶で咲いている。まりあが生けたのだろうか。黄色い花の生命力が重い空気に耐えている。
「昨日、まりあさんに会って小夜さんが亡くなったって聞きました。」
恵子の瞳は私の口から小夜という名前が出た途端に網膜のシャッターがきられて濁りを晴らしたように見えた。そして矢継ぎ早に口から言葉が続いた。
「小夜は死んでしまったの。海のあぶくになったの。優しい子だったから、天主様が痛くないようにしてくださったわ、きっと。あんなに高いところから落ちたら岩に当たって痛かろうに。きっと天主様が受け取って静かに海に入れてくれたのよ。優しい子だから。ぷかぷかって波に乗ってね。優しい子だから・・・」
「小夜は崖から落ちたんですか?病気で亡くなったんじゃないんですか?」
「灯台は危ないの。高いの。」
「灯台の岬から落ちたんですか?事故ですか?」
恵子は私の手を急に握って枯れるような声で絞り出した。老人の力とは思えないほど強く手を握ると私の両腕に頭をつけて声を荒げ長い白髪が乱れた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、許してください。ごめんなさい、怒らないで。私がいけなかった。私が悪いことをしたの。私がしてはいけなかった。私の決めることではないのに。ひどいことをしてしまった。」
私が誰だかわかったのだろうか。恵子は私にずっと詫び続けた。
「何をしたんですか?僕は何も怒らないですよ。大丈夫ですから安心して。」
それからいくら聞いても恵子はごめんなさいと繰り返して謝るばかりで要領を得なかった。私は諦めて最後に恵子の手を握り別れを告げた。何を謝っているのかさっぱりわからない。私が世話になったほうで、謝られるようなことなど何もない。小夜は病気ではなく岬から落ちて亡くなったのだろうか。まりあは知らないのだろうか。




