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 小鳥たちが青々とした空を飛び交い、元気に声を響かせる朝のことであった。

 あたりはつつじやポピーが咲いて風景が鮮やかになってきた頃で、街の家々に当たる朝日も洗いたてのように白く、眩しく、屋根の上でちょこちょこと跳ねるようにして歩くすずめたちの羽はそれを反射して少しきらきらとしていた。

 空は春のころより綺麗に見え、白い雲は透き通った青のグラデーションに映えている。絵の題材にするにはうってつけであろう。

 気温は春より少し暑く、夏のように蒸し暑いわけではなく、季節の変わり目を感じさせるような心地よい暑さで、出かけるときは春用のコートはもう脱いでもよいだろう、と思えるくらいだ。

 夏が来る。

 誰もがそう思いそうな、そろそろ麦茶を用意しておきたいような初夏の朝は――多くの人々が多少おっくうに起き上がるだろうが、いい朝だと思えるくらいに美しいものであった。

 冷えた水でも飲めば気分は少し良くなって、二度寝したい気持ちをこらえて朝食を食べにむかえるだろう。

 しかし、そうでない者もいる。

 特にエリカという少女はそうであった。

 起床時間を告げるアラームが先程から3回は鳴っているというのに、それを止める気配もなく、寝返りをうつこともしない。

 音は察しの通り、大変大きいので聞こえているはずなのだが、本当に深い眠りについているのか、それとも聞こえないふりをしているのか。

 それは定かではないが、目覚めの朝日が窓に差し込み、カーテンの間を抜けて、部屋に一筋の光の線を描き、エリカの目蓋に当たると、さすがに眩しかったのか、ようやく睫毛をぴくりと震わせた。

 アラームのけたたましい音と目蓋直撃の朝日でやっとエリカは腫れぼったい目蓋をゆっくりとあけ、怠そうに身体を起こして何気なく周囲を見渡す。

 まだ薄暗い部屋の床には睡眠薬の入っていた空の箱と、冷蔵庫から盗ってきたお酒の空き缶が転がっていて、これが女子高生の部屋だと聞いたら、誰もが眉をひそめそうな有り様であった。

 ゴミ箱には丸めたティッシュが沢山入っていて、周りにはいい加減に投げたからか、狙いが外れてゴミ箱に入ることのなかったティッシュがちらほら落ちている。

 教科書がたくさんつまった鞄は倒れ、中身がこぼれそうになっており、それは今日の時間割りに添って準備されていないようだった。


 エリカは寝癖がついたままの長い髪の毛へ乱暴に、時折絡まった髪の毛に指が引っかかるのも気にしないで手櫛を通し、ベッドから降りてアラームを叩くようにして止めると、部屋の出口へと足を引きずるようにして向かった。

 冷水で顔を洗いたい気分だった。そうしたら憂鬱な気分が少しでもましになるような気がしたからだ。

 冷水で顔を洗ったところでどうにかなるほど簡単なことではなかったが、少しの希望でもいい、ほんの少しすっきりすればそれでよかった。

 エリカはドアノブに手をかけて、ため息まじりにドアを開ける。

 

 しかし、ここで予想もしなかったことがエリカに起こった。

 いつもなら当然、部屋からでたところには床があるのだが、どういうわけか、その床がなかったのだ。

 足は空を切り、身体は傾いて体勢が崩れ、エリカは状況を理解する前に奈落の底へと落ちていく。

 あり得ない事態に悲鳴すらあげることもできずに、身体が空気を切っていくのを感じながら真っ直ぐ落ちて、みるみるうちに見知った自分の家の風景は遠ざかっていった。

 思わず手を伸ばしたが、それが何の抵抗になるはずもなく、あっという間にあたりは深夜のような暗さになっていき、元いた場所はもう既にか弱い星明かりのようになっている。

 エリカは突然起こった非現実的な現象にどうすることもできず、枝からぷつりとこぼれ落ちた果実のように落ちることしかできない。

 だが、思考というのは気まぐれなのか、空気を読まないのか、こんなときに頭にちらついたのは、このまま落ちていって、たどり着く場所がかたい地面だったりするのだろうかとか、このまま死ぬことができるのだろうかとか、そういったことであった。

 それでいて、このまま落ち続け、自分はどこにもたどり着けないのではないかという考えも浮かんできて、呆然としたような、仄かな絶望が音もなく広がっていくような――はっきりしない、白でも黒でもない、灰色な気持ちだった。

 

 どうしてそうなのかはよく分からない。

 本当は知っているような気がするが、今は分からなく――次第にエリカの胸には、いっぱいの夜が蔓延るような重たい気持ちがやってきて、その重力と絶望感でエリカの目を瞑らせた。

 何だか似たような気持ちを味わったことがあるような気もしたが、今となってはそれはどうでもいいような気もしていて、思い出すのが億劫だ。

 そうして、棺の中に入れられた亡者のようになったエリカが何の抵抗もせずに、ずっとずっと落ちていくと、全身を強く打ったような衝撃と呼吸を止められた苦しみが襲いかかる。

 両耳には生々しいほどの水音が押し寄せ、ぬるい温度の圧力は胸をじわじわと締め付けた。それはプールで足を滑らせて溺れかけたときの苦しみにそっくりで、ますますエリカのこころを沈めていく。

 抵抗を諦めたエリカの気持ちとは裏腹に、身体は酸素を求めて浮かび上がろうともがいたが、その行動には事態を好転させる効果もなく、無駄に体力を使うだけで、身体は深みへ落ちていくだけだった。

 意識は段々と遠ざかっていき、エリカの感情も同じように薄くなっていき、なくなっていく。

 まるで人形になったようだった。

 自分の意思もなにもかも抜け落ちて、主の思うようになる。

 人として大切なものを放り捨てて、モノになる。

 普段なら首を横にふりそうなことであったが、この状態ではそれを受け止めざるを得なかった。


 しかし、僅かに残った意識をも手放そうとしたとき、変化が起こる。

 懐かしい匂いがふわりと香ったかと思うと、今までの苦しみが嘘だったかのように呼吸ができるようになって、全身を圧迫していた水も幻のように消えた。その上、落ち続けていた身体は何かに支えられ、地面に叩きつけられることもなく、落ち続けていることもなく、無事にそこに留まっていたのだ。

 エリカは突然のことに思わず瞑っていた目を開けて周りを見渡す。

 

 周りの景色は一変していた。

 あたりは家の風景でもなく、外の風景でもない。地も空も真っ白でどこまでも続いている、それだけで他はなにもない寂しい場所であった。

 唯一白でないところといえば、自分と自分を支える何かの、どこから射し込んでいるか分からない柔らかな光で作られたうっすらとした影くらいだ。


「……起きたかい?エリカ。」


 そして、エリカを抱きかかえるようにして支えるものがそっと、語りかける。

 それは人間の容姿をしていて、柔らかな印象を与える癖毛の茶髪をもった、蜂蜜色の瞳の男性だった。睫毛は少女のように長く、唇は桜の花弁を彷彿とさせて、どこか中性的だ。

 きっと、朝焼けのなかで微笑んだら、絵になるだろう。

 誰もがそう思えるくらい、この男性は儚いような美しさを纏っていた。

 エリカはこの男性をどこかで見たことがあるような気がしていた。それはどこで見たのかは分からないが、最近見かけたような――何かあったときにととっておいて、どこにしまったか分からなくなったものを思い出しているようなときの感覚と似ていて、思い出せそうで思い出せない。

 こんなに美しい見た目の人ならば、忘れることはないだろうに。


「……あなたは、誰?」


「……それは、君が思い出すまで僕から教えないほうがいいだろう。

 しかし……それまで僕のことをジョン・ドゥだとか、アラン・スミシーと呼ぶのは不都合だろうから……そうだ、僕のことはシスタスと呼んでおくれ。」


 シスタスはどこか寂しげだが、柔らかな微笑みを浮かべてそう言うと、エリカを丁寧に自分の腕から降ろし、地に立たせた。

 地に足をつけた感触は土とも似ておらず、石とも言いがたく、板の上に乗っているのに近い。靴下ごしに感じる温度はひんやりともしていないし、温くもなく、何ともいえなかった。


「さて、自己紹介も済んだことだし……後は登っていくだけだね。

 ここの扉は僕が案内するよ。ついておいで。」


 シスタスが手招きしつつ、歩きだしていく。

 だが、エリカはその場から動こうとしなかった。シスタスが言っていることが突飛で全く理解できなかったからである。

 それもそうだ。シスタスが教えたのは自分の名前――しかも偽名である――だけで、この場所についての説明はおろか、どうしてここに落ちてきたのか推測するための情報のかけらも語っていない。

 その上急に進みだして、それがどういう目的かも、どこへ向かおうとしているかも全く分からないのだ。ここでエリカが眉をひそめて硬直するのも仕方ないことである。

 しかし、何も言わずに硬直しているだけでは事は進みそうになかったし、シスタスも何も教えてくれそうにないので、エリカは首を傾げつつ質問をした。


「あの、登るってなにを……?というか、どうして……?

 それに、ここがどこだかもわからないし、どうしてこんなところに……」


「登るって……だってエリカ、君はここに落ちてきただろう?そしたら、登って元の場所に戻らないといけないんじゃないかな。」


 シスタスは歩みを止めて、空を見上げる。

 空といってもそこも真っ白で、果てがあるのかないのか分からないようなところだが。


「エリカ、君は戻らなくちゃいけない。君が過ごしたあの部屋に、ね。

 だから……まあ、色々とめんどうだろうけど……僕も一緒についていくから、細かいことは気にしないで行こうじゃないか。そうしたらそのうち、ここがどこだか分かるよ。」


 シスタスは優しげな微笑みをエリカに向けてそう言うと、再び歩き始めた。

 質問に対する回答としては疑問が残るどころか、回答になっているのか分からないほどだが、シスタスの様子から考えるに、さらに質問しても返ってくる回答は同じであろう。エリカはため息をつきたい気分だった。

 どうやらここで話していても答えは見つからないらしく、元の場所に戻るにはとにかく進むしかないらしい。

 エリカはあまり納得はできなかったが、ここで立ち止まっても仕方ないので、渋々まがらシスタスのあとをついていった。


 先述したとおり、ここは見渡すかぎりの白で構成されている。

 建物もなければ、草や木といった自然を感じさせるものすらなく、地の高低差だってない。

 唯一語るものがあるとすれば、地に仄かな影を描く原因となっている微かな光が、どこかから差している、それだけだ。

 どこまでも無で、平坦な空間。

 そんなところだから、歩いても風景が変化しないもので、進めているのか判断がつかず不安であったが、エリカは軽い足どりでシスタスの背中を追っていた。

 その背中は身体の割には一回り小さいような、猫背な訳でもないのに思ったよりも大きくないような、どこかうっすらとしていて、今にもこの白い空間に溶けてしまいそうだ。

 弱々しいという訳でもなく、頼りないというわけでもない。

 ただ、いつか夢のように消えてしまいそうな、蜃気楼の中へ溶けていってどこかへいってしまいそうな、なんともいえぬ寂しさがその背中から微かに滲み出ている。

 いつの間にか失踪してしまう人というのは、こういう人のことをいうのだろう。

 それなのに、なぜだろう。

 その背中を追っていけばなんだか無事に目的地へたどり着けそうな気もしていた。

 

 複雑だ。

 自分ははじめて会う男に根拠の分からないもの悲しさと安心感を抱いているのだから。

 よく分からない男であるし、知っていることを話そうとしないような男で、普通であればこれ以上仲良くなろうとも思えないような性格なのに、どうしてそんなことを思うのだろうか。 

 エリカはそんな意味の分からない自分のこころに舌打ちをしたくて、眉をぐっとひそめた。


 そうこうしているうちにシスタスは目的のものを見つけたようで、突然立ち止まり、何もない空間に手を伸ばして手首を軽くひねった。

 すると、何もなかったはずの空間に、突如四角い輪郭が描かれて、シスタスの手のあたりには丸いドアノブができる。

 シスタスはその現象を何とも思っていないような、平然とした動作で、突如現れたドアを開けると、エリカに手招きした。


「さあ、ドアも見つかったことだし、この先にある階段を登っていくとしよう。

 白い光に満ちているけど……進んでいけば大丈夫だ。不安に思うことはないよ。

 それに、僕も後ろからついていくしね。」


 開かれたドアからは朝日のような真っ白な光があふれでており、目がつぶれそうなほどではないものの、目を細めなければならないくらいの明るさだった。

 こんな視界の悪い状態で階段など登れるわけがないのだが、シスタスが言うには進んでいけば大丈夫らしい。

 普通では信じがたいような話であるが、いままでの話から察するに、そうしない限りはずっとここから出られないのだろう。

 エリカは大きく息を吐いて、半ば当たって砕けろという気持ちで光の中へと歩いていった。


 やはりかなり眩しく、薄目の視界はお世辞にもいいとは言えない。そもそもどこもかしこも真っ白なので見えていようが見えていなかろうが、進んでいるかも分からないのだが。

 しかし、シスタスの言うとおり、進んでいけば順調に階段を登っているような気がした。

 これといった根拠はない。

 なんとなく、階段をのぼっているような感触がする……それだけだ。

 進んで、進んで、やがて薄目を開けるのもやめて、目蓋を閉じながら進んで。

 目蓋の裏までうっすら白いなかをひたすら進み、いつまで進めばよいのかと不安になったとき、白い光の明るさが弱まったような気がして、エリカは、はっと目を開けた。


 目の前に広がっていたのは、よく行っていた近所の図書館の風景だった。

 夏休みの午前は良くここにきて、勉強しながら色んな本を読んでいた記憶がある。


「……さて、最初の部屋は……図書館だ。

 せっかくだから、何か読もうか、エリカ。」


 シスタスはエリカの後ろから静かに歩み出て、目の前までやってきて、少し楽しげに微笑んでみせた。

 


 

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