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アウグスト・ヘルナンデス。この名前をご存じだろうか。スペインでは少々名の知れた知識人だ。国王の晩餐会に招待されたこともある。若いが世間に認められた作家だ。若くはないかもしれない。来年50になる。若いだろうか。晩餐会では若いほうだった。
誤解してほしくないが認められたいと切望しているわけではない。しかし認められなければ本が売れない。売れなければ食べられない。そういう意味で世間の評価は重要だ。そんな世界にもう30年生きている。大学在学中から書き始めたからだ。ジャンルは・・・
妻が赤いドレスで近寄って来る。後ろ向きで。無言で。背中のチャックを腰から襟まで上げてやる。言葉がなくても夫は条件反射で何をするべきかわかるように飼いならされている。夫は二20年以上やっている。板についたものだ。しかし妻は3人。もちろん同時にではない。
「タクシーが来たみたい。先に行って車で待っていて。すぐ行くから。」
ラウラが鏡台の引き出しをせわしなく漁りながら指示を出す。ラウラは3番目の妻の名だ。そう、今の配偶者。30になったばかりで美しい。スタイルもいい。詩の話も演劇の話も表面を掬うくらいなら問題ない。彼女は女優を辞めて私と結婚したのだからそれくらいで文句を言ってはいけない。
しかし私が家庭に入るように懇願したのではない。彼女の希望だ。私はむしろ女優としてキャリアを積んでほしかった。夫婦はすれ違いが多いほうがいい。
軽く髪を手櫛で整えて車に向かう。一階に降りるとハビエルが、「車が表で待っている」と遠くでジェスチャーを添えて言っている。またトレーニングしたのかハビエルの胸筋が、以前にも増して厚くなっているように見える。頷いて目配せして外に出る。
20代への嫉妬か。アパルトメントの管理の仕事を蔑む気持ちなど毛頭ないが、ヨーロッパの第一線の知識人である鎧を脱がなければまだ勝てそうだ。
タクシーに先に乗り込み、妻を待つように運転手に言う。そうだ、本のジャンルを紹介していなかった。フィクションが多いが事実を調べて書き起こすこともある。最新の本はフェリペ二世の半生を書いた大作だ。調査と執筆に4年半近くかかった。
滅多に笑ったことがなく、プロテスタントの大虐殺、サン・バルテルミの虐殺を知った時に初めて笑ったと言われている16世紀の王様だ。それ以後も笑わなかったらしい。
「お待たせ。Cine Doreまでお願い。」
乗り込んできたラウラが行先を告げる。香水が少し強い。
「今夜は誰が来るのかしら。私、よく知らないのよ。このドレスでよかった?」
「うん、綺麗だよ。すごく似合っている。」
お世辞ではない。妻だからでもない。ラウラはとても美人だ。肌も綺麗だし、体形をいつも気遣っている。
「どういう映画か知っている?」
「ホセが兎に角行ってくれって言うから。行って観ればいいだけだよ。論評を頼まれているわけじゃないし。外国語作品のプレミアだから何も知らないよ。」
ホセは私の担当編集者だ。ラウラは怪訝な顔をするが、本当にそう言われたのだ。作家にも付き合いというものがある。一日中、机に向かってペンを走らせていれば褒められるわけじゃない。編集者の言うことを聞いて意に反して動かなければいけない時もある。行きたくないところにも本を売るために出向くのだ。行商人だ。
そういう時は何も考えないことにしている。言われるままに言われたことをする。そのほうがあれこれ抵抗するより楽なことに最近気づいた。これも50を間近に控えた強さだろうか。ハビエルにはまだわからないだろう。
「Verdad(真実)とかいう題名だったと思うよ。まあ映画を楽しんで。」
ラウラの小さな耳にキスをする。赤いドレスに赤く揺れるピアスが可愛い。ラウラが台所の不具合やシャワーの水の量のこと、映画出演を勝ち取った女友達のことを脈絡なく話しかけてくる。彼女の話に起承転結はない。タクシーの中は彼女の言葉で埋め尽くされる。
3度目ともなるとこの空間で文字の間の息を吸う方法を心得ている。窒息することはない。ラウラは私が彼女の手のひらで生活していると思っているかもしれないが私はもっと上手だ。そう思っているラウラを高見から見物している。彼女の話に合わせてどんなダンスもアドリブで踊れる。踊っている振りもできる。上級者だ。




