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 目蓋の裏のまばゆい白が、段々と夜のような黒で洗い流されていき、落ち着いた頃あいでエリカは目を開けた。

 今度はどんな景色が待っているのかと、微かな期待とため息が混じったような、仄かに重い感情を抱いていたエリカだったが、期待はずれなのか、期待どおりなのか、目の前に広がっていたのは自宅のベランダから眺めることができるなんの変哲もない夜景であった。

 宿の広告に載っているような立派な夜景ではない。前述した通り、綺麗というわけでもなく、凄惨な、というわけでもなく、本当にどこにでもあるような――まさに、家々と少しばかりの木々、地平線のあたりにある山と特筆することのない夜空で構成されている――普通の景色だ。

 ただ、そんな平凡な景色にも、一つだけ良い点がある。

 それは夏に上がる花火が非常によく見えるというところだ。

 花火が上がる時期になると、それをよく見ることができる場所へと皆が浴衣などでめかしこんでぞろぞろと向かっていくので、鬱陶しいことこの上ないのだが、このベランダから花火を眺めることができるエリカには無縁の話であった。

 人ごみに揉まれることなく、綺麗な花火をまったり眺めることができる。

 だから、エリカは夏が好きだった。

 独りで寂しい夜を彩って、少し明るくしてくれる。そんな気がするのだ。


 

「……エリカ、どうしたんだい、ぼーっとして。

 何か、思い出してた?」


 エリカがはっとして声のした方を見ると、いつの間にそこにいたのか、シスタスが自分の隣に佇んでいた。

 柔らかな茶髪が夜風でふわりと靡き、微かに細められたはちみつ色の目は、淡い星あかりをほんのりと宿してあたたかく、その光景はまるで映画のワンシーンのようだ。

 エリカは思わず綺麗、と口にしてしまいそうだったが、あわててその言葉を飲み込んだ。

 そういった褒め言葉というのは頭の中で思いはしても、実際に言葉にするのは照れ臭いというか、はばかられるというか、どうにも言葉にできないのだ。

 そういうことはきちんと言ったほうがいいとかそういうう意見もあるが、それはそういったことを言える人はできるという話であって、自分には到底できそうにない。

 だからエリカは、ばつの悪そうな顔をして、シスタスの問いに対して首を縦に振ることも、横に振ることもできずにうつむいていた。

 しかし、シスタスはそんなエリカの態度を意に介さず、いつものようにニコニコと笑って見せる。

 この男の対人能力はどうなっているのだろうか。世界大会にでも出したらトロフィーでも持って帰ってくるに違いない。


「ふふ、黙っていては何も伝わらないよ。

 あのときちゃんと言えていたら、伝えていたら……って後悔するかもしれないしね。とはいっても、それを実感するのは人に言われたからじゃなくて、自分でその場面に立ちあったから、なんだけども。

 まあ、君が何を考えているのかは大体察しがつくから、今はあんまり気にしなくていいかもね。」


 シスタスはベランダの手すりに肘をつくようにしてもたれかかり、星が幾ばくか散らばっている夜空にさらりと視線をうつした。


「それにしても……こういった夏の夜は、虫刺されに気を付けないとね。

 蚊取り線香を焚いておかないと、あちこち痒くなってしまう。

 まったく、血を吸うときは教えてほしいものだよ。」


 シスタスがそう言うと、蚊取り線香の香りがつん、とエリカの鼻腔を刺激する。

 ふとベランダを見渡すと、床の隅の方に白い豚の形をかたどった陶器が置いてあるのが目に入った。その中には深緑の渦巻きが小さな朱色の明かりを灯していて、ほたるの光のような柔らかな光を帯びつつ、夜の闇のなかでひっそりと、細く長い煙をたてている。

 毎年花火を見るときはこうして蚊取り線香を焚いていたような記憶がエリカの脳裏をよぎった。

 

 夏の夜は日中よりも気温が下がり、多少暑さがましになることがある。

 そんな日は風が冷たいと更に良い。開けた窓から少し涼しげな風が入ってくると、何となく心地が良くて、夏は夜と言われる理由がどこか分かるような気がするのだ。

 しかし、そんな心地よい夏の夜に血を吸いにくるのが蚊である。

 奴らは隙をついて血を吸ったついでに痒みというなんとも不快なものを残していく。これらを回避するには蚊取り線香を焚くしかないのだ。

 

 幼いころはひどい虫刺されにあって、あちこち痒くなったものだが、母が使っていた電気式のをこっそりくすねてきて、ようやく虫に刺されることなく花火をみることができたのを覚えている。

 それがばれたときは、鼻血がでるまで叩かれたが。

 その後はしばらくまた痒さに見舞われることとなったわけだが、押し入れのなかを捜索しているうちに、奥の方に追いやられていた蚊取り線香を見つけたことによって今度こそ虫刺されから解放された。

 そのときは手をうって喜び、母が煙草に火をつけるときの動作を一生懸命真似て、燃料が微かに残ったライターで蚊取り線香に火をつけたのを今でも鮮明に思い出すことができる。

 今でこそ、こんな風に陶器のホルダーに入れて蚊取り線香を焚いているが、”彼”がくるまではわりと苦労していたのだ。

 こうしていられるのも”彼”が色々と買ってくれたりしたからであり、”彼”がこの事情をすんなり受け入れ、少しでも不自由なくできたら、と様々なことをしてくれたからである。

 そう、”彼”が――

 

 そこまで思い出して、エリカは眉をひそめた。

 とても世話になったはずの”彼”の名前がでてこないのだ。

 それどころか、顔すら思い出せず、どうにかこうにか記憶を辿ってもその顔にもやがかかっているようで、声もどんなものだったか思い出せず、全体的な容姿の雰囲気も、その輪郭すら思い出せず、存在そのものがあやふやになっているといっても過言ではないくらいだった。

 エリカはこめかみを指で押さえるようにして俯き、更に眉をひそめる。

 ――汗が額から伝っていくのを感じた。暑さのせいだろうか、こころなしか息があがってきているようにも思える。

 どうして”彼”のことをこんなにも思い出せないのだろう?

 これではまるで、わざと記憶に蓋をしているみたいではないか。


 エリカがそう思ったときだった。

 腹の底まで振動が伝わってきそうなくらいに大きな音が空いっぱいに広がった。

 エリカが物思いふけるのを止め、ふと顔を上げると、そこには満開の花火が夜空にキラキラと輝いていた。

 大輪の光はぱらぱら、という音をたてながら一粒、一粒、夜空に溶けていく。

 星よりもきらびやかで目をひくそれは、永遠に夏の夜空を支配してしまいそうだった。

 しかし、美しさは永遠ではない。

 花火は自分が息を引き取る運命にあるのを察したのだろうか、目蓋を閉じるようにゆっくりと、静寂をひきよせて、夢のような一瞬の煌めきに幕をおろしていった。

 

 エリカは、その美しさについて誰かと話したことがあったような気がした。

 自分のことを誰よりも分かってくれて、自分の話を誰よりも聞いてくれて、自分の存在を誰よりも認めてくれて……そう、母親よりも、ずっと、ずっと深く、広く。

 そんな人と、孤独だった夏の夜の花火を見た気がする。


 

「――花火……綺麗だね、エリカ。」


 少し涼やかな夜風にシスタスの声が運ばれてくる。


「こんなに綺麗だけど、こんなにも一瞬だ。

 花というのはただでさえ儚いものだけど、花火はもっと儚い。こういった、打ち上げ花火なんかは年中みれるようなものではないしね。

 あんなに大きな音を立てて、あんなにたくさん輝いたというのに、暫くしたらそれが嘘みたいだ。少し、寂しいような気がするね。

 ……でも、日本人は昔から、儚いものが大好きだ。花火は、僕らのこころを奪うものなんだろうね。」


 エリカが視線を夜空から声のする方へと向けると、そこには、ふんわりとした癖のある茶髪を夜風で微かに揺らし、なんとも言えぬ表情でこちらを見つめているシスタスがいて、なぜだか分からないが、エリカは胸のなかを掻き回されるような、ぞわぞわとした感触に焦燥と動悸を混ぜた吐き気を味わった。

 エリカはどうしようもなく、溢れてくる名前の分からない感情に思わず一歩引き下がり、片手で口を隠すようにする。


「……あなた……何……?」


「何って、何さ。そんなに動揺して、顔がこころなしか青いんじゃないかい、エリカ。

 ……もしかして、また何か思い出した?」


 なんとも言えぬ、見るもの全てを魅了するようで、その全てをどこか拒んでいそうで、微かに寂しげな蜂蜜色の瞳。

 その雰囲気がエリカの記憶の鍵をあけ、鈍器で殴られたような痛みとともに忘れていた記憶がフラッシュバックしてくる。


 それは、男性と一緒にベランダで花火を見ていた記憶。

 今まで独りで見ていたそれを誰かと一緒に見られるのが嬉しくて、こどものようにはしゃいでいた自分を、ベランダではしゃぐと危ないからと優しい笑顔で抱き締めてくれた男性の姿。

 腕はそれなりに細いのに、その包容の感触はいままで経験したどんなものよりしっかりとしていてあたたかく、優しいものだった。

 このときはじめて、母がくれなかった温もりや自分と他人が確かに結び付いているという熱にあてられたと言っても過言ではない。

 そのときの湯船で揺蕩うような甘い眩暈は、焼き付くような鮮明さで、今まさにその現場にいるのだと錯覚してもおかしくないほどはっきりしている。

 そして、そのときにふわりと鼻をくすぐった、何とも言えない良い香りと蚊取り線香の匂いが混じった不思議な香りが、その男性の正体を暴こうと自分の鼻のおくに染み込み、遂には脳にまで侵入きて、記憶のなかの景色をだんだんとチカチカさせてきた。

 

 どこかで嗅いだことのある、その香りは。

 しっかりと抱き締めてくれる頼りのある、見た目の割にしっかりとした腕は。

 

 エリカ、と優しい声で呼んでくれる、男性の――

 ”彼”の正体は。


 エリカが頭の奥にある”彼”の記憶に微かに触れたとき、あの優しい声がはっきりとした言葉となって、エリカの耳によみがえってきた。


 

 ――エリカ、これからもずっと、こうやって花火を見られたらいいね――



 ほのかな希望を、うっすらとした夢を呟いたそれは、隠しきれない愛おしさを孕んだ、熱を帯びた声。

 そうだとしたら、”彼”の正体は自然と導きだされてくる。


「……恋人。

 わたし、恋人がいた。ずっと寄り添ってくれる……恋人が、いた」


 煙につつまれたように姿かたちも掴めなかった”彼”の正体の一部がはっきりとした。

 ”彼”はそばにいて、愛してくれる存在であったのだ。

 しかし、そうであるにもかかわらず、名前も顔も思い出せない。それどころか、”彼”の存在はどこか鉛のように重く、微かに感じる安らぎや愛おしさを潰しうるほどの重力を帯びていた。


「……思い出したんだ、恋人がいたこと。

 でも……それにしては浮かない顔だね。どうして?」


 シスタスの声は密やかで細いのにしっかりと届いてくる。細くも丈夫な鍵のようなそれは、こころの隙間にするすると入り込んでいくと、エリカの言葉を掻き立てていった。

 すると、こころの底に沈んで、眠っていた記憶の断片たちがつむじ風に舞い上げられたようになって、言葉にならなかった感情が、形にならなかった重力の名前が、だんだんと再生され、形成されていって、繋がって……

 ひとつになった答えが、遂にはエリカの口からぽろりと溢れる。


「……罪悪感」


 エリカは潤んだのを隠すこともせず目を見開き、ぎゅっと胸を押さえてシスタスをことをしっかりと見た。

 どうして罪悪感を感じるのかは分からない。しかし、この重力は全身に降り注いで、今にもエリカの骨肉をすりつぶしそうだった。

 これは自分の力ではどうすることもできない。

 強いこころの芯などないから、それをもって耐えることもできない。

 足は今にも挫けそうだから、地面をとらえて、その重さに耐えることもできない。

 

 ――シスタスならどうにかしてくれるかもしれない。

 ふわりとして、ゆらゆらとした彼の言葉なら、このどうしようもない苦しみを和らげてくれるかもしれない。

 何かを知っていそうな彼なら、何かしらの解決策を持っているかもしれない。

 そんな思いで、エリカは視界が霞んでいくのも気にせず、目頭におしよせてくる熱のままに、すがりつくような視線をシスタスに向けた。

 それに当然気づいているシスタスは暫くそのままであったが、やがて静かに目を細めて、微かに低い声で呟く。


「……エリカ、君のそれをどうにかできるのは、僕じゃない。君だけだよ。

 それに、それをどうにかするには、君は悪夢のなかを歩いて、自分のことを、自分と関わった人のことを知らなくちゃいけない。」


 シスタスは一度ゆっくりとまばたきをすると、しっかりと息を吐いてから、つま先でベランダの床をつついた。

 すると、つついた床にパズルのピースのような亀裂がはいり、徐々にぽろぽろと剥がれ、落下していく。

 それがあらかた終わると、下へと続く階段が姿を現した。そこは非常に暗く、深夜の空よりも深い色をしていた。

 いつも現れる上へと続く階段がある扉とは真逆のそれはきっと次の場所へ繋がっていない。シスタスの言う、悪夢への入り口なのだろう。


「……これは、思い出すための旅なんだ。

 この先には僕もついていくけれど、きっと君は僕の姿を見ることはできないだろう。だって、君は君を見るために行くのだからね。」


 シスタスは真剣な眼差しでエリカを見つめ、手を差し出した。


「この手を取るか否かは君しだいだ。でも、どこへ行ってもいずれはここに行きつくし、ここを避けては元の場所へは戻れない。

 ……僕は、君へついていく。見えなくなっても、さわれなくなっても、君が元の場所へ戻るまで、そばにいるよ。」


 エリカはシスタスの目と差し出された手を交互に見て、もう一度階段を見る。

 深く、暗いそこからは、真っ黒な手が伸びてきて、足首を掴み、二度と戻れないところまで引きずりこんでしまいそうな重たい不安が溢れている。

 罪悪感や自分自身がそこにあるというのだから、そういうものであって然るべきなのだろうが、理解はできても身体はそう簡単に動くものではない。

 しかし、それでも行かねばならない。

 本能は既に告げている。そこへ行けと。その手をとれと。思い出さなければならないことがそこにあるというのなら、足が震えていても一歩踏み出すしかないのだと。

 勿論、ここでの選択は自由であるのだから、逃げても構わないし、彼と現実逃避するためにどうでも良いことを話していたって誰もエリカを責める者はいない。

 しかし、ここで立ち止まればきっと、シスタスの言うとおり、同じ場所を何度も巡ることになる。何度もここへたどり着き、その度にこの選択をせまられるのだろう。

 それなら、立ち向かうべきときは今だ。

 エリカは鼻をすすって、シスタスの目を見据えると、差し出された手をとってしっかりと頷いた。


「……行く。」


「……分かった。

 次第に僕の姿は闇にとけて、この手の感触さえ消えてしまうだろう。それでも、僕は君の手をしっかりと握っている。そのことを忘れないで。」


 シスタスはそよ風のような緩やかな流れでエリカの手をひき、エリカもそれに従ってゆっくりと、階段へと歩を進める。

 扉の先にある階段は明るすぎて見えなかったが、ここは暗すぎて見えない。どちらの方が不安かと聞かれれば間違いなくこちらの方が不安であった。

 一歩一歩降りていけば、その度に胸が圧迫されるような息苦しさや、頭に重く響いてくる耳鳴りが増していくのも不安を掻き立てる要因の一つだが、この先にどんな悪夢が待ち受けているのかという恐怖が一番大きかった。

 耐えられるのかどうかも分からないし、どれだけ大きな出来事が待っているかも分からない。

 だが、それでも行くと決めたのだ。

 エリカはしっかりと息を吐いて、シスタスの手のぬくもりを便りに一歩ずつ階段を降りていった。

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