4-15 運命の刻
御茶ノ水駅から地下鉄で二十分。
半蔵門駅で降車し、さらに徒歩十数分。
いまは枯れ木が林立するだけの桜並木。
時おり横を駆けていくジャージ姿の人々。
通称、皇居ランニングコース。
一周がちょうど五キロにあたり、信号に足止めもされることもない。そのため健康志向の高い方と気まぐれダイエッターたちに広く愛されている。
そのランニングコースを北上し、代官町通りの交差点で立ち止まる。
昼間の都心は人通りも少ない。
俺は近くの石塀に腰掛け、行き交う車の群れをぼんやりと眺める。
ここは――降魔の交通事故現場。
事故に遭ったのは早朝。
バイクで都道を南下中、隣車線を走っていた車と接触。そのままバランスを崩して横転。
頭を強打した降魔は病院に運ばれ、半日以上にわたる手術の末、翌朝意識を取り戻した。
二代目の、魂をその体に宿して。
ここで事故に遭ったことは知っていた。だからずっと避け続けていた。
もしこの場所を通ったら降魔の魂を引き寄せてしまうんじゃないか? 記憶が蘇り、俺の居場所はなくなってしまうんじゃないか? ……そんなことを恐れていたから。
それでも、俺はこの場所を訪れた。
訪れることが、できた。
紗々には昼休みの時間を見計らって、電話をした。
説得は言うまでもなく、困難を極めた。
……困難を極めた、なんて一言じゃ収まらないくらいに。
でも最終的には俺のやろうとしていることを、しぶしぶだけど理解してくれた。
「わたしはどこにも行きません。だからちゃんと帰ってきてくださいね?」
と、しっかりと念押しされて。
……実際、俺はとてつもなくひどいことをしていると思う。
今日はクリスマスイヴ。
そんな日に、俺は他の女のコを助けたいと約束をすっぽかしたのだ。伝えたいことがある、なんて前フリまでしておいて。
だから電話越しに浮かれた紗々の声を聴いた時、心が折れそうになった。
ああ。俺と過ごす時間をこんな楽しみにしてくれていたんだ。
そんな紗々をいまから突き落とさなきゃいけないのか……って。
でも、このままじゃダメだった。
俺はこれまで与えられてきたモノの中だけで生きてきた。
そこに俺の意志はない。意思のない魂にはなんの価値もない。《《だから俺に価値はなかった》》んだ。
これは夢見降魔だとか、薫を助けるとかそんな話ですらない。目を逸らし続けてきた自分自身と、向き合わなければいけないんだ。
近くの自販機で缶コーヒーを買う。
プルタブを引き、灼けるような苦みを流し込む。
……マッズ。
ブラックなんて、はじめて飲んだ。
だがこの体は一時期、ブラックだけを好んで飲んでいた時期があったらしい。
吐き出した息は白。
一陣の風に木々はざわめき、体は自然に震えあがる。
生きてる。
降魔の体で。
あの日、事故が起こらなければ俺は生まれなかった。
自分が他人の犠牲の上に立てる存在だとは、露ほども思わない。
でも、そうなった。
降魔は世界から排除され、俺がこの体を授かった。
これから先どうなるかは――これから決まる。
『……ったく、もう少し余命を楽しんだってバチ当たらないってのに』
突然、頭の中にそんな声が響いて来る。
『ま、いいや。わざわざ出向いたんなら相手してやるよ』
「……偉そうだな」
『実際に偉いからな。お前も俺の名前で随分好き勝手したんだろ?』
「おかげさまでな。今度なんか奢ってやるよ」
『ざけんな、それはオレの稼いだ金だ』
淡々とした声。
……もしかすると俺の声も、人にはこう聞こえてるのだろうか?
「降魔、なのか?」
『そうだよ《《二代目》》』
降魔はそう言い切る。
俺と、同じ声で。
降魔の愛飲していたブラック効いたのか、事故現場に出向いた甲斐があったのか。意外にも降魔と話す機会は難なく得られてしまった。
『いままでこの場所を避けてたチキン野郎が、いまさらなんの用だ?』
『今日はお前に体を返す日だって聞いてな。はやく来ればこうして話せないかと思って来てみたんだよ』
『それはそれは、殊勝な心掛けじゃねーか。わざわざ自分から返しに来たってわけか?』
「バカ、返すなんて言ってねーよ。……俺はそれを言いに来た」
『あ? なにヌかしてんだ、てめぇ』
降魔が、威圧するような声を出す。
『なにも生み出せないお前に、どんな価値があって言ってるんだ? その体でお前はどんな有意義な時間を過ごしてきた? その体を欲しいって言うんなら、オレより優れたところを語って聞かせろよ?』
「そんなものない。降魔の言う通り、この体はずっとお前の物である方が良かった」
『よくわかってるじゃねーか』
「でもお前は事故に遭って死んだ」
『……あ? 死んでねえし』
「お前が勝手に死んだから俺は生まれた、生まれたのは俺の意思じゃない。優れてるとか優れてないとか、そんなの関係ない。お前の行いが元で俺はいまここにいるんだよ」
『二代目が生まれたのはオレのせい、だから体は返さないってか? ……生意気な』
沸々と、苛立ちの感情が湧き上がってくる。
だが、この感情はオレの物じゃない。
『つーかお前。なんか都合よく考えてるみたいだが……その体から出ていくのは確定事項だぞ?』
「そんなことないさ。もし俺が追い出されるようなことがあっても、必ず連れ戻してくれる人がいる」
『ビビってるくせにイキがんな。もうオレはもうお前の中に”いる”んだ、お前の怯えははオレに直に伝わってきてる』
……緊張に体が硬くなっていくのを感じる。
最初から平和的な話し合いができるとは思っていなかった。
座れる椅子は最初からひとつしかない。
双方が所有権をゆずらない以上、俺たちはどうあってもその椅子を巡って争うほかない。
俺と降魔は命を懸けて互いを退け合う、殺し合わなければいけない相手だった。
『ともあれ、二年間大事に使ってくれてありがとな』
「――つっ!」
言われた瞬間、絞めつけられるような痛みが全身に奔る。
『体がお前の魂を追い出そうとしてるんだよ。オレを迎えるためにな?』
「……正気かよ。寝不足でバイク事故を起こすような魂なのにか?」
『お前はその体に二年居座った。だがオレはその体とは十七年の付き合いだ。体も良くわかってるんだろ。健康だけが取り柄のつまらないお前なんかイヤだってさ?』
「なに……?」
『もしオレの死因が不摂生の早死にでも、後悔はしねーよ』
降魔の愉しそうな声が脳裏に響く。
『その体を一番うまく使えるのはオレだ。才能を限界まで発揮し、一分の無駄もなく、同じ時間で人の数倍のモノを生み出す。いまのお前とは違う、骨太の生き方だよ』
これまでの積み重ねに裏打ちされた自信。それは俺が喉から手が出るほど欲しかったもの。
『短命だったとしても構わない、全力で自分の時間を走り抜ける、それがオレの生き様だ』
「……だから事故に遭ってもいいって言うのか」
『あ?』
「お前は愛されてただろ。あいにぃや三厨さん。そしてご両親に」
俺はずっと降魔になりたかった。
この体に向けられた悲しみを、少しでも取り除きたかった。
だが、どうやっても俺にはできなかった。
誰かが誰かの代わりをするなんて、できるはずがないのだから。
『そんなの関係ない、所詮は他人だろ』
「……なんだと?」
『罪悪感なく金を借りられる便利な弟。勉強しながら稼げる都合のいい仕事。子を持つことで普遍的な家族を演じられる自己満足。その関係を維持するために取られる、申し訳程度のコミュニケーション。……それを愛されてたなんて笑かすな』
「……お前、周りの人をそんな風に思ってたのか?」
『人間関係を言語化しただけだ。世の中はそうやって回ってる』
「なんでそんな穿った見方するんだよ。お前が事故に遭って周りがどれだけ悲しんだと思ってるんだ!?」
『吠えるなよ。面と向かって言うワケねーだろ。オレはもう一人の人格にそう言い聞かせただけだ』
……性格悪いな、こいつ。
本当にこんなヤツが、世間に求められたあの夢見降魔なのか?
『ま、いいや』
降魔がそう言うと同時、勝手に体が立ち上がる。
俺は言葉を口に出そうとするが……声が出せない。
『少し早いが――出ていけ』
降魔がそう言うと同時。
まるで世界が停電を起こしたように、辺りが真っ暗になっていく。
なぜ、どうして。
それは言葉にならず、思考にもならず、当惑にだけ変わる。
そしてなにも、考えられ……沈ん…………




