4-7 紗々の涙
「カズくん、夢見先生なんですか」
「……ああ」
「記憶が戻ったら、わたしのこと忘れちゃうんですか?」
「黙ってて、ごめん」
薄暗い部屋に響く、涙声。
部屋の隅で縮こまる、小さな背中。
カラオケボックスでの話は、すべて聞かれていた。
俺の過去、正体、そして紗々の元を去るための身辺整理。その全部を。
「どうして、教えてくれなかったんですか」
「……ごめん」
紗々の背中は、震えていた。
だがその震えは、怯えや寒さから来るものじゃない。
「わたしのこと、バカにしてるんですよね? 隠しておく方がわたしのためになる、なんてずっと思ってたんですよね!?」
「ち、ちが……」
「違いません! わたしじゃショックに耐えられないって決めつけて、みんなに相談して勝手に全部決めて……わたしはそんなに弱くて、頼りないですか?」
「そんな、ことは。でも……」
「じゃあ、どうして教えてくれなかったんですか!」
耳をつんざく、鋭い叫び。
……抉られるような痛みが、胸に奔る。
「カズくんのこと、知りたかった。教えて欲しかった。わたしだって……本物になりたかったから」
本物。
それは俺の求めた、理想の関係。
「それなのにカズくんは黙っていなくなろうとしてた。……それがカズくんの求める本物なんですか!?」
「……違う」
「じゃあ、どうして!?」
紗々の、言う通りだ。
俺のしようとしていたことは、裏切りのようなものだ。
収録に影響を出さないため、なんて理由でとった独善的な行いだ。
もちろん、俺だって紗々を悲しませたくなかった。
騙し討ちみたいな方法で傷つけたくはなかった。
本当は伝えたかった。
伝えることに意味を持たなくても、俺という人間のことを知って欲しかった。
だが自分に未来がないことを知ったいま……伝える意味を考えずにはいられなかった。
俺はかくかくしかじかで生まれた第二人格です。黙っててごめんなさい。
でも明日には第一人格に戻ります、さようなら。
そんなの、無駄に紗々を悲しませるだけだ。
だったらわざわざ教える必要、ないんじゃないか?
……違うよ。
それでも伝えてやるのが、本物だ。
本当に心を寄せた人に対する、礼儀だ。
俺はただ、自分の恐怖に勝てなかっただけなんだ。
「怖かったんだ。降魔であることを知られるのが」
肺いっぱいに溜めた息と共に、言葉を絞り出す。
「降魔のファンって聞いた時から、ずっと恐れてた。……話してる時の紗々、楽しそうだったから」
「意味、わかりません」
震える声を抑え、紗々が聞き返す。
「ファンであることの、なにが怖いんですか? 夢見先生と同一人物だって知ったら、カズくんがもっと素敵に見えるだけです」
「……そうは、ならない。俺を降魔として見るようになるだけだ」
俺は夢見降魔じゃない。
でも誰もが俺を降魔として扱った。降魔であることしか求められなかった。
そして記憶喪失であることを知ると、口を揃えてこう言った。
『早く、治るといいですね』
俺は、治らなきゃいけない人格だった。
二代目の自我なんて認められていないし、必要とされていなかった。誰にも求められなかった。
……でも相手に降魔だと知られなければ?
俺はまっさらな次元和平でいられるかもしれない。
「だから隠してた。……紗々には、俺を降魔で上書きして欲しくなかったから」
「……本気で言ってるんですか? わたしがカズくんじゃなくて、夢見先生を見るだなんて」
俺は返事をしなかった。
それを見兼ねた紗々は声を荒げる。
「カズくんに夢見先生なんか期待するわけないじゃないですか! バカなこと言わないでください!」
「……みんな、最初はそう言うよ」
「みんなって……みくりんだって、よくしてくれたじゃないですか!?」
「でも三厨さんは、降魔側の人間だ」
俺は、忘れない。
初めてファミレスで会った日の夜、電話口で嗚咽を漏らすほど喜んでいたこと。
降魔の無事を心底喜んでいた。
その時はまだ記憶喪失だと知らなかったから。
そして、つい数時間前。
記憶が戻ると伝えた時、三厨さんは真っ先に紗々の心配をした。
あいにぃに指摘されるまで、気付いてはくれなかった。
二代目の人格が消滅するという、本当の意味に。
「ひがんでるだけってのは、わかってる。でもちょっとした仕草とか、言葉尻ひとつとか、気づいたら全部拾ってる。そして俺はこう思われてる、って勝手に解釈しようとしてる。……止まらないんだ」
「それは、みくりんにとって夢見先生が大事な人だったから……」
「そうだな、仕方ないよな。……そうやって仕方なく、俺はこの体に生きることを許されてきたんだ」
同じ外見である以上、降魔との比較は付きまとう。
降魔のようにマンガを書けないのは仕方ない。
一緒に過ごした思い出を共感できないのも仕方ない。
俺は認めてもらったわけじゃない。
この体に住むことを、ずっと許されてきただけ。
「同じ外見に、異なる人格。言い換えれば魂が違うんだ。……ほら、ブイチューバーだって同じだろ?」
ブイチューバーの個性は、魂――演者に由来する。
ブルームの寿司好きは、紗々の好み。
ホムラが”ホの字”と口にしたのは、薫の口ぐせ。
演者が変われば発音も、好きな食べ物も、笑いのツボも違う。
外見は同じでも中身をすべて真似するのは不可能だ。
そして……元のファンは、新しい演者のファンにはなれない。
だって元の人格を含めてファンになったんだ。
同じ顔をしていても、魂が入れ替わってしまえば好きで居続けることは難しい。
『同じ顔の人を見て、のうのうと生きている新しい人格に嫌悪感さえ示すだろう』
『現に、俺はその事例を知っている』
「カズくんは、もしかして……」
紗々は、気づいた。
俺が初代を助けることにこだわった理由を。
俺は知っていた。
紗々がブルームの演者を辞めた場合、二代目が背負う業の深さを。
元の人格を知る人にとって、二代目とは侵略者だ。
初代を愛した人は、当たり前の顔で生きる二代目を愛せない。
二代目だって初代をないがしろにするわけじゃない。
だが負い目を感じて生きるのも初代に失礼だ、必然と二代目は笑顔で生きていこうと努力する。
だが初代のファンはそれを見て、腹を立てる。
まるで初代なんていなかったような振る舞いをしていると、憎しみを募らせる。
そして、排除に向かう。
お前はうまく二代目になったつもりかもしれない。でも初代のことは絶対に忘れないからな?
敵意を向けることで、初代との思い出を守る。
その主張こそが初代への愛の証明。二代目を認めることは初代の否定。
だから、魂の引継ぎは上手く行かない。
人間に人を愛する心があればこそ、彼らが二代目を認めることはない。
俺は両親とは暮らせない。
朝食後に歯を磨いていた降魔、朝食前に歯を磨く二代目。
その些細な違いに、彼らの心は耐えられない。
俺がブルームの魂を救いたかったのは、そんな悲劇を生み出さないため。
二代目が産まれ落ちることだけは、絶対に否定しなければいけなかったから。
――初代の魂が、一番いいに決まってる。
あれは誰から誰に向けた言葉だったのか。
俺は降魔の復活に抗わない。
初代の魂を求める声の数を、知っているから。
いまも無数のファンがDSの続きを求めている。
記憶を分かち合える、十七年の時を生きた魂を愛した人たちがいる。
紗々《ブルーム》の魂を肯定した俺が、この期に及んで泣き言なんて言えない。
赤子の涙を流していない魂に、祝福される未来がないとわかっているから。




