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――起きて、エリカ――
懐かしい声がする。
優しくて、柔らかくて、心地の良い声だ。
――起きないと学校に間に合わないよ――
強い眠気に負けそうな朝によく聞いたことがある気がするそれは、ふんわりとしたタオルで頬を撫でたときのような心地よさでいっぱいで、胸の底から安心感が溢れてくるような感触がするほどだ。
しかし、どこか恐ろしいような気もする。
二度と聞きたくない、というより、もう聞いてはいけないような、記憶の禁忌に触れてしまうような……
声の主が誰なのか、目を開けて確かめてはいけないと、頭のなかで警鐘が鳴っている。
――わたしは、どうしたら良いのだろう。
「起きてエリカ。僕だよ、シスタスだよ。」
夢見心地の揺蕩う感覚を裂くような、はっきりとした声がエリカの耳に届いて、エリカははっと目を覚ました。
身体を起こして周囲を見渡すと、先程までの暗闇が夢であったと思わせるような、自室の風景が広がっていた。
しかし、それは部屋が綺麗だったころの、だ。
部屋は照明がついていて明るいし、ゴミ箱の中はティッシュでいっぱいではない。
ハサミの刃を立ててつけた壁の傷もなければ、埃を被った鞄もない。
部屋の雰囲気がまだ明るかった時代の風景がここに広がっていた。
「随分とうなされてたみたいだけど、どうしたんだい?
……悪い夢でも、みた?……最近暑くなってきたせいかな、寝苦しいときが多いよね」
エリカの枕元近くに腰かけていたシスタスは、エリカの前髪にそっと手をのばし、優しい手付きで目蓋にかかっていた前髪を外側へと流した。
「こう暑くなってくるとアイスとかかき氷が食べたくなってくるね。でも、冷たいものって一気に食べたりするとさ、お腹を壊しちゃったりもするから……何だかもどかしいな。
こうなると、適度に冷やした果物……特にスイカなんかが一番食べたいと思うかもしれない」
シスタスは静かに目を伏せ、何かを思い出し、それをなぞるような、どこか上の空な様子でエリカの髪の毛をゆっくりと撫でる。
「……いつだっけかな。スイカを食べたときは……種をどこまで飛ばせるかとか、そういう遊びをしたよ。
さすがに最近はやらないけどね。もう、誰かの目があるから、見られたら恥ずかしいし、子どもじゃないし……」
エリカは、指で弄ばれる髪の毛先をぼんやりと眺めながら、次第に暗く落ちていくシスタスの声を聞いていた。
そして、そんなシスタスの様子を少し疑問に思う。
そんなに暗く語る内容なのだろうか、この話は。
こういった話は、多くの子どもが通る道であるし、たわいもない、特筆すべきところも思い入れのあるようなところもない話であるはずだ。
それなのにどうして、未だに痛む傷痕を晒すような、ほの暗い記憶を掘り起こすような言い方をするのだろう。
つくづく、シスタスには謎が多いと思わされる。
だが、彼にも何かがあるのかもしれない。
人間、誰にでも蹲って顔を両手で覆ってしまいたくなるような記憶や、感情のわだかまりがあるもので、それはエリカとて同じである。
エリカも随分と長い期間、そういったものに悩まされてきた人間であった。
母親に装飾品として扱われ、碌に会話もしてもらえないまま過ぎていく毎日に、同級生にはとてもじゃないが明かせない、鈍く、重苦しい痛みを感じていた。
もしかしたら、シスタスにも似たようなことがあったのかもしれない。
似た者同士、というヤツなのではないだろうか。
そう思ったら、エリカの口から無意識に言葉がぽろりとこぼれた。
「それと同じようなはなし、お兄ちゃんもしてたような気がする。……定かじゃないけど」
シスタスはその言葉に、エリカの髪の毛を弄る手を止めて、目を見開いた。
虚を衝かれたような、シスタスにしては珍しい表情で暫くそのままであったが、シスタスはすぐに落ち着きを取り戻し、何度か瞬きをするといつもの優しい微笑みをエリカへと向けた。
「……そっか。お兄さんにも、そういう……時代があったんだね。
そっか……そっか。」
エリカは首をかしげた。
何だか含みがあるような言い方だ。シスタスと兄には何の関係もないはずなのに。
「ところでエリカ、思い出したんだね、お兄さんのこと」
シスタスは突然、そんなことを言い出した。
兄は家族なのだから、覚えていて当然だろう。
それなのにどうしてそんなことをいうのだろうか。
まるで、今まで兄のことを忘れていたみたいではないか。
シスタスはそんなエリカの腑に落ちない表情を感じ取ったのか、こう続けた。
「だってエリカ……君はお兄さんの名前とか、顔とか……思い出せるかい?
家族、だったんだろう?」
エリカはふと視線を左下に向けて兄に関することを思い出そうとした。
家族だったのだし、毎日一緒にいたのだから、思い出せて当然のはずだ。
顔なんて当然、声や仕草や思い出だってぱっと思い出せるはずだ。
しかし、そうはならなかった。
いくら思い出そうとしても、思い出も、声も仕草も、顔だって思い出せない。
ただ覚えているのは、自分に兄がいたということだけで、しかもそれを思い出すと、何だか胸の奥で罪悪感のようなものがくすぶるという、仄暗い思いがひっそりとそこにある。
まるで、いままで存在すら忘れていたような、存在したことをなかったことにしていたような気がして、それは本当に記憶からすっぽりとくりぬかれていたといっても過言ではないほどだった。
なぜ、家族のことなのに、こんなことになっているのだろう?一緒にいたはずなのに、どうしてこんなにも簡単に忘れることができたのだろうか。
エリカは自分に対してゾッとするような寒気を感じた。
「ね、エリカ。覚えていないでしょ。
名前も、姿かたちも、声だって思い出せない。」
シスタスはエリカの目の前に来て、音もたてずにしゃがむと、エリカの顔を覗き込んだ。
「でも大丈夫。それを……それらを思い出すための旅なんだ、これは。
だから安心して、エリカ。君なら思い出せるよ。必ず、ね。」
シスタスは向日葵のようにまぶしい笑顔でそう言った。
エリカはそう言われるとなんだか安心できるような、その通りに思い出せるような気がして、自然と素直に頷く。
すると、部屋のドアがひとりでに開いて眩い光を床に広げた。どうやら次の場所へ向かうときが来たらしい。
それでもベッドから離れられないエリカに、シスタスはそっと手をさしのべる。
眩しい光に照らされても、優しく、柔らかな輪郭を描く、導きの手。
しなやかなようで、しっかりしている、頼りのある感触の手。
エリカはそれに気づくと、俯いていた顔を上げ、何気なくその手を取ると、ベッドから降りて、シスタスと共にドアの方へと歩き出していった。