花の火葬場
曽祖父の代に鉱山を掘り当て、そのまま一家は石炭産業を営むようになったそうです。祖父の代に受け継がれ、そして三十四になる頃、父が事業を引き継ぎました。父は三十七になる頃に、まだ二十三の娘の嫁ぎ先となり、それで十七年前、私が生まれました。
炭鉱事業のそのものの需要が廃れ、一家を維持するには様々な仕事に手を出す必要が出てきました。父は優秀で、時勢をきちんと読み込み、また卓越した人望によって家庭を傾かせることはありませんでした。私にも母にも愛を注ぎ、あれは蝶、あれは花、と育ててくださいました。
老いた下女が身を引き、新しい下女がやってきたのが私の十歳になる頃です。下女は、下女というにはあまりに人格もはっきりしていて、家計や家事は、彼女に任されるようになりました。父も母も、彼女のことをいつ揺らぐともしれない大地よりも信頼していました。私と五つしか変わらない彼女は、私の遊び相手としても親しく接してくれます。
十七になったいまも、下女はいつも私の横にいてくれる。朝の十時から二時間、ピアノを弾く私に耳を傾けながら帳簿を付けている。その黒い髪と瞳、長く伸びて伏せがちな睫毛は、窓からの虹に照らされてゆらゆらと煌めいてあります。帳簿を付ける指先さえ、ペンを踊らせるように、撫でるように佇む。彼女は美しい女性の手本のような女性でした。
私がぱたりと演奏をやめると、下女はこちらを見て、首を傾げました。
「いかがなさいましたか。喉が乾きましたか」
「いいえ」
父は、優しかったし、愛情深くて、私たちのことを、誰よりも考えてくだすっていた。
「バッハは、どんな気持ちで神様を想って、こんな美しい曲を書いたのかしら」
「非凡な作家の考えることは、言葉で説明されても分かりかねるものでしょう」
「普通の人のことだって、なにも分からないわ。お父様は、今日もお帰りにならないおつもりかしら」
近頃、お父様は朝帰りが増えて、時によっては三日も帰ってこないようになりました。それでお母様の様子も変わってきてしまった。お父様がお帰りにならない日が増えて、きっと他所に女の人がいるのだわということは、誰も言わないにしても、分かりきったことでしたから、お母様も同様に、そのことを察して、気が違ってしまったのかもしれません。
私に言いつけて、よく分からないお薬と、それを流し込むためのアルコールを持ってこさせて、それで気絶するみたいに突っ伏して眠ってしまうのです。
ああ、そして、それらが無くなってしまうと、お母様は私をぶつようになりました。
ぶつと言っても、平手で、左の頬をぱしんと叩くだけです。痛みは少なく、跡も残りませんから、外に出ても問題はありません。でもそんなお母様のことも放っておけず、最近は学舎に行くことも減りました。ピアノを弾いている時間はお母様も疲れ果てて眠る時間ですから、私の唯一安らげる時間となっていました。モノトーンの鍵盤が、そこから伸びる旋律が、私を救ってくれる。バッハのト短調が、いつでも私の心を底から優しく撫でてくれる。ハンマーを弦に打ち付けるために沈み込む私の指と、その感触。それは、私を海の底に送ってくれるような気がする。変なお話で、困ってしまう。心に燻った火を消すために海水に潜るのです。でももっと燃える。
「ねえ、貴女」
「はい、お嬢様」
「お母様の薬がなくなってしまう。買いに行ける?」
私が聞くと、下女はペンを置き、ピアノの天板を見つめて、その闇に溺れるみたいに苦しそうに息を吸いました。
「先日から、売り子に叱られています。減りが早すぎると。それに、お酒を手に入れるためのお財布も心許なくなりつつあります。これ以上買えば、町の方からなにを言われるかも分かったものではありませんし、それに、お夕飯も質素なものになります」
「お母様の苦しみに比べたら、きっとなんてことないわ」
そうだわ。ぜんぶ、お母様が苦しませるようにした神様が悪い。お父様だって、きっとなにか逆らえない力に引っ張られて、帰ってこないのだ。
夕方、その日は指が疲れなかったので、ピアノを弾き続けていました。メイドが買い出しに出たと思ったら、不意にお母様が食卓から起き上がってきて、亡霊のようにふらふらと揺れながら、ピアノの前に座る私のところへ寄ってきました。お母様はベッドに倒れ込むみたいにして、私のことを痛いほど強く抱き締めてきました。
「なにか弾いてくれる?」
お母様はこの数ヶ月で、何年も老けたように見えました。白髪も混じって、お化粧もしていない肌がしみでくすんで見える。お可哀想に、助けてあげられたら、どんなによいかしら。
「そんなに抱き締められていたら、腕が動きませんわ」
私が冗談がましく言ってあげると、お母様は聞いた途端かっと目を開いて、私の髪を引っ張って、椅子から引きずり下ろしました。そして小さな声で叫ぶのです。
「どうせ邪魔ものよ、どうせ、私なんか邪魔ものなんだわ。貴女も言うのね、私の子なのに、私を邪険にして消そうとするのね。死んだら、死んだらいいと思っているんでしょう」
そのときのお母様の瞳といったら、何色とも形容しがたい色に染っていました。怒りと悲しみが同時に混ざって、気味悪く光っていたのです。
その夜は、結局、お父様は帰ってきました。無意味に無邪気ではありましたけど、私はこれで万事良くなるかのような、そんな幻妄で嬉しくなりました。部屋を繕っていなかったお母様は慌てて笑顔で応対しますけれど、お父様は部屋の惨状を見て、太い眉を寄せて、やがて重い空気を引き摺るようにして、部屋に篭ってしまいます。
その部屋の扉の前で立ち尽くす母の姿の痛々しいと言ったら、まるでいまだじゅくじゅくした赤い傷の上を、なめくじが這い回るようなものでした。
真夜中はいつでも、美しいものと恐ろしいものが混在して、そして、気味の悪いほど静かなものです。けれども、そんな夜に、不意にお父様の部屋の方から、女の人の苦しい声が、漏れ聞こえました。
私はなにごとかと思って、もしかするとお父様とお母様が久しく仲良くしているか、あるいは酷い喧嘩でもなさっているんじゃないかしらと思って、廊下に面する扉に耳を傾け、じっと聞いていました。
しかし、その声は、私のよく知る。
女の人のものでした。でも、けれど、その声の主はよく分かるのに、そこから漏れ聞こえる音にならない声は、私の知りうるものとおよそ違うものでした。そして理由も分からなくて、およそ現実的な実感も湧き起こらず、急に周りにあるものが大きく、そして自分が蚊のように小さく小さくなったような感覚に襲われて、へたりと座り込んで、その夜はついに寝付かれませんでした。
不和とした夜は輪廻のようにやってくる。それが連日続くと、母はその声が聞こえ始める度に、私の部屋に来るようになりました。そして、私の上に股がって、寝そべる私の頬を、何度も、何度も、手のひらで打ち付けるのです。
ぱしんと叩き付けられる。時計の音が響く暗闇の寝室で。皮膚に与えられる鋭い痛みは、心をそのまま攻撃しているような、張り詰めたものでした。若枝が自重に耐えられず、折れてしまうような淋しい音が、私の身体を走っていく。――ああ、バッハになりたい。音楽家だったら、きっとこんな心憂い夜も美しい旋律にするのだわ。母の泣き零れる顔を見ながら、私は酷い無力感に苛まれて、そのあとはただただ恐ろしいだけでした。
ねじ巻きを、どんなふうに下手に回せば、こんなような壊れた家庭が起こるというのだろう。物事は万事よかったはずなのに。いつから、なにから。それとも最初から。歯車は錆びて回らなくなっていたのでしょうか。罪を見つけていこうとすれば、どこからでも醜い黒い百合が咲く。
あの人は、なぜ、あんなこと。なぜ、なぜ。いつものようにピアノを弾いて、横で帳簿を見澄ましている彼女に聞くに聞けず、なぜ、なぜと考え続けました。
でもなにも分かりません。父が貴女を愛したのかしら。それとも貴女から愛したのかしら。身体を重ねる幾つもの夜は、どういう愛で存在しているの。貴女が父に乗るうちに、私は母に乗られているのよ。そして貴女が悦ぶ間に、私は痛みに耐えている。お父様が帰らないことは無くなったけれど、でももっと酷いことになった。
私が落としたピアノのハンマーが、内側でことんと音を立てると、下女はふと顔を上げて、私の瞳を見つめてきました。そっと口が開かれる。
「お嬢様、奥様のご様子はいかがですか」
なにを、無邪気に聞いているのでしょう。私はずっと信じてきたこの女の人が不意に怖くなりました。
「さあね」
「お変わりありませんか」
誤魔化してやって、見逃してやって、それなのになお無遠慮に聞いてくるのに腹が立って、私は思わず拳を鍵盤の白黒に叩き付けました。そしてなんの音楽にも使われないような聞き難い音が弦を叩いて空気を揺らすのです。
「お変わりありませんかですって!」
私はほとんど叫ぶみたいだった。
「散々よ! 貴女のせいで散々! お酒も薬ももう尽きたのに一日中家をうろちょろして、空き巣みたいに家探ししてるわ。それで夜に、私のところにやってきて……それで……」
下女は泣き始めた私を不意に強い力で抱き寄せ、頭を撫で付けました。私がとても厭になって、その身体を突き飛ばすと、下女は床に手を付き、座る私を見上げていました。
「お父様と奥様は、お嬢様にとって、どう見えていますか」
「どうもこうもないわ、あんな人たち」
「わたくしめは、どう見えていますか」
「貴女も一緒よ!」
力ずくでピアノの蓋を閉めて、私は走ってその場を立ち去りました。
その夜は不思議と、いえ、思い返したら不思議なだけで、実はなんでもない夜だったのかもしれません。特別なことが起こったから奇異に思えただけで、なんら平常だったのかもしれません。とかく、その夜は私ひとりで寝具に仰向けに横たわっていました。そしていつお母様がやってきて、上に股がってもいいように、その姿勢でじっとしていました。私もまた頭がおかしかったのでしょう。けれど、母はついぞやってきませんでした。鐘を打つ音。そう、時計が深夜3時の鐘を打つ音が始まって、三度響いたかと思うと、全く別の、夜の静寂をつんざく鐘の音が、頭痛のように響き渡り、屋敷全体を揺らしました。時計の音ではない、と気付いて、寝具から飛び上がり、窓の外を見上げると、音はそこから上がっていました。電灯掲げる数名の男たちが、必死にこちらを呼びかけて、そして鼻を掠める砂利っぽいにおいが、屋敷になにが起きたのかを知らせていた。
部屋の扉が空いたかと思うと、飛び込んできたのは下女でした。
「お嬢様、屋敷に火が」
「火事! どこから、どうして?」
慌てふためきなにか掴もうとする私の腕を捉えて、下女はただ蝋燭のみを瞳に走らせて、ゆらゆらと反射させて、でもいつよりも毅然と私を見つめました。
「いまはとにかく、安全な外へ。まだ火の手の回らぬ通路がございます。厠の廊下を突っ切って、西の階段を下ってください。そして裏口に回るんです」
「貴女は、」
「ご主人さまと奥様の安全を確認してまいります」
そう言って下女は私を引っ張るようにして部屋から出したあと、奥様とお父様の部屋の方角へ走っていきました。私は呆然とする間に火花の散る音を聞いて我に帰り、慌てて彼女の言うように、西側の階段を下りて裏口の鍵を内側から外して出ました。そこにはまだ本当に火の手は回っていませんでした。
表に回ると業火が、星影すら覆い尽くして舞っていた。慌てて走ってきた学舎の先生が私を見つけて、泣きながら頭を撫でてくれる。そのまま燃える二階を見続けたけれど、でも消防隊が来るのは遅れ、その間村民たちが水桶をたらい回しにしても、消火はやがて追い付かず、家はたった数時間で瓦礫の山と化しました。
『被疑者死亡につき不起訴』
私が数日後、地域新聞の一面で見たのはその文言でした。
死人は罪に問えぬのだとその時初めて知りました。屋敷に火を放ったのは、精神錯乱を起こした母親だった。焼け跡にはまるで証拠のようなものは残っていませんでしたが、しかし近日の父の外泊や下女との性交が暴かれ、夫人の嫉妬による犯行は明らかと判ぜられたようでした。私の聴取はろくに行われませんでした。それほど明らかだったのでしょう。
母も死に、父も死に、下女は街にいられないと荷物をまとめて出てゆき、一人で叔母のところに拾われた私は、また同じようなピアノを買ってもらって、毎日それを弾く日々でした。
冬を越えた、夏も忍んだ、春はピアノの季節、秋は火の粉が怖い。拾われるところがあったのは幸福なのでしょう。幸い、そこでも、私は娘として扱われて、大変裕福に過ごさせて頂きました。
「お嬢様」
部屋の扉を叩く音が聞こえると、屋敷の老婆が呼び掛けてきました。迎え入れようと扉を開くと、彼女は手に持っていた封筒を私に手渡しました。
「お手紙にございます。宛先はお嬢様に。しかし東京の消印で、差出人の名がありません。もしやと思い手探りをしましたが、危険なものは入っていないように思われます。どうぞお読みください。なにか不当な内容であればすぐお申し付けを」
どうもありがとう、と私が言うと、老婆は一礼して去っていきました。差出人不明の封筒。危険なものは入ってないという。こういう裕福な家には、たまに刃の入った脅迫まがいの手紙が届くのです。しかしそうではなさそう。
それに、私に宛てて。東京に友達などおりませんから、なぜだか興奮してすぐにレターナイフで封を切って、そこから便箋を取り出しました。「お嬢様」という精緻な文字が目に入った途端、私は目眩のようにあの火事の夜に引き戻されたような感覚で、その文面に目を凝らしました。
『お嬢様、私は、貴女にとってなにがいちばん良いのかを考えるうちに、きっと必要以上の哀しみと、切なさを与えてしまったのでしょう。ご主人が他所で逢い引きをしているのは、もはや当人も隠すつもりがない様子でしたから、私も、そしてお嬢様も当然知ることとなりましたね。しかしもっとも打ちひしがれたのは他でもない奥様でございます。奥様のそれは、直視もできないような無惨な形で現れてしまいました。気付くのが遅れましたが、奥様がお酒に逃げるようになってから、お嬢様は幾ばくか数えられぬほど、身体に痛みを与えられましたね。ご家庭はすでに崩壊しておりました。それは世間体の意味でも、私が付けていた帳簿で見る限りでも、そうです。すでに、すべてが傾いておりました。そして、私が守るべきは、お嬢様に他ならないと思っておりました。
まずは、ご主人が、他所に行くのを止めなければなりません。そこで利用させて頂いたのが、お嬢様の物である私自身です。私は、ご主人に抱かれることを選びました。若い身体はあの方を喜ばせるのに問題ございませんでした。そして、精神さえ塞ぎ込んでしまえば、痛みも、苦しみも、あるいは快楽も、もはや感じ取らなくて済むようになります。
ですが、それは当然に状況を悪化させましたね。私はなんら光悦を抱いていないのに、わざと物静かな屋敷に響かせるように嬌声を響かせました。それは奥様のお心を、ひどく傷付けたことでしょう。それで、貴女様への暴力が酷くなる一方だということも、自明で、自覚しておりました。ただ、これは必要なことだったのです。そんなことがあれば、奥様は、なにをするか、分かったものでは、ありません。
静かな屋敷には、貴女を叩く音も響いておりました。ご主人にはきっと、奥様や貴女様がどうなろうと、きっと興味がなかったのかもしれません。私は貴女もそうだったように、眠れぬ夜を過ごしました。
そして、屋敷に火が付けられました。混乱はありましたが、巡査や刑事さんの言うには、奥様における動機も、状況証拠も十分なものでしたし、おそらく犯行に及んだと判じて違いないだろうとのことで、私もそう証言しました。結果として家は焼け落ち、奥様もご主人も亡くなることとなりました。
お嬢様、お嬢様。この手紙は、読んだら焼いてください。屋敷に火を付けたのは、他でもない私です。
私がご主人に身体を貢ぎましたのは、この刑事さえ納得しうるような状況を作る、ただそれだけのためです。貴女のような美しく可憐で綺麗な、いつまでも咲き誇る椿のような方を、このような泥の沼地に植えたままには、してはおけませんでした。私は貴女さまが小さい時から、貴女を愛していたのです。私がついぞ得られなかった幸福というものを手に取っている貴女を見て、私はそれで自分まで幸せになったような気になっていられたのです。
有難くございました。こんな私を遊び相手にしてくださって。美しいバッハの音色を聴かせてくださって。芸術や音楽は私にはなにも分かりませんが、それでも貴女が弾くならすべて綺麗で価値のあるものでした。ときおり即興で彩られるお嬢様の曲が好きでした。もう一度弾いてくださいというと、もう覚えていないわと言う、その刹那に存在し、もはや誰にも知られない曲が、私と貴女の中にのみあることが、なにより光悦だったのです。
お嬢様、私を恨んでくだすって構いません。貴女の両親を焼いたのですから。
どんな苦しみだったでしょう。でも火を付けるとき、私の頭の中に流れていたのは鬼気迫るのに優雅なバッハのプレリュード、二番の音色でした。火の振動は、楽譜の音符の踊るのに似ておりました。貴女さまの指先に似ておりました。あのとき、とても幸せでした。
もし、引き取り先の家で、また貴女が不憫な目に合うことがあれば、また屋敷を燃やしてください。すべて私が解決致します。一度罪を犯したのだから、もう何度犯したって同じことだと、思いませんか』
その手紙の最後に、ピリオドを打つかのような黒いインクの点が染みていて、私はそれを封筒に仕舞い込むと、すぐに部屋から飛び出しました。
「おばさま!」
屋敷全体に響き渡るような呼び掛けに、婆やはすぐに私のところへやってきてくれました。
「はい、お嬢様、やはりお手紙になにか?」
「いえ、違うの、この消印は、東京のどこなの」
老婆は封筒に目を凝らし、胸元にかかった眼鏡で、再度消印を改めました。
「四谷とありますから、ずいぶん真ん中の方ですね」
「電車で行ける?」
「行けます。しかしお行きになってどうなさるのです。おひとりで?」
「どうもいたしません、もはやどうにもなりませんもの。でも行かねばなりませんの。おばさま!」
「お嬢様がそこまで仰るのなら止めは致しません。数時間もあれば付きますでしょう。いくらかお金を持って行ってください」
東京なんかだだっ広い。四谷なんてどこか分からない。あの人が本当にそこに住んでいるかもしらなち。こんな告白の文書、本当に住んでいるところから出すとも限らないもの。でも、手がかりがそれしかないなら行かねばなりません。
私は久しく乗る電車の座席で、うずくまっておりました。ただ自分のスカートの裾から出る白い膝を、なにを恥知らずに洒落て出てきたのだろうと呪うだけでした。列車は幾度も停車しました。私の逸る気持ちを押さえ付けるかのように。そしてでもまた、大きな汽笛を鳴らして発車して、私の心を奮いたてました。
入り組んだ架線に驚きながら、私は四谷に降り立ちました。駅前はなんとも言えぬ人混みで、しかし賑やかさはありませんでした。人は黙々と歩いております。私は、その駅前の大きな木の下に立って、それで肺いっぱい息を吸い込みました。そして叫ぶ。彼女の名を。
「私はここよ! ――!」
なりふり構わず我武者羅に、声を上げました。道行く人の好奇の視線も私には関係ない。私には見えない、みんな燃やしてしまったら同じだもの。
「私はここよ!」
それ以外に叫ぶ言葉はない。そればかりを張り上げていました。段々人まで集まってくる始末でした。私は怖くなって目を瞑って、それでもなお呼び続ける。
ああ、全て燃やしていなくなってしまうなんて。でも記憶だけは消せないのよ。あれは私のせいですと言われて、はいそうですかご苦労さまでしたと私が貴女を忘れ去ると思っておいでなのですか。
絆は、音符のように一つ抜ければ見違えたものになってしまうのよ。許して欲しい。父も母もひどいし、貴女も同じだと叫んだ私のことを。ではわたくしたち三人で心中致しますから、と言うかのように家に火を付けて、それで万事解決したと思わないで欲しい。無くなったのは、父の不貞と母の暴力だけはないのよ。貴女の愛も失ったのよ。貴女がいれば、父が帰ってこず、母がそれで私に平手を食らわせるくらいなんだっていうのでしょう。
「私はここよ!」
雨が降り始めると、薄ら笑いの野次馬も立ち消え、夕陽も厚い雲に覆いかぶさり、世界は暗い白銀に染まりました。
「私はここ、助けてよ」
ばたばたと私の髪を無遠慮に濡らしていく雨粒。心の火をかき消すかのように降り注ぐ。私の喉はもう音を発することのできないほど傷付いていました。
そして結局、座り込み、雨に降られ続けました。そのまま一夜を明かして、喉から声は出るかとまた「私はここ」と言おうとしても、もはや掠れ声しか出ませんでした。
駅に入り直して、四谷から去ることにしました。汽車がやってきて、私は窓際の席にびしょ濡れたまま落ち着き、きっとあとで車掌に怒られるんだわと思いながら、雨上がりつつある空の黄金の光芒を眺めていました。そして、列車が発車して、しばらくそのまま外を見ているうちに、遠くに大火が見えました。そこから上がる黒煙が、空の白い雲を突き刺そうと登っていって、私はそれをじっと見るために窓に張り付いて、呼吸が苦しくなるのを必死で抑えました。
「貴女は、そこなの」
帰った次の日、新聞を見てみれば、先日の大火は単なる火事で、事件性もなければ人の関わりもなく、また迅速な対処と避難で死者もなかったそうです。あれは私とも、あの人とも関係ない炎でした。
そして、きっとこの先、蝋燭に灯る火を見るだけで、私は――提灯を見るだけで、焚き木を見るだけで、あの人を、あるいは、ただ風に揺られるカーテンを見るだけで、列車に乗るだけで、頬に平手をもらうだけで、思い出すのだと、そう思うと胸の底から寒くなって、ぱきぱきと指先から凍っていく気になりました。切なくて切なくてたまらなかった。小さなことで貴女を思い出さなければならない私に植え付けられた広大な呪い。もう二度とバッハは弾けまい。もう二度ともう二度と、なにもできまい。すべての行動に誰かが植え付けられているのだもの。この花は私の棺でいつか一緒に燃やされるまで、咲き誇り続けるのでしょう。そして願わくば、貴女にも私が咲き続けていたなら。