06.魂の伴侶
「愚かな。人間風情が妾を止められると思うてか」
数瞬のち。喉を、首筋をかき切られ、あるいは血を吸われて、血の海に沈む騎士たちを血の瞳で睥睨しながら血霊はそう吐き捨てた。
身体強化と防御以外に魔術を用いぬ騎士たちが何人いようとも、瘴気の具現化たる吸血魔の敵ではなかった。
「⸺旦那様!」
返り血でもはや真紅に染まったドレスを翻して、横たわったままのローグにフィオーラは駆け寄る。
「しっかりなさいまし旦那様!」
ローグはまだ生きていた。だが呼吸は弱々しく、血の気が引いた顔面は蒼白で、今にも生命の炎が燃え尽きそうなほど。
「…………あァ。そのあかいドレスも、よォく似合ってらァ」
「そんなこと!今そんなこと……!」
普段から褒めたこともないローグに、こんな死の間際に唐突に褒められたフィオーラの顔が、ドレスに負けないほど真っ赤になった。
「ああ……!旦那様、どうか死なないで……!」
だがフィオーラにはローグの傷を癒やす手段がない。吸血魔は生命を奪うことには長けていても、人を救う手立てなど持ち合わせない。癒やしの魔術を扱えるのは黒、青、赤、黄、白の五色に分類される魔力の加護の中でも青の加護だけであり、血霊であるフィオーラはその魔力の加護さえ持たない、瘴気の具現化たる闇の眷属なのだから。
「⸺旦那様。どうか無力な妾を赦して下さいませ」
逡巡した挙げ句、だがどうすることもできずに、フィオーラは目に涙を浮かべて愛する男に詫びた。
その瞳から一筋の涙が頬を伝い、ローグの頬に落ちた。そのひとしずくを追うように顔を寄せ、彼女はローグの首筋に牙を突き立てたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
胸の傷も生々しいままで、何事もなかったかのようにすっくと立つローグの胸に縋って、フィオーラはひたすら泣いた。その震える細い肩を見下ろすローグの眼は白ではなく闇の色、瞳孔はそれまでと変わらぬ深い海の色のままだ。
「オレハ、オマエトイラレレバ、ナンデモイイ」
ぎこちない口の動きと発音で、ローグがくぐもった声を出した。
「貴方と添い遂げる事さえ出来れば、妾の魂は浄化されて、次は人の身に生まれてこられるはずだったのに!」
そうすれば、次の生こそはローグの生まれ変わりとともに、人として生きられたはずだったのに。
血霊には、他の吸血魔には無い大きな特徴がある。人間の伴侶を得て、正体を隠したままでその伴侶とともに寿命まで添い遂げることが出来れば、その時には魂が浄化されて魔力となり、善なる魂として輪廻の輪に戻ることができるのだ。
これは元々血霊が、悲恋の末に死んだ女の魂が輪廻の輪を外れて彷徨った挙げ句に、瘴気に絡め取られて闇に堕ちた存在だとされているからだ。
だが血霊が伴侶を得ることは奇跡に等しい。世に無数に存在すると思えるほどの数を誇る人間の男の中で、血霊の伴侶となれるほど魂の相性が合う者はたったひとりだけなのだ。
血霊は、普段は瘴気に紛れてその身を隠している。姿を現すのは陰神が充ちる夜だけで、それも自分が標的と定めた男だけにしかその姿を見せることはない。だからこそ血霊は人知れず狙った男を襲えるし、噂が立ったところで騎士団や冒険者たちに狩られることもないのだ。
なのにあの時、フィオーラと名をもらった血霊はまだ誰にも狙いを定めていなかったのに、その彼女をローグは見つけたのだ。
姿を隠した血霊を見つけ出せるのは魂の伴侶だけだ。だからあの時、彼女は歓喜に震えて、そして彼の妻になりたがったのだ。
幸運にも伴侶を得たならば、次は添い遂げねばならない。だが愛する伴侶は、いつ罪を暴かれて処刑されるやも知れぬ最底辺の男だった。
途中で殺されてはなんにもならない。だからこそフィオーラは、ローグに少しでも真っ当な人生を歩ませようとしたのだ。ふたりで寿命を迎えるその日まで、確実に生き延びるために。
騎士たちに棲家を囲まれて連れ去られた時もそうだ。自分ひとりならば騎士だろうと冒険者だろうとよほどのことがない限りは討たれることもないし、いざとなれば瘴気に紛れて姿を隠してしまえばいいだけだ。だけどローグはそうではない。
つまり、護られるべきはフィオーラではなくローグの方だったのだ。
だが待てなかったローグは彼女を取り戻しに侯爵邸に侵入した。それなのに彼は侵入するための隠密技能も道具も何も持たず、それどころか邸の外壁に沿って侵入防止用に[感知]の魔術が仕込まれた魔道具が設置されている事にさえ考えが及ばなかった。
だからあっという間に見つかり、そして斬られたのだ。
フィオーラは絶望の中で決断した。今ローグに死なれてしまっては、彼の魂は輪廻の輪に乗って再び彼女の手の届かないどこかに行ってしまうのだ。次にいつ見つかるかも知れぬ、その永い時を再び過ごすことは、伴侶を見つけてしまった今となってはもう耐えられなかった。
だからまだ生きていた彼の血を吸って、その生命を奪い、自分の眷属としたのだ。
そんなことをすれば彼の魂は輪廻の輪から外れてしまい、彼女も人として生まれ変わることが二度と叶わなくなる。だがそれが解っていてもなお、彼女は彼を失いたくなかったのだ。
「サア、イコウ、アルガリータ」
「少し、待って頂けますか、アシヌス」
女は男に声をかけ、それから振り返る。その視界の中、やはり彼女に血を吸われ眷属に堕ちた騎士たちがゆらりと立ち上がった。
邸の方から、裏門付近の騒ぎを聞きつけた残りの騎士たちが駆けてくるのが見える。
「妾たちの証拠を残さぬよう、片付けをしてから参りましょう」
黯黒の瞳に無言で命じられた騎士だった者たちは、邸に残る全員を始末するべく、音もなく駆け出した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
某国のとある地方都市で、地方領主の邸が一夜にして何者かに全滅させられたという事件が世界を揺るがした。その夜に邸にいた者は全員が、領主である侯爵とその夫人、嫡男とその弟妹たち、詰めていた私設騎士や国家に仕える騎士たちはもちろん、住み込みの従者や侍女、使用人や下人に至るまで、ひとり残らず骸となって発見されたという。
それだけでなく、スラムのゴロツキの死体も多数見つかった。
時を同じくして、街からは噂に登っていた謎の美女と、その連れのスラムのボスだけが姿を消した。
姿を消した男女が犯人ではないかと疑われ、捜査が開始されたが、程なく犯人不明として打ち切られた。
男はスラムを牛耳ってはいたものの騎士たちに対抗できるような武力はなく、スラムのゴロツキの死体もあったことから、邸に押し込んだものの蹴散らされて逃亡したものと見做された。つまり犯人は別にいると考えられたのだ。
だがそれ以外に侯爵邸を全滅させうる集団の目撃情報などは一切なく、侯爵自身も領内に酷政を敷いていた悪徳領主だったこともあり、国は早々に見切りをつけて新たな領主を送り込み収束を図った。
そうして街はほどなく平穏を取り戻し、消えた男女はすぐに忘れ去られた。彼と彼女がどこへ消えたのか、確かめようとする者さえ居なかったという。
その後、ふたりの姿を見た者は、ただのひとりも現れなかった。
だから彼らがどうなったのか、どこで何をしているのか、誰にも分からない。
ただ遥かな虚空から全てを見ていた陰神だけが、彼らの行く末を知っていることだろう。