6
階段を降りていったその先は暗く、あたり一面を黒で塗りつぶしたかのようだった。
闇以外何もなく、この空間がどこかで終わっているのか、永遠と続いているのかも分からない。
虚無で満たされているようにも見えるが、どこかに何かがあるような、誰かがこちらを見ているような気がする。
見えていないだけで、記憶のヒントになる物があるのかもしれない。しかし、こころのどこかに、何もなければ良いと思う自分がいた。
寒くも温かかくもなく、闇で満たされたここの空気は重く、呼吸をする度に肺がじわじわと握りしめられていくような息苦しさを感じるほどであった。
空気に毒でも混ざっているのではないかと疑いたかったが、そもそもここは罪悪感の正体を知るための場所なのだから、そうであって然るべきなのかもしれない。
エリカは肺にたまった重い空気を一旦全て吐き出すために大きく長く息を吐いた。
そうすることで何が変わるわけでもない、吸うのはまた重い空気なのだから何の効果もないのだが、ざわざわとする心臓を少しでも落ち着かせるにはこうするしかなかった。
そしてエリカがシスタスの手の感触を確かめようとしたときだった。
突如、ドアを勢いよく開け放ったような音と共に目の前に古い映画のスクリーンのような物が現れる。
元々そこにスクリーンがあったのか、投影機がどこに置いてあるのか分からないが、エリカは突如起こったこの状況を確認するために身体を動かそうとした。
が、身体が動かない。身体の繊維全てが石に変わってしまったかのように自由がきかず、目蓋はスクリーンで流れる全てから目を背けんとばかりに開いたままになり、閉じることが許されない。
一体何が起きているのか、これから何が起こるのか。分からないまま事は進んでいく。
エリカは胸にせり上がってくる不安をどうすることもできず、ただスクリーンの映像を見ていることしかできなかった。
自宅のリビングを背景に、一人の男が立っている。
身長はそれなりにありそうで、細身ながらもどこかしっかりしていそうな体格をしている。
どこかで見たことのある雰囲気を感じたが、それの鍵となる顔が黒く塗りつぶされていて見えない。
『……もう終わりにしよう。こんな関係、間違っていたんだ』
深淵の底から採れたような色の声だった。
死んだようではっきりとしていて、消え入るような呟きでありながら身体の芯まで響いてくるその言葉は、真冬の空気に晒された鋏の刃を彷彿とさせる。
『君のことをこんな風に愛するなんて……恋するなんて間違ってた。もっと、違う形で愛するべきだったんだ……』
男がまっすぐこちらを向いてそう言うと、スクリーンの端から手が伸びてきて、視界が微かに揺れだした。
これは一人称視点なのであろう。男を見ている者が手を伸ばし、行動を起こし始めたのだ。
手は近くにあった椅子へと伸びていき、それを力強く握りしめると勢いよく振り上げる。
『……嘘つき……この嘘つき!!!!』
そう叫ぶのは女の声だった。
妙に聞き覚えがある、いや、これをそう言うのは間違いだ。エリカはこの声を一番よく知っているのだから。
『嘘つき嘘つき嘘つき!!!』
男へ何度も椅子を振り下ろし、半ば言葉になっていないような叫び声をあげているそれは、こころのどこかにある糸がぷつりと切れてしまったような喪失感を怒りに変えて、制御できなくなった感情を叩きつけている。
男はそれを腕で顔をかばうようにして受け止め、一切反撃する素振りをみせない。
女の濁流のような感情をただただ受け止め、拒むことなく一撃一撃を何も言わず受け入れている。
女はそれに気づくことなく、一方的に殴打を繰り返していた。
男の発言に含まれた意味も分からず、どうしてそんなことを言われたのかも分からず、絶望的な日々から隔離してくれる存在を失うのが耐えられなくて、受け入れがたいことなど壊れてしまえばいいと言わんばかりに。
だが、この行動にも終わりがくる。
男のか細い一言で、この行動は停止するのだ。
『……エリカ』
男の顔を塗りつぶしていた黒の一部がその一言で消え、男の目だけが見える状態になる。
その目は、悲しみや悔しさや贖罪をぐちゃぐちゃに混ぜたような色をしており、どこか寂しげながらも槍のように鋭い。この何とも言い表せぬ感情を帯びた視線の投擲は、エリカの胸に深く突き刺さった。
罪悪感のように重く、後悔のように後をひく痛みが走り、それはやがて全身を伝っていって全ての筋肉を硬直させる。
こころに対する衝撃というのは人の身体を硬直させ、思考を奪うものである。
これを頭をなぐられたような、ともいうだろうが、この衝撃はエリカの罪悪感、つまり彼女が犯した過ちから生じたものである。きっと胸が張り裂けるような思いであっただろう。
そしてその感触がエリカの記憶の鍵をあけることとなった。
今見ている映像が自分の記憶と結びつき、その時起きたことも、その次に起きることも、その時自分の感情も、男の――恋人だった者の目から伝わる悲しさも、映像の女が行き着く結末も思い出す。
封印を解かれた記憶は走馬灯のようだった。濁流のように一気に溢れ、押し寄せて、この身にしまってある感情をぐちゃぐちゃに掻き回して破裂させてしまう。
今にも弾け飛んで散り散りになりそうなエリカはどうしようもなく堪らなくなり、気づけば砕け、弾けるような激情を叫んでいた。
「もうやめて!!もう何も言わないで!!まだ間に合うかもしれないのに!!」
しかしその声は映像の女には届かない。暫くしてこの惨状を見てしまった母に羽交い締めにされ、事を深刻化させるようなことを口走る。
『何してるのエリカ!止めなさい!』
『うるさい!!離して!!!そもそもあんたのせいでわたしはこうなったのに!!!それを███が埋め合わせてくれてたのに!!!これからずっと愛してくれるって!!約束したのに!!』
母を振り払おうと全力でもがき、叫び散らす自分。
ここまでいってしまってはもう取り返しはつかなかった。もう少し冷静になって母の目を誤魔化せれば、いや、それよりも感情に任せて暴力なんて振るわなければ、彼との関係の結末もあんなことにはならなかったはずだ。
一回の行動が、一回の間違いが、この先の道をがらりと変えてしまう。
たった一度の石の投擲が窓ガラスの一生をあっという間に奪ってしまうように、たった一度の踏み間違いで大切にしていた花のみずみずしさを土にぶちまけて殺すように、自分はたった一つの行動や言動で彼との関係を壊してしまったのだ。
エリカは膝をついて、ただただ涙が頬を伝っていくのを感じていた。
きっとこれが罪悪感の正体だ、そう思いながら。
「……わたしの、せいだ」
映像のおわりと共に、エリカの口から後悔がこぼれる。
「わたしがあんなことしなければ……関係は続いたかもしれないのに……」
あふれでてくる涙を拭いきれず、思わず両手で顔を覆った。
膝をついて後悔にうちひしがれるその姿は、懺悔室に駆け込んでくる子羊のようであった。
しかし事態はそれより酷い。ここにはその告白を優しく受け止め、導く神父はおらず、彼女の言葉は誰の手にとられることもない。
そもそもこうなってしまったら許しをこう相手もいなく、誰に許されて救われるというわけではない。
これが罰というものなのだろうか。
その答えを知っている者はどこにもいない。
『……おまえの……せいだ……』
どこからか掠れた声が聞こえる。エリカがふと顔をあげると、先ほどまで映像が写っていたあたりに黒い人影が立っていた。
身長はエリカより高く、体格は男性のそれに近い。
たったそれだけの情報だったが、エリカにはそれが誰なのか分かる気がした。
『おまえの、せいだ……おまえのせいだ……』
怨嗟の声と共にこちらへ近づいてくる影の姿がだんだんはっきりし始めて、体つきも服装もどんなものなのか分かっていく。
まるで、今までそれを思い出さないようにと影で蓋をしてきたのが剥がれていくようだった。
罪悪感という火に濡れて、それはどろどろ溶けていく。
自責の念がおこす罰の火がじりじりと焦がしていく。
露になったそれは、映像という記憶の中で繰り返し殴り続けた恋人そのものに見えた。しかも、その顔は潰れて血まみれになっている。
『全部、お前のせいだ!!!!お前のせいで、お前のせいで!!!!』
エリカの目の前にまできた恋人はそう叫び、エリカの首に手をかけた。
首はじわじわと締まっていき、苦しみは静かに迫ってくる。
血が圧迫され、命が危機を感じているのが霞んでいく視界から伝わってくる。
自分が心の底に閉じ込めていた殺意の力、重みを増していく罪の感触、責めの視線、それらが今エリカの首を締めている者の正体だ。
記憶の蓋をあけて溢れ、押し寄せてきたそれは、エリカの精神をあっという間に潰し、流していく。
視界は段々と暗くなり、意識が身体から離れていくのが分かった。
――死の気配がする。心臓の輪郭から這い寄ってくる、音も温度もない黒い気配だ。
いのちを維持する感覚だけが感知できる、一刻もはやく遠ざけるべき気配だ。
普通であればここで抵抗し、これを引き離さなければならない。
当然だ。今起きていることが何であれ、回想のなかであれ、死は死である。現実であれば肉体の死、回想のなかではこころの死、いずれもこの先生きていくには必須であるものなのだから。
しかしエリカの潰された精神でそれをすることは叶わなかった。
死に抵抗せず、いのちの行方を自分以外の力に委ねてしまっているその様は、生きることを手離してしまったようにも見える。
抑圧し、忘れたふりをしてきた記憶や感情というのはそういうも力をもった物だ。
その時立ち向かえばたちまち死んでしまうほどの重さと力を有しているから、なかったことにしたり、思い出さないようにしているのだ。
だからといって、成長してからそれを何の痛みもなく受け入れられるかといったら、そうではない。致死性はないにしろ、こころに罅をいれるには十分な威力を持つ。
このままではエリカは罪悪感を受け入れる前に死んでしまうだろう。自分の過去に立ち向かえぬまま終わりを向かえてしまうだろう。
しかし忘れてはいけない。この回想の旅の登場人物は一人ではないということを。
――エリカ、諦めないで。それに立ち向かうのは君だけじゃない。
僕の言葉を思い出して。僕は確かにそこにいるから。――
聞き覚えのある優しい声だった。
ふわりと吹く風のような、やわらかな声。それは確かに傍にいる、温もりの証だ。
エリカの視界に少しだけ光が差したような気がした。
ここに光なんてあるわけがないけど、視界には死の気配がこびりついたままだけど、何だか厚い雲の隙間から黄金を帯びた太陽の光がこぼれたときのような、仄かな兆しが見えたのだ。
エリカはそれを手繰り寄せるために手を伸ばした。
どこにいるかは見えないが、きっとその手を取ってくれる人がいる気がした。
暗澹に落ちそうな生の縁にいるエリカに、まだそちらへ行くべきではないと言ってくれる人がいるような気がした。
微かな希望を動力にして、エリカの手は声の主を探す。
そうすると、どうしてだろうか、ここに来たときにかけてもらった言葉が一つ一つ、よみがえってきた。
――……僕は、君へついていく。見えなくなっても、さわれなくなっても、君が元の場所へ戻るまで、そばにいるよ。――
――次第に僕の姿は闇にとけて、この手の感触さえ消えてしまうだろう。それでも、僕は君の手をしっかりと握っている。そのことを忘れないで。――
ここへ立ち向かう力となったシスタスの声がふつふつとわきあがり、空をさ迷うだけだった手は何かの感触を感じ始めた。
優しく包むような、ここよりも深いところに落ちぬよう繋ぎ止めるようなそれは、姿は見えなくてもそこにいるのだと確信させるものだった。
シスタスが傍にいる。
闇のなかでも進めるようにと導いてくれる存在がそこにある。
仄かな光度はいつの間にか熱を纏って、この闇を照らすほどの星になろうとしていた。
――気づいてくれてありがとう、エリカ。
そうだよ、君の傍には僕がいる。君がまた朝日を見られるようになるまで、君がまた晴天を見られるようになるまで、僕は君を導くんだ。
だから落ち着いて見るんだ。目の前にいる者が誰なのかを。――
エリカはシスタスの言葉通りに、目の前にいる自分の首を締める者をしっかりと見た。
未だに死の気配がこびりついていて鮮明には見えないが、それは顔が潰れて血まみれの恋人に見えた。
しかしそれでは先ほどと何も変わらない。変わらないのならシスタスが見ろと言う意味はないだろう。それなら首を締め、責める言葉を連ねる者の正体は恋人とは違う誰かということになる。
エリカは一度、”目の前にいるのは恋人である”という意識を弱めた。
本当は違う男なのかもしれない。いや、もはや男ですらないのかもしれない。もっと違う誰かで、恋人とは似ても似つかない全く違う人物なのかもしれない。
恋人とは関係なく、自分を責めるような相手とは誰なのか。答えはすぐそこにあるようなのに、なかなか見つけ出すことができない。
――エリカ、そこまでできたんだね。それじゃあ次は声をよく聞いてみるんだ。
声の形をとらえてごらん。きっと答えが分かってくるはずだよ。――
穏やかな湖にそっと小舟を差すような導きは、エリカの気道を少しずつ広げ、死の気配を微かに祓っていった。
幾分か呼吸が楽になり、酸素が肺に満ちて、やがては脳に供給されていく。視界も思考も先ほどよりもはっきりしてきていた。
すると、耳は自然と目の前にいる者の声を鮮明に聞き取れるようになり、その正体の手がかりを一つ一つ拾うことができるようになっていった。
『お前の……せいだ。お前のせいなんだ……』
心なしか小さくなったようなその声をよく聞いてみれば、高さが男のそれではないことが分かる。男であればもっと低いはずなのに、これは女と言っていいほど高い。
それに加えて随分と若い声に聞こえた。自分より少し下の年齢、いや、同じかもしれない。若いのに今にも折れそうで、消えそうで、それでもその存在を忘れさせぬようにと燃え続けている寂しそうな怒りの声だ。おそらくずっと一人だったのだろう。冬場の石床に素足で触れたときのようなここちを感じる。
そこまで考えてエリカはふと思った。なぜそんなことを感じとれたのだろうと。
考えてみてほしい。今も自分の首を締めている相手の声なのだ、これは。
しかも責める言葉を発し、何とも罪悪感を感じる視線で胸を突いてくるような相手である。そんな相手の声をしっかりと聞いた感想が「寂しそう」とはおかしな話だ。せめて「業火の如き怨嗟の声」と感じるべきであろう。
しかも声の質は男ではない、即ち恋人のものではないときた。
それならこんなにも自分をうらみ、責め、首まで締めてくる相手というのは誰なのだろうか。
母なのではと思ったが、それはどうにも違う。
母は暴力もふるうし暴言もはくし、見下してもくるが、責める、憎むというのとは違うのだ。
だって、母は子どものことを自分の装飾音程度にしか考えていない。子持ちの母であるという社会的地位の獲得のためと、同じ母親という地位を得ている人と話すときに、自分の子どもを小馬鹿にして話のダシにするため、そして日頃のストレス解消に使うためのサンドバッグ、あとは都合の良いときに寂しさを紛らわせるための喋る人形、それが母にとっての子どもというものだ。
一人の収入で子どもを管理していた時期があったので、子どものことを自分の金を食い潰している害虫、と思っているかもしれないが、金の稼ぎが良いバツイチ子持ちの男性と再婚したし、何より自分で産んだくせにお前のせいで稼ぎが台無しだなんてお門違いも甚だしい。
つまり、母にとっての子どもは、憎む対象にすらならないのである。
愛しているわけでもなければ、気に掛けているわけでもない。都合の良いときに弄べて、自分のステータスを飾るためのアクセサリーになればそれで良いのだ。そんな母が憎しみという色濃い感情を抱くには、子どもという存在の価値はあまりに軽い。
よって、母ではない。
それなら残る可能性は誰なのか。
罪悪感の正体を知るために来たここで、首を締めてくるほど自分を憎んでいる女とは。
母以外の、女の登場人物で自分をここまで憎む者とは。
――エリカはそこまで考えて、少しハッとした。
いままで見逃していた可能性に気付き、答えを掴めそうになったからだ。
エリカはもう一度、首を締める者の顔を見る。
潰れて血まみれだが、今ならそれがどんなものだったのか分かる気がする。
自分と関わりが深い女で、母ではない者。
映像にいた女のなかで、母ではない者。
そこまで考えれば答えは自ずと導きだされる。
……自分自身だ。
罪悪感を抱き続け、自分のことをこんなにも憎み、顔を潰されても首を締めてくるほどの怨嗟をもつ、それは自分自身でしかない。
顔を潰された恋人の姿をしてお前のせいだと言ってくる者というのは、自分を責める意識の化身なのだ。
お前にこんなにも傷つけられた、それこそ顔が潰れるくらいに血まみれにされた、そしてお前こそが恋人との関係を終わらせる決定打となったのだ、という自分を糾弾する声そのものなのだ。
灯台もと暗しとはこのことである。
――そう、そうだよエリカ。それが罪悪感だ。君が君を責める意識そのものだ。君がずっと拭いされない、幾度と夜を越えても胸に残り続ける重さ。彼に対する後悔という錨。――
「……でも、それならどうしたらいいの。わたし、取り返しのつかないことをした。手の届かない場所へいってしまった彼に、何をしたらいいの?」
いつのまにか首の圧迫感は消え、エリカは添えられた手によって宙に浮いている状態になっていた。
目の前の者――もう一人の自分は、エリカから出る答えを、かけられる言葉を待ち望んでいるような眼差しを向けている。
――エリカ、そうじゃない。君がすべきことは償いじゃないよ。
君はショックで、起きた出来事を広い視点で見ることができていない。……忘れようとこころの奥底にしまいこんでしまったくらいだから、無理もないのだけれど。――
「……わたしが全部悪かった。それ以外に何があるっていうの?答えがそうじゃないのなら、いったい――」
エリカは目の前の自分の眼差しに気付きながらも目を背け、虚無に満ちた空に向かって叫ぼうとした。
だって、意味が分からない。
自分の罪悪感の正体は分かった。何を忘れようとしているのかも分かった。それで自分が何を思い、自分に対してどう思っているのかも分かった。分かったが故に自分が悪かったという答えしかでない。目の前にいる自分になんて言ったらいいか分からない。
それとも自分は悪くなかったとでもいうのか。全ては彼のせいだったというのか。そうだというのなら彼にどんな過ちがあったというのだ。
分かるなら教えてほしい。
自分が出した答え以外に正解があるというのなら教えてほしい。
――思い出して、エリカ。彼の言葉を思い出すんだ。
彼はこう言っていた。『君のことをこんな風に愛するなんて、恋するなんて間違ってた。もっと、違う形で愛するべきだったんだ』と。
……彼はね、君に対してこころのかけかたを間違っていたと言っているんだ。
でもね、彼が全て悪いとは限らない。そして君が全て悪いとも限らない。だって、全ての物事に白黒はっきりつくということはないんだ。
君が間違っていたところもあった。彼が間違っていたところもあった。互いの間違いが重なりあって、二人は別れる結末へ至った。
だからね、エリカ。君がすべきは償いじゃない。これは思い出すための旅だ。自分の過ちを思い返し、彼の過ちを思い返し、それから得た何かを胸に、前へ歩いていく旅なんだよ。――
エリカは息を飲み、ふともう一人の自分を見た。
何か訴えたいような、何かを待ち望んでいるような視線がこちらへ注がれている。
きっと、このもう一人の自分は、かけられるべき言葉を知っている。それを引き出す言葉も知っている。何を訴え、何を語ればエリカ本人が答えへたどり着くのか知っているのだ。
だがそうしないのは、エリカを導くためであろう。
自分を責める自分が何者なのか知り、その原因が何かを知ったなら、次はそんな自分を、起こったことの真相を受け入れる段階だ。
それなら何も語るべきではない。どうするべきかは明確で、それはエリカから事を起こさねばならないものである。
選択の時は来た。
受け入れるか、逃げるか。どちらかを選ばねばならないという分かれ道がすぐそこまで迫ってきていた。
「わたし……知らなくちゃ。わたしが何をしたのか、彼が何をしたのか……何が間違っていたのか、そもそもどんなことが起こったのか……」
エリカは首に添えられたもう一人の自分の手にそっと触れた。
明日にはゴミに出す、汚れたおもちゃ箱の隅っこにあった懐かしいおもちゃのような、どこかひんやりとしてほこりっぽい感触がした。
見ないふり、気づかないふりをしてきたからだろう。そんなに昔のことではないのにそうなってしまったのは、あまりにも辛いからとこころの奥底におしこんでしまったからだ。
別にそれが完全に悪いことというわけではない。今この状況におかれたエリカ本人はそれを悪いことと思うだろうが、人のこころというのはそういう風にできているので、辛いことを無意識に忘れようとしてしまうことは仕方のないことなのだ。
今受け入れきれないほどの感情の濁流で自分のこころが死なないように、今はとにかく生きて、成長した自分が改めてそれを受け入れることができるように作られているのが人間のこころだ。エリカのもそれに該当する。
本当に大切なのは、改めて受け入れることができるようになったときにどうするかである。
ほこりを被って深く傷ついたころのまま、時間がとまってしまっていた自分に――もう一人の自分に、何をするのかが、こころの夜明けを起こす鍵となるのだ。
「そして、あなたのこと、わたしのこと、受け入れなくちゃ。ずっと見ないふりをしてきたあなたのこと……」
もう一人の自分は、エリカの言葉を聞きながら、静かに目を細めた。そして、添えていた手をゆっくりおろし、エリカを地に優しく立たせる。
「これから、一緒に歩いていこう……わたしと共に、この道を、この旅を。」
エリカはもう一人の自分の背に腕をまわし、そっと抱き締めた。すると、もう一人の自分はふわりと微かな光を帯びて、その身を薄桃色の花びらへと変える。
花びらは柔らかな香りでエリカの頬を撫でながら、はらりはらりと流れ、踊り、やがてエリカの影へと溶けていく。
春の息吹に舞い上げられた桜の花びらに似た、それの表情はエリカには見えなかった。しかし、見ずともわかったであろう。目蓋の裏に淡く浮かぶその表情は何とも穏やかで、全てのことから解放されたような安らかな顔であった。
ずっと自分が自分に気づいてくれるのを待っていた。
暗澹としたこころの深いところから、自分に気づかない自分を見ているだけの日々が終わった。
そして、気づいた自分はここで得られるものを得て、次へ進もうとしている。
その背中を押す春風になれたのなら。
次の記憶へ、次の自分へ出会うための一歩を踏み出す勇気になれたなら。
何より、砕けて散らばってしまったこころに戻ってくることができるのなら。
ぬくもりを帯びた花びらとなって、冷えきったこころを少しでもあたためよう。
元々いた場所にこころの欠片が帰ってくる感触というのはそういうものだった。
胸のどこかが仄かにあたたまるのを感じたエリカはふと自分の手を見つめた。
その手で存在を確かめたそれは、抱き締めてすぐ、花びらとなって溶けたものであった。触れれば透けるような、掴めば砂となるような、夢のように消えてしまった自分のこころの欠片である。だが、手はその存在を覚えていた。微かなぬくもりが身体の末端である手にまで戻ってきた、その優しい血の巡りが先程の存在そのものであったからだ。
「……お疲れさま、エリカ。自分と向き合うのは結構体力がいるものだろう?」
後ろから声がしたので振りかえると、いつの間にかそこにいたのか、それとも今まで見えていなかっただけなのか、一歩先くらいにシスタスが立っていた。
彼はいつもこういう登場の仕方をする。エリカは慣れつつあった。
「……ほとんど、あなたのおかげだと思う。あなたの言葉がなかったら、わたしは今頃ここに立っていなかった」
初めてすんなりと出たお礼の言葉であった。シスタスもそれに気づいたようで、微かに眉を上げて微笑んでいる。
「君はそう思うだろう。でも、僕の言葉をああいう風に活用したのは君自身だ。与えられた言葉を活かすのも捨てるのもその人次第だからね。
つまり、君がここに立っていられるのは君が頑張ったからだ。もう少し自分を褒めても良いと思うよ?」
シスタスはエリカの頭に手を乗せようとしたが、手を止め、微かな量の髪を指で掬うだけにした。
「まあ、君がこのことをどう受け止めるかは自由だけど。とりあえず、これで一つ片付いたという感じかな。
そして……ここから長く苦しい旅になるだろう。」
そう言うと、エリカの目の前に白い扉が現れた。
おそらくこれがここの出口であり、自分たちの過ちを探る旅の入口なのであろう。
きっとこの扉を開ければまばゆい光に包まれ、痛みを伴う記憶を探る道を歩くことになるだろう。
まさにシスタスが言うとおり、長く苦しい旅になる。
だが、エリカに後退という選択肢はなかった。
自分の欠片を取り戻した今、この扉を開ける以外に道はない。
自分のこれまでを思い出し、自分の欠片を全てあつめなければならない……そんな想いが胸に灯り出していた。
「……長く、苦しいのは、そのとおりだと思う。でも、取り戻した自分のためにも、ここから目覚めて未来を生きるためにも、行かなくちゃ。」
エリカはしっかりとした足どりで扉に向かい、微かに震える両手でそれを開け放つ。途端、光が溢れ出してエリカの全身を包んだが、エリカは目を瞑ることなく前を見ていた。
白く、長い階段がある。
上へと続いているそれは前向きな雰囲気を醸しているが、本質はそうでないことをエリカはこころのどこかで見抜いていた。
沈んでいくような、潜っていくようなものが、そこにある。それでは矛盾しているようだが、この記憶の旅ではそれが真であった。
沈んだ果てに得たものが、潜ったさきに見えた景色が、真にこころを明るいところへと引き上げる。
ここで起きたことがそれをしっかり証明していた。
「……シスタス」
エリカはふと振り返り、シスタスに目をやった。
「ついてきて……くれるよね?」
強く進んでいく覚悟の隙間を縫うように出てきた竦みが言葉になっていた。
シスタスは目を細めて微笑み、それに応える。
「勿論だよ。
僕は君についていく。それこそ、ずっとついて離れない影のようにね。」
「……そう。ありがとう」
エリカはそれを確認すると、光の中へ入っていった。