3
目蓋の裏まで届く光が段々と和らいでいくと、それと入れ替わるように、エリカの耳にテレビの砂嵐のような音が広がってきた。
しかし、それはよく聞けば、そういった雑音ではなく、数多の細かなものが地面や屋根を打つ音だということが分かってくる。
ぱちぱち、ざーざー、傘が欲しくなるような、小さな音の集団、はっきり聞こえるまでに大きくなった、ありとあらゆるものを打つ音。
ここまで分かれば正体は見ずとも明らかだ。
エリカが目を開け、あたりを見渡すと、そこには雨の昇降口の風景が広がっていた。
随分と見慣れたような、久しぶりに見るような高校のそれには雨よけの屋根がついており、こんな雨の日には、皆がここで雨に対して文句を言いながら傘を広げるのが恒例となっており、雨と人のざわめきがあたりいっぱいに散りばめられいて、もやっと空気が淀んでいたのを覚えている。
今は他の誰もいないので、ここにあるのは雨の音だけだが、そのような日常だった記憶を思い出すと、いまでも平和的な喧騒が脳裏に浮かんで、幻覚としてうっすらと見えてきそうだ。
それは触れられはしないが、実際にそこにあると思えるくらいに鮮明で、苦いようで懐かしい。
しかし、そんな場所に今さら何の用があって扉は自分をここに導いたのだろう。
当然傘も持っていないのでそれを明らかにするための散策もできないし、シスタスの姿も見当たらない。
「――傘と僕をお探しかな、お嬢さん」
激しい雨音を、まるで上から垂れた布を手でのけるように優しく裂いてはっきりと届く柔らかな声。
エリカがはっとして正面を見ると、そこには深緑色の傘をさしたシスタスが黒い傘を持って佇んでいた。
仄かな逆光を纏って、柔らかな輪郭を持ったそれは、うっすらとした影で彩られた表情を和やかに見せている。
それにしても、いつの間にそこにいたのだろうか。
先程まではいなかったはずだ。
「……そんなに驚いてどうしたんだい?
僕はいつだって、ついてくる。そう言っただろう?」
優しく微笑んでシスタスは傘をエリカへと差し出す。
エリカはそれを受け取りはするが、シスタスの発言に関してはそういう問題ではないだろうと思っていた。
どうして最初から見えるところにいないのだろう。
急に現れてはどんなに優しい表情をしていようが、ホラーの演出と一緒だ。
これがゲームであったらコントローラーを投げていたかもしれない。
「……もしかして怒ってる?でもゆるしておくれよ、傘を持ってきてあげたんだから。」
道端に咲く淡い色の花を思い起こさせるような笑顔でシスタスはそう言うと、後ろへと振り向いて歩きだしていってしまった。
また扉を探しにいくのだろう。こちらの意思は確認せずに。
自由奔放だ。なんだか振り回されているような気がする。
しかし、こうでもしなければ自分も動かないだろうとも思った。
こちらは両親のノックの音も無視して、怒声の呼び掛けすら無視して、部屋に引きこもり続けたこともある人間だ。今でも食事や排泄といった必要最低限のこと以外では部屋から出ない。
それをこうやって連れ回すのだから、シスタスには何だか不思議な力でもあるのだろう。
エリカは首を微かに傾げながら傘をさして雨のなかへ歩みだした。
・ ・ ・
傘に雨粒があたる音を聞きながらシスタスの隣を歩いていると、紫陽花が咲いているのが目に留まった。
小さな花が集まって手のひらほどある大きさになったそれは、ワインレッドのような色合いのものから菫色のものまであり、薄暗い雨の日でもそこだけ晴れの日と変わらないような鮮やかさを纏っている。
特にワインレッドの色合いは一際美しかった。赤紫色よりも鮮やかでみずみずしく、赤色より落ち着きがあって深みがあり、血潮のような沸き立つ雰囲気を孕みつつ、暮れの窓際に身を寄せる乙女のような落ち着きをもっている。
エリカが足をとめてそれに見入っていると、それに気づいたシスタスも足をとめた。
「綺麗だよね、紫陽花」
シスタスはエリカの顔を覗き込んでにこりと笑う。
「咲く場所でいろんな表情を見せてくれるからか……移ろいなんて花言葉があるけれど……
とてもかわいらしい花だ、まるで花嫁が抱えるブーケみたい。僕はこういう花、好きだな」
シスタスは紫陽花に歩みより、花にそっと触れる。
「それに、小さな花がたくさん集まって一つの花になっている。
――まるで、家族みたいだね?」
シスタスが目を細めて囁くようにそう言った時だった。
突如エリカの目の前が暗くなる。
何の前兆もなく起こった異常に目を白黒させたエリカはその拍子にさしていた傘を落としてしまった。
手から滑り落ち、転がった傘は音も立てずに暗く、闇に染まった地面に溶けていき、ずぶずぶと沈むように消えてしまう。
あんなに聞こえていた雨音もいつの間にか消えており、今ここに広がっているのは静寂のみであった。
エリカは慌てて周囲を見渡せば、そこは果てのない暗闇であり、今までそこにあった紫陽花もシスタスもいない。
それどころか、今まで辿ってきた道も、当たり前のようにあった空も、風も何もかも闇に飲まれてしまったのか、無くなって、全てが黒になっていた。
どうしてこんなことになったのだろうか?
シスタスが「家族みたいだ」と言ったのをきっかけに急に周りの景色が一変してしまったのだ。
意味が分からない。どうしてそれがきっかけなのかも、何もかも変わった理由も全く見当がつかない。
だって、何の変哲もないただの紫陽花を見た感想であったはずだ。シスタスの言葉や表情を思い返してみても、どこにも変わったところなどない。
それなのに、何故――
エリカの背筋に多足の虫がゆっくりと這うような、ぞわりとした悪寒がよぎる。
胸は何者かの両手でじわじわと締められているように苦しい。
何故かそれを追及してはいけないような予感が走る。
追及したら後悔するような――自分の目を潰して、全て放りだして逃げてしまいたくなるような気がするのだ。
だが、それを振り払ってその先にある何かを見なくてはいけないような気もする。
そう、それはまさに「戻らなきゃいけない」という感覚だ。
そういった思いが、こころのどこかから呼び掛けている。
その小さな叫びが、もう少しで耳に届きそうになっている。
――その言葉をくれたのはいったい誰だっただろうか?
エリカはふと振り返り、暗闇に溶けた地面を見つめた。
そこには一枚の写真がおちており、闇に溶けずにずっと留まり続けている。
エリカはゆっくりと深呼吸をしてから、それに手を伸ばした。
写真には顔が黒く塗りつぶされた二人の人間が写っている。
顔の一部ですら確認できないほどすき間なく塗りつぶされているため、それが誰なのかはさっぱり分からなかったが、なんともいえぬ既視感がその写真にはあり、エリカはもう少しで思い出せそうで思い出せない、歯がゆい感覚を覚えた。
そして写真を裏返すと、そこには殴り書きの文字が書かれている。
エリカはそれを見た瞬間、頭を強い力で殴られたようなショックを受けた。
まるで見てはいけないものを見てしまったような気分だ。
赤いインクで、まるで血文字のようなそれは事故現場でも写したような雰囲気を醸しており、見るものの目を背けさせる力を持っている。
だが、もちろんそれはただの文字であり、グロテスクな写真でもなんでもない。
ただ――
わたしたちは間違っていた
と書かれた、たったそれだけの文章だ。
――心臓が脈打つ音が聞こえる。
エリカの呼吸は忙しなくなり、頭のなかは真っ白になっていって、冷静な判断ができなくなっていた。
気づけば手のひらからも汗が出ており、指は震えている。
ただの文章と塗りつぶされた写真でどうしてこんなパニック状態になるのだろう?
こんなの何の手がかりにもならないだろうに、頭のなかではこれが重要なものだと訴えているような気がしてならない。
何だか忘れてはいけないような、しかしそれを一切合切捨ててしまいたいような、矛盾した強い感情が衝突しあい、自分の感情が理解できない状態にある。
――これは、何を訴えているのだろう?
――自分は、何を忘れているのだろう?
エリカは重く渦巻くような疑問を抱きながら意識が遠のいていくのを感じ、それに抵抗しつつも、どうしようもなく目蓋をゆっくりと閉じていった。