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Cine Doreはマドリードで一番古い映画館だ。カレラデサンジェロニモの旧ロシアホテルの一階に1896年開業したらしい。正面玄関前でタクシーを降りラウラをエスコートして赤い絨毯を進む。
カメラのフラッシュの向こうにホセがいるのが見える。数枚でいいから映画の看板の前で、夫婦で写真に納まるように耳打ちしに来る。私の写真嫌いを知っているからいちいち念を押すのだ。よっぽど信頼されていないのか。断ったことなどないのに。
私はきっとさぞかし嫌な顔をしているらしい。俳優ほどではないがそれほど不細工でもないと自負している。筋肉隆々ではないが長身で細身のスタイルも悪くない。しかし笑顔は作るものじゃない。それに比べてラウラは女優だっただけあって笑顔が上手だ。だから余計に私の不愛想が際立つ。まあいい、妻だけ美しく映れば。
私にくれるラウラの笑顔も本物なのかと疑う時がある。ラウラ自身ももう偽物と区別がつかなくなっているのかもしれない。女は自然に平然と大女優をやってのける。私は3度の結婚で学んでいる。博士号を授与されてもいいくらいだ。偽物と本物の区別がつけられるから博士課程が修了したのではない。偽物でも本物でも動じないで生活を続けられるようになったから卒業したのだ。
妻と知人の途切れそうのない四方山話を後にして一人席に着く。映画は久しぶりだ。しばらく大作にかかりきりで娯楽からは遠のいていた。映画好きだが前作の仕事中は映画を観る気にならなかった。SFなのか恋愛ものなのか全く予備知識のない映画を観るのも楽しいかもしれない。
大作を書き終えて肩の荷を下ろした今日なら頗る楽しめそうだ。しばらくのんびりするつもりだ。編集者は次の企画を既にいくつか提示してきたが、興味のない様子を見せている。私も時には役者になる。
「もう始まるかしら。」
「ああ、ちょうどいい時に来たよ。」
隣に腰かけたラウラの手に私の手を重ねる。機嫌のいい時ラウラはさらにその上にもう片方の手を重ねてくる。今日はそれほどでもないらしい。ラウラの手を握って映画が始まるのを待つ。
劇場が暗転するといまだに興奮する。子供の気分だ。舞台の緞帳の前、スポットライトの中に配給会社のフアン・ロレンソが立っている。
フアンとは10年ほど前、私の恋愛小説の映画化の話のときに知り合った。プロジューサーとしての手腕はかっている。私より少し年下だったはずだが抜け目がない。気さくな奴だが賢い面が時にずる賢いになる。雑多な人間の間に入って交渉して表面上誰にも不満がないように進めていくのだからずる賢くなければやっていかれないのだろう。
エゴにまみれた複雑な取引が彼の性格を作り出したのか、もともとの性格がプロジューサーに向いていたのかわからない。本人ももうわからないだろう。人は演じているうちに役の人物になっていく。性格なんてそんな不確かなものだ。しかし演じるとしても私には無理な仕事だと思う。私は自己分析によると残念ながらちょっと不器用だ。
フアンの映画紹介もなかなかうまい。裏方のくせに人前で話すのが得意なのもプロジューサー向きなのかもしれない。人脈がすべての仕事だから人として魅力がないと務まらない。結婚生活ももう10年にはなるだろうが破綻していないようだ。少なくともまだ表面に見えるほどには破綻していない。
フアンは城を守るのがうまく外では野営しかしない。私は外にも城を作ってしまうから本丸が崩壊するのだ。わかっているが性分というものには服従するしか手立てがない。野営で生きていかれる器用なフアンが羨ましいというよりわからない。奥義があるのかもしれないが結局使いこなせなければ術策がいくらあっても無駄だ。私はどんな訓練を受けてもたぶん無理だろう。
洋服のセンスも合格点ではないだろうか。濃いグレーのスーツに黒のシャツ。体との隙間が数ミリ。高級感がある。しかしちょっとやりすぎだ。俳優気取りに見られる。危険だ。しかしだからこそ野営がいくらでもできるのかもしれない。
私は表現者ではあるが、表現の場は紙の上だけと決めている。体で表立って表現することはない。したくない。私の魅力は外皮では表現されない。




