1 シャンテル王女の日常
ペラッと紙をめくる音が小さな執務室に響く。
赤い瞳の少女が手元の書類一枚一枚に目を通して、それらを承認・非承認に振り分けていく。その他、彼女が判断し難いものは保留として別の山に分けていた。
「シャンテル様、新たな書類をお持ちしました」
宮廷官僚のニックが少女が座る執務机に書籍並みの分厚さがある紙束を置いた。これらは全て国王の決裁を求める書類だ。
「ありがとう、ニック。……国王陛下のご様子は?」
「はい。今朝、城にお戻りになってお部屋でお休みになっています。昼頃にシャンテル様が仕分けた書類をお持ちするように、とのことでした」
「そう。お父様はまた朝帰りされたのね」
呟いてシャンテルは視線を伏せる。そして諦めたように再び手を動かし始めた。
シャンテル・ド・オリヴィエ。彼女はルベリオ王国第一王女であり、亡きジュリエット王妃の忘れ形見だった。
シャンテルの母、ジュリエットは元敵国であるギルシア王国の第二王女だった。
ルベリオ王国とギルシア王国は平和協定が結ばれる直前まで激しい戦争を行い、その結果、両国で多くの兵士や民が命を落としている。
所謂、平和協定の一環で友好の証として当時ルベリオの王太子だった現国王とジュリエットの婚姻が結ばれた。
だが、未だにルベリオとギルシアの仲はそれ程良くない。互いに恨みを抱えたまま、第二王女と王太子の婚姻で無理やり争いに幕を下ろしたからだ。
ジュリエットは王妃になった2年後、シャンテルが5才の時に病で亡くなっている。そんな状況もあり、シャンテルはギルシアの血を引く王女として城で腫れ物扱いされていた。だが、それだけでない。
彼女は問題児としても噂を囁かれている。
理由はジュリエットより約一年遅れで宮廷入りした側妃バーバラとその娘のジョアンヌにある。
「お姉様ったら、またそのような格好をなさって」
シャンテルは書類仕事を終えたあと、第二騎士団の副団長でありシャンテルの護衛騎士であるカールを連れて廊下を歩いていた。
呼び止める声に振り向くと、可愛らしいふわふわのドレスに身を包み、見事なブロンドの髪を揺らしてこちらにやって来る妹のジョアンヌがいた。
彼女はシャンテルを見てあからさまに怪訝そうな顔をする。
シルバーの長い髪をポニーテールにしたシャンテルは、ルベリオ王国騎士団の服を着用していた。女性であるシャンテル用に仕立てられた一着だ。胸元には王家の紋章が入っている。
デザインからシャンテルが関わったお気に入りの戦闘服だった。ルベリオ王国騎士団に所属する少数の女性騎士の服はシャンテルの騎士服を参考に仕立てられている。
「腰に剣までぶら下げて、淑女とは思えないお姿。なんて野蛮なのかしら」
後ろに従えている二人の侍女と共に顔を歪めるジョアンヌ。そんな彼女にシャンテルは一つ息を付く。
「午後から訓練を控えているの。第二騎士団団長として動くためよ。ジョアンヌも第三騎士団の団長なんだから、午後から訓練があるでしょう?」
尋ねるとジョアンヌは手にしていた扇子で口元を隠す。
「団長と言っても、わたくしたちは王女ですから、お飾りの団長ですわ。大体、淑女は剣なんか握りませんもの」
彼女の言葉に「そうね……」と、呟きながらシャンテルは自身が剣を握る理由を伝えるべく、思考を巡らせる。
「今のルベリオ王国に王子がいれば、それもいいと思うわ。だけどこの国には王子がいない。いざという時に国民を守るには、ただ見ているだけでは駄目なの。それに、代々王族がルベリオ王国騎士団の団長を務めるのが習わしでしょう? 役目を果たさないと」
シャンテルがそう返すと、ジョアンヌが不機嫌そうに目を細めた。
「お姉様ったら、わたくしにお説教なさるおつもり? 大体、習わしなんて大昔の人間が決めたことじゃない」
パチンッとジョアンヌが扇子を閉じた。
「第三騎士団はわたくしを守る盾なの。お姉様のように訓練に参加する方が可笑しいのよ。……あぁ! そうでしたわ! お姉様は野蛮なギルシア人の血が流れているのでしたわね!!」
ジョアンヌは母譲りの青い瞳でシャンテルを見下したように笑う。
「ジョアンヌ様。いくらなんでも言い過ぎです」
堪らずカールが口を挟む。だが「いいの」と、シャンテルはそれ以上彼が何かを言う前に止める。
「こんな野蛮な方がわたくしのお姉様だなんて、怖いですわ。いつかお姉様に殺されてしまうかも。なんて恐ろしいのかしら!」
大げさにジョアンヌが自身を抱きすくめる。それを見た彼女の侍女が「ジョアンヌ様、ご心配なく。ジョアンヌ様は私たちがお守りいたします」と、庇うように前に出た。
“私たちが守る”ね。
随分軽々しく言ってくれるわ。とシャンテルは呆れる。
「貴女たち、“守る”と言ったけれど、今までジョアンヌの我儘に付き合い、身の回りの世話だけしてきた侍女に一体何が出来るの?」
挑発するような言葉に侍女が顔を赤くする。
「っ! シャンテル様といえど、ジョアンヌ様を虐められるなら私たちは黙っていません!!」
侍女が敵意をむき出してシャンテルを睨み付けた。その後ろでは面白そうにジョアンヌの唇が弧を描いている。
「ジョアンヌ!」
そこに突然、大きな声が響く。振り向くとこの国唯一の妃であるバーバラが駆け寄って来た。
シャンテルは騎士服の裾を摘むとカーテシーを披露する。だが次の瞬間、パシンッ!! と大きな音が辺りに響いた。
シャンテルが痛む頬に顔を上げると、鬼のような形相で睨み付けてくるバーバラの姿がある。
ツゥーッと、シャンテルの頬を生暖かいモノが伝っていく。バーバラが持つ扇子が折れていた。扇子でシャンテルの頬を引っ叩いたのだ。
「お母様!」
ジョアンヌが母の登場に嬉しそうな声を上げる。
「わたくしの娘に何するのっ!!」
「バーバラ妃殿下、私はただ話をしていただけです」
「黙らっしゃい!!」
パシンッ! と、またバーバラが折れた扇子でシャンテルの反対側の頬を叩く。
「バーバラ妃殿下!!」
堪らずカールが間に割って入った。
「どうか怒りをお沈め下さい。私は最初からこの場に居りましたが、誓ってシャンテル様はジョアンヌ様に手を上げていません!!」
「退きなさい! 誰がシャンテルの息が掛かった騎士の言うことなど信じますか!!」
バーバラ付きの騎士や侍女がシャンテルたちを囲む。
「シャンテルを捕らえなさい!」
バーバラの命令に困惑しながらも、数人いる騎士の中から三人が動く。そしてシャンテルが身動きできないよう、彼女の腕を掴んだ。
「バーバラ妃殿下、誤解です!」
「いいですこと? わたくしたちの姿が見えなくなるまで、シャンテルを捕らえていなさい! 絶対にその野蛮な王女をわたくしたちに近付けては駄目よ!!」
騎士が戸惑いながら「はっ!!」と返事をする。
「ふんっ」と鼻を鳴らしたバーバラはジョアンヌの肩を抱き寄せると、残りの騎士を引き連れてその場を去っていく。
彼女たちの足音が聞こえなくなった頃、「はあぁぁぁ」と心底安心した息を吐いたバーバラ付きの騎士たちは直ぐにシャンテルの拘束を解いた。
「シャンテル様、大変失礼致しました。どうかご無礼をお許しください」
言葉と共に騎士たちが膝を付いて頭を下げる。
「良いのよ。顔を上げて? 貴方達は主人の命令に従っただけよ」
「ですが、第一王女であるシャンテル様に傷が……バーバラ様に代わりお詫びいたします」
「お詫びだなんて。あの人は自分が悪いなんて微塵も思っていないわ。だから貴方達が謝る必要なんてないの。ほら、立って?」
シャンテルの言葉に漸く騎士たちが立ち上がる。
「せめて頬の手当を!」
「お顔に傷が残っては大変です!」
心配する声にシャンテルは笑いかける。
「大丈夫よ。手当てはカールに頼むから問題ないわ。持ち場に戻って」
その言葉に三人は顔を見合わせる。渋々といった様子で諦めると、シャンテルに敬意を払って「失礼致します」と挨拶した。そして、バーバラたちが去って行った方へ歩き出す。
「……さぁ、私たちも訓練に行きましょう」
くるりとシャンテルはカールを振り返った。
「その前に手当が先です!」
カールは怒ったように言うと、シャンテルの手を掴んで医務室の方へズンズン進んでいく。
「ちょっ! カール? 何を怒ってるの?」
「そりゃ怒りますよ! シャンテル様がまたご自分を傷付けられても平然としているからです!!」
ぎゅっと握られた手に力が込められる。
「私はいつも言っていますよね!? もっとご自分を大切にしてくださいと!!」
カールはシャンテルより一つ年上だ。第二騎士団の副団長として、そしてシャンテルの護衛騎士としていつも側にいてくれる。
「心配してくれてありがとう」
シャンテルはぎゅっと彼の手を握り返す。
「っ!? ま、全く! シャンテル様にはいつもハラハラさせられてばかりです! 貴女に……っ! シャンテル様の身に何かあったらと思うと! 生きた心地がしません!!」
「……」
カールの言葉にシャンテルは何も言い返せない。
ルベリオ王国は国としてぎりぎり政治が回っている状況だった。
夜な夜な城を抜け出して愛人の元へ向う国王は朝帰りの常習犯だ。そんな国王が日中にまともな公務など出来るはずもなく、代わりにシャンテルが書類整理を行っている。だから、ほぼ仕分けが完了している書類に国王は判を押すだけ。会議に参加しても家臣たちの判断に任せきりという始末だ。
そして、ルベリオ王国唯一の妃であるバーバラは贅の限りを尽くしていた。高級なドレスや甘いお菓子にお酒。大粒の宝石が付いた宝飾品を好んで買って、飽きるとまた違うものを買って身に付けている。
しかし、ルベリオ王国は小国だ。おまけにギルシアとの小競り合いも頻繁に起きるため、国防費は嵩んでいた。財政に余裕などあるわけもなく、民は高い税金を治めている。そんな節約ムードな国と反対に金遣いの荒い妃に疑念を抱く家臣や国民は多い。
だが、彼女の実父であるベオ侯爵が手を回して権力と金の力で抑え込んでいた。
第二王女のジョアンヌはバーバラに甘やかされて育った。何かにつけてシャンテルを見下すが、愛らしい容姿は周囲の庇護欲を誘う。彼女が社交界に出るとその容姿と巧みな話術によって、彼女はシャンテルから虐げられていることになっていた。それは社交界で有名な話しで、城下でも噂の一つとして囁かれている。
シャンテル王女はギルシア王国の血を引いた野蛮な王女で、妹のジョアンヌ王女を虐めている、と。
しかし、城に使えている使用人のうち、バーバラとジョアンヌ付きの侍女たち以外はみな知っている。
シャンテルは決してジョアンヌを虐げてはいないこと。そして、ルベリオ王国を守ろうと努力していること。
国王の代わりに重要な国政の殆どを担いながら、日々第二騎士団の団長として励んでいること。
そして、国のためにシャンテルの自由を縛り付けていることを。
シャンテルがいなければ、ルベリオはいずれ国として立ち行かなくなる。
誰も本人の前で口にはしなかったが、城の大半の人間はシャンテルこそがルベリオ王国の王だと思っていた。
読んでくださりありがとうございます!
若干の見切り発車ですが、面白いと思ってもらえるよう頑張ります。
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